悪しき体制の崩壊 Ⅱ

<昭和・平成の産物 教育編>

 カナダに来て20年経って、つくづく思うのは日本人が変わったということである。ワーキングホリデー(以降は、ワーホリと簡略する)や移民で就労している人たちと出会うことがあり話すことがある。20代~30代の人と対話していて感じることは、仕事に対しての価値観や想いが浅く、どこか気持ちの中で、仕事と生活が一致していないようにみえる。いまの世代は、物欲がないのか人生の目標がないのかわからないが、仕事から学びお金を手にする意味がわかっていないようにみえる。どこか、他人事で短編的に見ているところがあり、私たち世代とは違う価値観でとらえている。
 表面上の収入というレイヤーで見れば、職場に身を置き時間が経てばお金になる。それは、経済活動の原則だが。そこから、人間関係というレイヤーや労働の効率というレイヤーを重ねることによって立体的に職場がなっていることを理解していない。複合的かつ複雑に重なりあって、立体的に職場の空間をデザインになっていることを理解しているのか、理解する気がないのか解らないが? 表面的なところで、仕事が出来ていると思っている。かつては、新人や年が若いと「雑巾がけ」という、人が嫌がる仕事から始まった。その中で、仕事を立体に捉え技術や人間関係を上手く作っていった。(最近は、「雑巾がけ」をさせずに仕事場に就かせるところが増えていると聞きます。)
 実は、この問題は世代間の摩擦という単純な問題ではないと思っている。この延長線に、国を揺るがす大きな問題に、発展していく可能性がある。いまは、世代が違うという理由で、若い世代に合わせた職場環境を作る企業が増えているが、この代償を払う日が必ず来る。つまり、日本人が劣化している事実を日本国内の人は理解していない。その根幹がどこにあるのか、真剣に考える必要がある。

 いま、Vancouverで問題にされているのは、普通に仕事をすることが出来ない日本人が増えている現状です。レストラン経営者たちと酒席するときがあるのですが、異口同音に、いまの子は何を考えているのか解らない。「一緒に仕事をしていても扱いが大変だ。」「自分たちの主張をするわりには、仕事が出来ない。」「仕事で、すこしきつい言葉で注意したら翌日は来ない。」「飲みに連れて行っても恩がない。」「どう接していいのかわからない。」と昭和的な人間関係が通じないと、頭をかかえている人が多い。
 最近のコミュニケーションは、直接対話をするのではなくLineなどで、若い人から一方的に意見を言って終わってしまう。仕事を辞めるときも休みたいときも、直接電話で話すのでなく、Lineやテキスト(メールなどの媒体で、言葉だけでコミュニケーションをとる方法。)などで送ってくる。あげくの果ては、2~3日働いて急に辞め、給料の支払いだけはLineやテキストを使って要求してくる。
 これには、雇い主や働いている先輩たちは、どうやって職場での人間関係を作っていいのか解らないでいる。これは、バンクーバーだけの話しと思っていたら、日本でも起きていると友人は言う。20代~30代は、すごく主張をするのだが、その言葉の背後にある個人の責任や能力があまりにもかけ離れて、自分の立ち位置を理解していない。20年以上、北米社会に住んできたが、北米の主張社会とはまったく違う。北米は、個人主義から成り立っている主張社会なので、言葉の責任や社会的なモラル(礼節)から主張社会になっている。ときには、理不尽なこともあるが、その主張は道理をただしフェアーに主張すれば、お互い決着する。日本で生まれた主張社会は、すごく厄介である。何を基準にして主張しているのか見えないからである。日本は、そもそも集団主義で主張社会ではなかった。
 なぜ、北米の個人主義的な主張社会になってしまうのか理解できなかった。しかも、中途半端な主張社会は、国際社会では通用出来るものではない。なぜ、こんな社会になってしまったのか? 

