天国から盗んだもの

聖書のイエスの言葉に、「バプテスマのヨハネの時から今に至るまで、天国は激しく襲われている。そして、激しく襲う者たちが、それを奪い取っている」というものがある。
天国を激しく襲う者とは、いったい何者なのか。
そもそも、天国とは神の国なのではないのか。神の国に、なぜ、激しく襲う者が侵入することができ、何かを奪い取ることができるのか。人知では、さっぱりわけがわからない。神がなぜ、それを許し、放置しておくのかも、理解することができない。
その神知の側での答えが、神が光と闇の合体物であり、古い神の光のなかには、悪魔が侵入することもできるし、そこに棲み続けることができるという「最終知識」の記述になるのだが、ある時期、私(積哲夫)は、地上の人間世界の闇の者たちに奪われ続けた。助けてやれという、天の声と、貧に落ちきれ、という神示がなければ、耐えられないものだった。それ以上に、ただ魔界のものを生かすだけの不毛の行為に思えたが、私が一文無しになることで、それらの者との縁も切れた。
奪われたものは、マネーだけではなく、時間と、それ以上に重要な、私にとっての神というべき存在の権威そのものだった。それでも貧に落ちきれ、を笑顔でやらされた。積さんのいっている神とやらに利用価値がないと、多くの人間が思うようになって、私に向かって、「表に出ろ」という指示があった。
2005年の7月のことである。
天国は、神の国は、私と同じように、奪われ続け、もう神とやらには価値がないと、襲う者たちも去ったところで、いちど消去された。そして、絶対に闇のエネルギーが侵入できない光の領域に、はじめの時より、約束されている「命の書」があるという情報が伝えられたのだ。
私が怖れていたのは、この不毛な行為を続けることで、私の知っている神的存在の権威が、人間の世界で、ゆらぐことだった。私はいいとして、私に続くものにとって、それは大きな負担になる。イエスと同じ試練のなかに、次のものたちを置かないために、私はその世界ではたらいてきたはずだった。
いま、この時点で、私はその怖れも含めた全体のプログラムが、最後の一厘という言葉に要約されているのだと理解している。
  神のものは神に。
天国から盗んだものは、正しい所有者に返さなければならない。なぜ、奪われるにまかせておいたのかも含めて、そこに神の計画が見えている。

2005年11月25日 積哲夫