No.3

2018/11/19

「怒り の 日」

2011年、春。

私は怒りを覚えていた。改めて考えてみた時、その構造の馬鹿らしさにめまいを覚えた。
このようなことが、なぜ、許される?
金に、悪魔に魂を売るとは、このことをいうのだ。

引責辞任などと、世間では騒ぎ立てているが、ふざけるな、という話だ。

やめて、まことに、申し訳ない、それで済ませられるのなら、この世に、警察など、いらない。

謝って逃げ出すくらいならば、針のむしろに座ってでも、必死に収拾すればよい。胃に穴を開けようが知ったことか。
それよりも重い、過酷な、血を吐くような思いで必死で現場に残っている人間を、その場に残して、自分だけ悔悟の思いを抱いて立ち尽くしているだけでは、申し訳など立つはずもなかろう。

身を犠牲にしてもこの国の明日を守ろうと立ちはだかった彼らに比べて、この国の、組織の長となるものの、なんと愚かしく、救いようのなく、浅ましいことか。

欲に目がくらみ、なすべきことをなさず、他の人間の命までも金の悪魔に差し出した結果が、これだ。

これが天災などであるものか。

これが人災でなければ、なんなのだ。

災いしか招かぬ、薬にもならぬ、害でしかない。人の形をした災害とは彼らのことを言うのだ。

己の欲に盲んで、国の、幼子の、全ての国民の未来を何者かに明け渡した、その罪を、誰も裁かず、刑事事件にもしない。

ああ、本人はこの事故で職を失い、退職金も辞退したかもしれない、人生が狂ったかもしれない。
だが、本当に償うならば、そこで残らねばならなかったのではないか。逃げたのは、過ちだ。

己が責任を果たさなかった結果を見ろ。

己が、命を売り渡した結果を見ろ。

自分だけが可愛いのか。己が身だけが可愛いか。己だけ哀れんで過ごしていくのか。被害者は、どちらだ。

誰の命が失われようとも自分さえよければ、彼らは、よいのだ。

この災害で失われた命が行く先と、彼らが死した後に行く先が同じであってほしくはない。

誰も罪を問われぬまま、愚か者が嗤いながら世を往くことが許される。因果応報の言葉でさえ腐っている。

絶望に心が覆われる思いで、泣いた。

子供の頃、正義とは何かを教えてきたのは大人たちだった。道徳を説いたし、悪いことをすれば叱ってしつけた。
だから信じていたのだ。なのにすべてが嘘だったのだ。

金がすべてだ。金の亡者と悪魔が笑っている。ただ搾取され、売り払われ、ひれ伏すしかない世界。

この世に、正義が、どこにもない…。

神よ、と自然と問いかけていた。
あなたが全知全能だというならば。万能だというならば。

なぜ、こんなにひどい世界を作ったのですか。
地獄の中で、なぜ、正義の概念だけが残されている。

(死ねばそれで終わる世界なんて、地獄だ。
因果は、死した後まで追いかけてはくれないのか。)

必死に自分のつたない知識を探した。よき人も、悪しき者も、その行いに応じて報いを受けるのが正しい理であるはずだ。そうであるならば、必ず通る道がある。

(――けれど、この世に、死後が、あるならば。
因果応報の報いは、地獄の果てまで追いかける。)

悪人と、誠を信じた人の死が、同じものであってはならない。

――いつか終わりがくる。だからその時までに、目を覚ましているように。

はたと思い当たった。そういえば昔考えたことがあった。どの宗教も「根っこでは繋がっている」と。

最後の審判、と呟いた。
もしもそれが、あるならば。すべての裁きは訪れる。

末法の世に、救世主は到来する。
だが、人が待ち望むようなものは、こなかった。

――誰もしないのなら私がする。
報いがあるならば甘んじて受ける。
何もせずに天の国に行けるとは思わないし、思えない。

しかし、もしもこの身が、己の罪によって地獄に墜ちるものであろうとも。

神さま。もしいるのなら、この声をお聞きください。

この世にもし、正義というものがまだ残っているのなら。
彼らに裁きの鉄槌を。
罪に問われず世を去り、それで終わりになんてしないでほしい。逃げ切るなんて許されない。

私は、最後の審判を希求します。


(祈りに答えがあったことを知ったのは、それから6年後でした)

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