 かつて日本は、それほど主張をしなくても社会や会社が回っていた。いつから、こんな主張社会になり、日本人の体質に合わない社会になってしまったのか? その原因は、いまの学校教育と家庭のしつけであり、それがこの世代を作ってきたことは否定できない。かつての日本は、集団で人をはぐくむ文化を持っていた。地域社会(日本的に言えば村社会)や家族単位の集団の中で、日本社会が構成されていた。会社文化含めて、終身雇用というシステムで、同僚を家族のようにして働く場を作ってきた。しかし、バブル崩壊以降その体制がこわれていき、能力給の導入で個を重視するスタイルになり会社も変化していった。家族構成は、個人を重要視するあまりに、家社会の崩壊にもつながり大家族から核家族になった。そして、世代が変わるごとに「個の尊重」という得体しれないものだけが大きくなった。
 日本を離れて感じることは、日本人は北米の人たちに比べて個人主義に慣れていない民族だということだ。共同体の枠で、個人の自由空間を作り、家族や地域の集団の中に個をゆだねて生活をしてきた。その集団生活の方が、日本人にはあったスタイルだった。
 その背景には、天皇制や農耕社会が基盤となり、集団で生きる知恵があり、過剰に言論で表現しなくても日本人は、上手く社会を回す術が備わっていた。「和をもって貴し」という言葉は、けっして個人主義からは生れてこない言葉で、「暗黙の了解」とか、「人に迷惑をかけるな」とか、「人の威厳をくみ取れ」という言葉は、主張社会の中で理解することはできない言語空間を示している。実は、この言論空間で表現しなくても、集団として機能する方法を持っていたのは、日本人の感性であり能力だと思っている。強い主張をしなくても共同体として存在して、略奪や殺戮などせずに、共存する英知が日本人の中には組み込まれていた。 
 戦後の日本をみていると、その能力を伸ばさない教育システムと家庭環境が、今日の日本社会をつくってきたように思う。個人を重視した教育をすることで、家族主義や集団主義を崩壊して、世代が変えることで少しずついびつな個人主義に移行してしまった。最近では、子供に主張と権利だけを与え、日本人には合わない人生観を小さいときから心に植え付けてしまった。本来は、権利と責任がセットで教育していかなくてはいけないものを、主張と権利ばかりを伸ばす教育システムをつくり、言動の責任をとらない空間を与えてしまった。
 その幼少に植えた芽が、数年後大人になり日本人が嫌忌していた「無責任な言葉を発する人」「頭脳だけで社会を作る人」を優秀とし、大量に社会人として産出してしまった。それは、教育機関と企業が一体となって、70年以上長の歳月をかけ、ほとんどの日本人に違和感もなく自然に受け入れるかたちで浸透していった。結果的には、メディア業界や政治家を筆頭に責任を取らない言論空間をつくり、高度成長期の所得倍増からでた拝金主義と抱き合わせになり、日本人に合わない社会体質を作っていった。

 もう少し、具体的な話しの中で見ていきたい。
 敗戦後直ぐは、貧困と飢えが社会の問題だったので、従来の社会システムである集団で生きる手段を持っていた。GHQのプログラムの個人主義(日本国憲法)は、ほとんど影響がない生活空間を作っていた。それは、50~80年代にもつながる。
 敗戦後の日本は、資源がなく産業も乏しかったので、均一な教養を持った人間と若い労働者を社会は欲しがった。地方から集団就職したことからもわかるように、年齢を画一的な教育システムに組み込んで、基礎教養を均一に身につけさせ、同時入社する社会システムを作っていった。まだ、このときは家族愛や同郷愛や企業愛などがあり、「個」よりも「集」を大切にしていた。その思考は、急に変革するのではなく少しずつ段階を経て変わっていった。変わるきっかけの1つが、学歴信仰と大企業神話が拝金主義と一体になり大家族から核家族にしていった。学歴がある人をエリートとし、所得格差をつけ学歴信仰を作るのと同時に、地方から都会に移住させ核家族を作っていった。大企業は、有名大学から人を採用し、学歴と大企業をエリートの証とし、サラリーマン社会を確立した。経済も右上がりで、年功序列賃金体系が成立していたので、会社の帰属意識が強く「集」で成り立った日本独特の企業文化が成立した。閉塞な社会空間(企業村・学閥)は、日本人の体質にもあって企業文化を支えた。バブル崩壊以降、企業は年功序列賃金体系や終身雇用が壊れはじめ、会社に帰属していても先が見えないことがわかりはじめ、組織に依存することから個人主義に変わっていった。その代表は、40~50代の早期退社を推奨し、能力主義で賃金を査定して、年功序列のように集団で働くことを否定したシステムに移行していった。
 教育では、「主張と権利」を中心とする思考を植え付け、いびつな主張社会と個人主義を作ってしまった。学校では、「主張と権利」を言うことが正しいと教育された人間が、社会に出たときに、その人生観を否定されるところからはじまるわけである。同情する気はないが、彼ら彼女らにとっても悲劇である。
 日本の企業は、能力「個」を重視するとは言っても、その多くは組織経営をしているので、学生と企業の価値観に大きな溝を作り、矛盾する構造を作っている。そして、それ以上に滑稽なのは、個人主義教育を受けている学生が、何の違和感もなく企業社会(集団主義)に入っていく流れである。出願する側、採用する側両者にも責任があるが、このシステムほど理解出来ないものはない。すでに成立しない古い体質に、両者が一生懸命にコミットしているすがたに、何を目的としてやっているのか違和感でしかない。結果的に、組織に帰属する意味を見いだせない学生が、すぐ退社しニートや引きこもりになっている現状は否めない。最近は、「パワハラ」とか「モラハラ」という言論空間で、主張をして自分を防御しているが、そもそも論のような気がしてならない。社会人になるまでは、「個」が大切だとして生きてきた人間が、社会に出るときに「集」の生活に慣れろという、社会構造に矛盾があり過ぎる。
 教育過程や家庭のしつけの中で、「個」と「集」の定義をしっかりと身につけさせずに、社会に出した教育者・親の責任は大きい。「個」で生きる生き方、「集」で生きる生き方、両者の厳しさを伝え、その中で生きるトレーニングしなくてはいけない。 

