「証?」

 ずっと、考えていることがある。

 私の今までの25年間という存在期間のうち、およそ21年の歳月は、何者かに導かれ続けた人生だったんだろうか?

 25年間。人間的には不思議なことの連続だったような気がする。

 1999年。6歳の時点で、私は自分が果たすべき何かを持って生まれてきた、と確信のようなものを持っていた。

 45歳程度の子供の時から、そういう直観を持って生きていたような気がする。

 その確信を無力化するような無神論の教育が、その子供に対してさらに9年間、義務として与え続けられると考えると、これは言い過ぎかどうか微妙なラインなのだけど、個人的には教育という名前の精神的虐待にあたりそう……と思う。

 光文書を読まれている方は、3.119.11というタイトルの文書を知っているかもしれない(「光文書」の三巻に収録されている。)

 私は、8年前、3.11の災害後、国の責任とはどこにあるのかを考えていた時、その奇妙な符号に気がついて、見えない悪意の探求を始めていた。

 精神学っぽく?言うと、それは天の配剤、ともいえるのだろうか。

 ただ、それはきっかけにしか過ぎない。

 もっと前、十年前、2009年の時点から、私はこの知の一番根本となる部分に本能的にたどり着いていた気がする。

 宗教が、救いを求めた人間の旅の結果であるとしたら?

 この二千年、生き残るために、宗教家はあまりにも初めの教えを歪めすぎた。

 誤った認識の中、現代に至っても宗教的ハイアラーキーの中に人間を閉じ込めた罪は重い。

 イエスもブッダも、人間存在である限り、人はそこに至る可能性を秘めている。

 現代は既にその可能性に到達し、その先へ進むべき時が来た。

 先人の残した最高到達点から、私たちは考えることで先へ進むことができる。その特性を持っている。

 この世の物的法則の緻密さに、あらゆる宗教の通奏低音に、それを伝えてくる存在に接した時、マクロコスモスとミクロコスモスの存在に触れることができる。

 宇宙の原初の出発点は、私たち一人一人の中の小宇宙にも存在している。

 人は原初の出発点を乗り越え、自らの世界の救世主となり、未来へ進まねばならない。

 そういう風に考えていたところ、3.11の後、国を滅亡に導くような政治家しかこの国にいない、誰も責任をとらない構造に思い至って、ちょっと私は絶望した。

 神よ。あなたは万能であるというならば、なぜこんなにもどうしようもない世界を作ったのか?

 その時そう疑問を持った。

 それでもこの世に最後の希望が残されているとしたら、それは、世界中に二千年前から置かれていた、最後の審判があるという情報だった。

 私はたとえ自分も裁かれるとしても、あの世の果てまでも罪に彼らを追いかけていってほしかった。

 怒りに駆られ、究極の天罰を求めた時、その情報を発見していた。

 最後の審判を希求する、と確かにあの時祈ったのだけど、「希求する」という言葉をなぜ私が使えたのかちょっと分からない。

 まず普段使わない言葉で、そんな言葉、よく考えると知らなかったような気がするのだ。

 最後の審判がある、という閃きも、今思うとずいぶんと遠いところから光のように降りてきたような気もする。

 ずっと後、今頃になってこの思考の軌跡をたどると、奇跡的なくらい最終知識や精神学の伝える神知と一致していて、不思議な気持ちになる。

 このことを考えるたび、はじめに結語ありき、のルールが頭を過ぎる。

 精神学的な知識とものの考え方、検証の仕方を、何かに導かれながら、およそ7年に渡り教育される日々だった。

 精神学を学ぶには、教師はいらない。

 一人で考え、ネットで調べ、あれこれ検証・探求を繰り返して学んだ身なので、全く否定できない。

 それが何者かはきっとずっと確信は持てないし、分からないけれど、私はいつの間にかいろいろな声が聞けた。

 案内人がいた。

 信じるな。必要であれば、やがてそれは証明される。

 検証しろ。正しければ、それはすべての検証に耐えうる。

 最初期にそう教育された。ここでも最終知識と一致をみせていた。

 時々人間関係などで失敗もあったものの、私は、最低限必要なだけの知識と経験と能力の訓練をされていたのだろう、か?

 最後に最終知識と、正会員のプログラムを渡され、全て読み終えた時、また不思議な気持ちになった。

 辿ってきた道の意味を確認しなさい、と言われているような、感覚。

 ここに君の25年を証する。

 君の25年はこれを証する。

 最終知識とプログラムを終えて、そう誰かに言われているような気がした。

 

人の生は、一体何のためにあるのだろう。