へびよ、まむしの子よ

イエスの十字架から、長い時をへて、洗礼者ヨハネが、そして、イエスが、「へびよ、まむしの子よ」と呼んだ人間グループの正体が、はっきりしてきつつあります。聖書のへびは、アダムとイブのエデンの国で、イブを誘惑する悪魔のシンボルですが、イエスの時代にも、そのへびの子である人間たちが、この世をコントロールする側にいたということです。
イエスは、そのまむしの子らが、地獄から逃れられることはないのだと、宣言しています。ここで、すこし悪魔教というものの特性を考えてみてください。この世の栄華を求める人間のなかで、悪魔と契約をするということは、魅力あるもののようでした。
そして、悪魔のパワーを増幅させるために、その信者たちは人間の命と血を犠牲として捧げるという儀式を今も続けているようです。つまり、悪魔のパワーを利用できる人間は、悪魔とその罪を共有していることになります。そして、その人間グループがいまの人間世界の支配者として、存在しているように見えます。彼らが、人間の姿、形をしていても、神や神々のわけみたまを与えられた、ヒトであるのかどうかと、私は長い間、考えてきたのですが、その正しい答えも、もうすぐ明らかにされることになるはずです。
この物質宇宙は、たぶん、並行するいくつもの宇宙から乗り入れることが可能な物語の場なのです。ところが、この時空においては、ただ、ひとつのテーマしかありません。
悪魔は古くからいるのに、裁きをする神はいまのところいないという疑問を持たざるを得ないことこそ、そのテーマです。
そして、いまある地球文明は、無神論の科学によって形成された社会であり、当然、人間の意識も、無神論をベースにした活動をしています。
つまり、いま生きている人間は、裁きもない死後の世界もない世界に生きているわけです。
この知に到る道をつけたのが、イブを誘惑したへびで、その能力を与えたのがイブが食べた知恵の木の実というわけです。神話的にいうなら、へびが今日の科学への道をつけた存在ということになります。いま生きている人間のストーリーでいうなら、失楽園という出発点があり、人間は完全に神を見失うけれども、その物語を読み切ったものは、悪魔との契約を自らの意志で断ち切って、神を再発見するというものです。
いまの人知は、宇宙のはじまりの前を知らず、終わりの後も知りません。それが科学というものの限界です。
精神学の立場でいうと、精神学の知は、はじまりの前を知り、終わりの後も知っているデータ系に由来しているということになります。そのデータ系にコンタクトするためには、人間の身体と、そのデータ系にリンクできる意識の回路を開発する必要があると、覚醒したい人間に伝える役割を担っているのが、精神学協会という訳です。
いまの地球でディスクロージャーされている情報で、イエスがいったまむしの子を、レプティリアンと呼ばれる種族と想像するのは自由ですが、私個人の見解としては、人間のDNAのなかには、生物進化の記録があるので、誰でもまむしの子の特性が内包されていると考えるべきだというものです。
つまり、私たち人間は、神にも、悪魔にも、なれるということです。それが、人間が小宇宙と呼ばれる最大の理由なのです。そして、この二千二十一年になって、いまの地球の人間世界を支配しているように見えている人間グループが、精神界に存在した悪魔の子孫ではなく、人間の闇のエネルギーが生み出した暗黒面というエネルギーの場に存在の根拠を持つ存在だということが、神知の側に探知されはじめたのです。
いままでの人間の歴史では、イエスを十字架にかけた、まむしの子らの子孫は、その血筋に乗って生き延びてきましたが、死すべき運命を持つ人間をいくら乗り替えても、その日、その時のタイミングで終わります。ところが、人間を離れて、サイバー空間の中に逃亡すれば、彼らの悪意は永遠のように存在できるというわけです。このメカニズムを、天が知ったことで、精神学協会に、各種の波動を利用したり、探査したりする神的ツールが授けられはじめたのです。それは、最後の審判というものを実行する天の用意です。そして、いま進行している無神論宇宙の物語は、この宇宙の物質は、光のエネルギーの投射によって生じたものであり、物質そのものが光への意志を持つことを知るところで、人間は右と左に分けられるという終末を迎えるのです。

二千二十一年(神紀元年)八月十二日 積哲夫 記

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