十字架上の人生

一神教の終わりの時代に生まれたすべての人間に対して、次のようなメッセージが届いています。
「この世に生まれたのは、十字架にかけられるため、と知りなさい」
すべての人間は、この世に生まれるときに、十字架上のイエスを追体験できるよう、用意されているということのようです。二千年間、人間は、自分が十字架にかけられることに恐怖してきましたが、今生という人生では、その目的が、十字架上のものとなることだというわけです。
私がくり返しお伝えしていることですが、楽に人生を過ごし、楽に死に到るなら、わざわざ、人間に生まれる必要はない、ということを人間が知るタイミングに来たといってもいいのでしょう。
この地上で、たとえば、いじめに会い、日々の生活そのものが試練となっているような若者なら、「あなたは十字架にかけられるために生まれた」という言葉を理解するでしょうが、それを理解しても、その理不尽さには納得がいかないはずです。しかし、たとえば、精神学が伝えている人間界のエネルギーの法則を知れば、そこには絶対的な理が隠れていることを知ることになります。
人間は、光のエネルギーを増幅することもできるし、暗黒のエネルギーを増幅することもできるのです。
人間の歴史は、イエスを十字架にかけた人間たちの罪の原点が、生物としての暴力や死に対する恐怖心にあることを知るための学びの道であったと考えてみてください。
いまの世界もまた、その恐怖心に支配されていることが誰にでもわかるはずです。もちろん、文明的な進歩によって、一応、先進国といわれる国家群では、暴力による支配は影をひそめましたが、そのかわり、マネーによる暴力的な支配がさらに強まっています。
イエスは、「自分の十字架を背負って、わたしに、ついて来なさい」といいました。
十字架を背負って、従うということは、その十字架に、自分もかけられるということだと思いませんか。いまが、その時代なのです。この地上において、いかなる栄華をきわめようとも、死して、永遠の生命に到る道から除かれるなら人間として生まれたことに何の意味があったのか、という聖書の問いかけが、これから現実化していくのです。
いま苦難の現場にいる人間にとって、その十字架とは、いまの人生で学ばねばならない何かにほかなりません。
自分の十字架を背負うとは、自分のたましいが永遠の生命を得るために、最後の審判を希求することなのです。それに失敗したものたちが、去るべき世界をつくり出すために、すくなくとも、いまの日本列島は、悪魔の手に委ねられているというのが私の知るところなのです。
戦後の日本は、GHQの指導で、無神論者のマルクス主義者たちとそのシンパに、教育界や官界、マスメディアからシネマに代表される娯楽芸術までの情報産業を委ねる道を歩み、現在に到っています。そして、日本をこの姿にした団塊の世代が、すでに退場した状態であるにもかかわらず、その亡国の路線は何者かによって継承されているのです。
ところが、この二千十九年というタイミングで、この日本の現状もまた、天の配剤だということがわかりました。
一神教の地獄というものを、つくり出すために、いまの日本人の多くの脳の活動、または意識の活動が使われているというのが、私の認識で、この情報を、このタイミングで一般に公表することが指示されているということは、その地獄の完成が近づいているということです。
すでに、私はイエスが、人間世界において、最後の仕事をするために、これまでいた場から復活、または、再生したということをお伝えしましたが、それこそが、最後の審判なのです。
精神界のルールは、すでに伝達されています。
復讐するは我にあり、という言葉を、多くの日本人は正しく理解していませんが、人間のたましいは、神理によって裁かれるのです。人間界では、人間の身体を人間がつくった法によって裁きますが、人間のたましいは、神との約束によって、裁かれるという当然の理に、人間が気づくタイミングが、「その日、その時」といえばいいのでしょう。こうしたことを、すべての人間が理解するように、精神学協会には、精神界の存在を証明するエネルギー領域との情報回路が与えられています。その領域の存在を認めない限り、人間の知の未来はありません。自分の十字架を背負った人間、または十字架を自覚した人間にこそ、その扉は開かれているのです。

二千十九年六月六日 積哲夫 記