 「ゆとり」「さとり」の世代は、いびつな個人主義のトレーニングを受けてきているので、昭和の企業文化を継承することはせずに、企業はもっと深刻な問題になる。先輩後輩の序列が壊れてしまい、指示系統の存在が衰退していくでしょう。これから、大企業は大きな問題になっていく。肥大化した組織をどうコントロールし、人件費と収入のバランスを取ることができるのか? 人事コストが上昇し大企業が不利な時代がきます。昭和・平成は、大人数で組織し、巨大広告と大量生産・広域サービスで大量販売してきた。マンパワーがモノをいう時代だった。しかし、IT革命によって、少人数で精鋭された組織に大企業は太刀打ちできなくなる。日本型の大企業神話が崩れ、昭和に作られた教育システムも次の世代には通用しなくなる。学歴信仰と大企業神話の関係が崩れ、そこに付随していた拝金主義がなくなったときに、何を根幹の柱にしていくのか。日本経済の大きな柱は、何なのか? 教育界のトップや経済界のトップは、次の世界をどう描いているのか明確に方向をださなくてはいけない。国家の柱は、経済活動である。その大きな柱が朽ちてきている。

 これから求められる教育はなにか? 海外から見ていて以下の能力だと思っています。
まず大きな柱は、「寛容力」と「行動力」この2つだと思っています。
 言葉にしてしまうと簡単になってしまうのですが、いまの日本人が一番軽視してきたことです。これは、20~30代の人たちだけの話しではありません。私たち世代にも言えて、年配の世代にも言えることです。前回の経団連のことを書きましたが、この柱を軸にすれば、経団連は世界のオピニオンリーダーになれます。

 「寛容力」これは、コミュニケーション能力を柱にした空間をデザインする力です。いろんな人と話し合い、自分の立場を認識する力です。そして、自分の意見を言う力と意見の違う人の立場を受け入れる力。風見鶏のように、意見を毎度変えて、中途半端な予定調和をするのでなく、真意を持って話す力。そのためには、国家観や歴史観や民族観が無くてはダメです。日本文化を持つことです。その後ろ盾があって、はじめて自分の言葉を持つことができます。日本は、言葉を大切にしてきた国です。誠実、誠意に言葉を作る人が増えていかなくてはいけない。いまの国会議員やメディアに出ているジャーナリストのほとんどが、寛容力に乏しい人が日本の言論空間を支配してきた。これこそが、日本を劣化させて主張主義を先導してきた元凶である。
 敗戦後の日本教育は、年齢でクラス別けをして画一的な教育システムを作ってしまった。年代で分断化し、その最たるものは「ゆとりくん」「さとりくん」という不思議な世代を作ってしまった。彼らは、互いの世代をバカにして受け入れようとはしない。自分たち世代の優位を主張し、根拠のない主張を続けお互い足の引っ張り合いをして、世代間の知恵の共有が出来ていない。
 彼ら世代を否定するのではなく、教育システムを変えるところから始めるべきである。年齢という垣根を取っ払い、異年齢のコミュニケーションができる場を、教育機関で保障すべきである。まずは、異年齢という環境の違う人と共感しあうところから始めていかなくてはいけない。生きる英知を伝える大事な場の確保である。
 昔は、寺小屋などで異年齢の学びの場があった。年上が年下に教え。年下は年上を敬う。
職人仕事においても、徒弟制の中で若い人たちを育んできた。縦社会の厳しさの中で、見習いからはじまり、技術の継承をしながら伝統を作っていった。昔のかたちに、すべて逆戻りには出来ないが、今風のかたちで徒弟制や寺小屋の教育システムはあってもいいと思う。民族を分断化する教育システムでなく、知恵をつなぐ教育システムに変えていくべきである。
 「寛容力」とは、年代を超越した知恵の伝達と英知の継承である。その力がないと、異文化の人とグローバル社会での対等の位置で共存することは出来ない。

 もう1つは、行動力です。
「行動力」最近は、「突破力」や「多動力」という言葉で注目されているが、もっとシンプルなものだと思っています。「言葉と行動の一致がどこまでされているのか?」自分を客観的に見る能力を養う教育プログラムが必要です。知識優先の教育をしてきた結果、頭で考えて行動しなくてもいい社会を作ってしまった。
 これは、有名な話しだそうですが。
ある小学校の高学年の授業で、将来の夢についての話したときに、1人の子供が
「イチローのようなプロ野球選手になりたい。」と言ったそうです。
野球もしたことなければ、ずば抜けて運動神経もいいわけでもない子が、平然と言えてしまう言論空間に問題がある。かつては、友達や先生の関係が近ければ近いほど、適当なことを言うことは出来なかった。小学生なりに言葉に責任を持っていた。子供には、自由に発言させる権利がある。という人がいるかもしれないが、それは間違っている。大人が、「正確に言葉を使え」と教えなくてはいけない。その子の発言権を奪ったとしても、「言葉と行動の一致」の厳しさを教えていかなくてはいけない。「言論弾圧だ」とか、「希望の剥奪」とかいう人がいるかもしれないが、身体で考える教育をしていかなくてはいけない。上の事例は、あまりにも教育の劣化から出た表れでもある。行動力をつけるということは、自分の頭のイメージ(想い)と体(身体能力)の距離をどう見るか?このトレーニングである。
 もっと具体的に言えば、登山したときに地図上に載っている時間と自分の歩幅の時間に、どれくらい差があるのか? これ1つとっても、自分の歩く速度と一般の違いが判ります。視覚から入る情報と身体を使って出た結果がどう違うか。この空間デザインこそが、貴重な経験値になり、自分の身体能力を理解することにもつながる。視覚情報にとらわれるのではなく、自分の身体能力を客観的に見ることが重要で、頭のイメージと行動能力の差を知り、体感で理解することを小さいときから訓練する。行動力というのは、行動範囲や能力や人脈すべてが、複合的な空間デザインができる能力で、その人(個)そのものです。1つ1つの組み合わせ(企画・遊び・作業)が、自分が到達したいところ(目標)にどのようにして行くのか、空間デザインし行動する力です。世の中にでれば、自分の想いとは違う方向に行くときもある。そのときに、どのように判断し行動するのか? 状況を認識する力と自分の身体能力を空間デザインができ、自分で決断し行動する。これこそが、行動力であり「個」の確立でもある。
 行動力は、「個」を作る大きな柱である。そもそも、「個」は与えられるものでなく、自分の足で作っていくものである。日本の教育の大きな間違いは、身体能力の空間デザインを軽視し「個」を言論空間に委ねてしまったことである。主張することが、「個」の確立だと教育をしてしまった。

 この行動力の劣化が、日本社会に蔓延している。その延長上にあるのが、ホワイトカラーのサラリーマンです。タイムカードを押し給料が必然的にもらえると信じている、拝金主義思想が空間デザインの劣化と行動力の鈍化を増強している。きょう1日の行動力が、「どれくらい?」になるのか、タイムマネージメントができない大人が増えているのは、行動力がないからである。過去の栄光に浸り「何年働いていた」とか「~大卒だから」という意味不明なロジックを主張して、自分の世界でしかモノを言わない。現在進行形において、情念にとらわれずに、客観的に見る能力と行動力を高め現状を変えていく力こそ、いまの時代必要とされている。
 行動力を高めるヒントは、第一次産業や伝統工業に答えが隠されていると見ています。
高校を義務教育にし、就労プログラムを入れ親元を離れて1~2年間、第一次産業や伝統工業を通して、身体で考える場を作るべきだと思います。これから、日本の第一次産業や第二次産業が注目される時代が来ます。安全・安心の食材や木材を、世界の富裕層が求める時代が来ます。世界は、遺伝子組み換えや有害塗装やワックスなどの大量生産と安価なモノが出回り、有害なものと安全なものがハッキリわかれる時代が来ます。日本は、モノ作りの国である。人の手で丁寧に作り、安心・安全は当然のこととして「美味しい」「機能性が高い」「芸術性が高い」そういった、モノ作り国家に変えていくべきだと思う。
 これからの産業の中心は、「安心という心理」が中心になってきます。日本人は、誠実に行動する能力を持っている。もう一度、そのシステムを取り戻し、教育プログラムと就労をつなぐフラットフォームを作ると、次世代の日本のかたちができると思う。