#38 大東亜戦争の遠因を探る ~その2~ 排日移民法  

ここで、昭和天皇が大東亜戦争の原因と認識されていたことについて学んで参りたいと思います。

昭和天皇は、大東亜戦争を止められなかったことに責任をお感じになられていらしたがゆえに、全国を巡幸され、慰霊の旅も続けてこられましたが、それは、今上陛下にも継承されより一層実施されてきました。
その昭和天皇が、大東亜戦争の遠因をどこにおいていらしたか、をお話になられた機会があります。
昭和二十一年の三月から四月にかけて、五名の側近が直々にお尋ねしています。
そのときの記録があります。

  『昭和天皇独白録』 
  寺崎英成 マリコ・テラサキ・ミラー 編著  文春文庫  五百円+税

—————————–  上記書籍より引用

大東亜戦争の遠因

 この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条約の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに十分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かゝる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がつた時に、之を抑へることは容易な業ではない。

<注>
 大正八年(一九一九年)、第一次大戦が終わると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に「人種差別撤廃」案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上がった。
 さらに大正十三年(一九二四年)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨恨を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤激以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「戦線を布告せよ」の怒号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。

—————————–  引用ここまで

寺崎英成さんは、外交官としてワシントン、上海、北京と赴任され、その後御用係に就き、拝聴するところとなったようです。

『昭和天皇独白録』の注として、以下の解説があります。

  大正十三年(一九二四年)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。
  それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨恨を日本人の
  間に残した」ものとなった。日本の世論は憤激以外のなにものでもなくなった。

いわゆる「排日移民法」とは Wikipediaによれば、—————————–

排日移民法(はいにちいみんほう)は、一九二四年七月一日に施行されたアメリカ合衆国の法律の日本における通称である。正確には一九二四年移民法(Immigration Act of 1924)、またはジョンソン=リード法(Johnson–Reed Act)であり、日本人移民のみを排除した法律ではない。この法律では、各国からの移民の年間受け入れ上限数を、一八九〇年の国勢調査時にアメリカに住んでいた各国出身者数を基準に、その2%以下にするもので、一八九〇年以後に大規模な移民の始まった東ヨーロッパ出身者・南ヨーロッパ出身者・アジア出身者を厳しく制限することを目的としていた。独立した法律があるわけではなく、既存の移民・帰化法に第十三条C項(移民制限規定)を修正・追加するために制定された「移民法の一部改正法」のことを指す。

特にアジア出身者については全面的に移民を禁止する条項が設けられ、当時アジアからの移民の大半を占めていた日本人が排除されることになり、アメリカ政府に対し日系人移民への排斥を行わないよう求めていた日本政府に衝撃を与えた。しかし「排日移民法」という呼称はその内容に着目して日本国内のみ用いられる通称である。運用の実態はともかく、移民の全面禁止そのものは日本人のみを対象としておらず(法案の内容 参照)、白人以外は全ての人間が移民を禁止されている。

その点より、この通称は不適切であるとする意見もある。英語圏では「アジア人排除法」と呼ばれる場合はあるが、排日移民法という言葉に相当する呼び方は見られない。

                 途中省略

同法によって日本人移民が全面禁止されなくとも、上述の紳士協定下で日本からの移民はもともと制限されており(一九〇九年から一九二三年の日本人移民純増数は合計で八千人強、年平均で六百人弱に過ぎず、しかも一九二一年からは純減に転じていた)、更に割当制が必至とすれば日本が期待できたのは年間146人に過ぎず、日本が現実に失った利益は小さい、とする見解もある。移民法の成否にかかわらず、日本の対米移民はもともと対中国大陸に比べてはるかに小さな比重を占めていたに過ぎないのだから、同法の成立は後の日本の大陸進出とは関連がない、という説である

—————————–  途中省略

中国系に関しては、一八七五年の” en Page Act of 1875 “で既に制限がされていたが、一八八二年のいわゆる中国人排斥法で明示的に移民が禁止されることになった(当初十年間の時限措置だったが後に延長がなされた)。

—————————–  以上、引用ここまで


中国系移民が先に排斥され、その後、日本人も含む移民全体を排斥する方向に動いたわけです。
これについて、「黄禍論」への指摘、人種差別はよくないという世論はもちろん多く出ました。
もともと、アメリカの成り立ちが、先住民族であるネイティブ・アメリカンを排除しての「移民の国」であるがゆえに、移民でできた国が続いてやってくる移民を拒否するということへの違和感も存在します。

移民の弊害や諸問題は、あたかも、「日本も昔はアメリカにたくさんの移民を送り込んでいたではないのか?」「今の日本にやってくる中国人や韓国人と同じことだ」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、それまでの移民の歴史や経緯、そして何より民族性が大きく異なることを忘れてはなりません。
それから、日本の移民史に関しては、少し、複雑な事情もあります。
結果的には、移民としてそれなりの数の渡航者がいましたが、ハワイ王国の哀しい歴史にも一部関係があります。
その話は次回に譲るとして、民族性の違いは、今後のアメリカにとってもかなり大きな負担として問題が出てくるでしょう。
そのときには、米国民にもはっきりとわかるはずです。

日本においても、大陸系移民であれ、半島系移民であれ、正しく同化を目指す嘘のない移民は問題ないのです。
その正しく同化を目指す、ということの内容は、日本語の読み書きはもちろん、基礎的な日本の歴史を知り、習慣を理解し受け入れていること、基本的に嘘をつかないことなどが前提となっています。
息をするように嘘をつく、などというのは、論外です。

「同化しない」「反感すら持っている」といった人たちを、移民として受け入れたとして、その方々がそのままの意識を保持し続けるのでは、社会的に問題が起きるのは必定です。

中国共産党や韓国から、偽りの友好を持ちかけられて、偽りと疑うこともないまま、経済成長を支援してきたのは日本ですが、それもいい加減めっきがはがれてきました。
凶暴さを早くもむき出しにしてきたそれらの国々に対する反感は、理解しがたい民族性の発覚とともに激しくなっています。
だからこそ、脱亜論への共感や、特定アジア優遇への反対表明がじわじわと広がり始めているのだと思います。

光文書Vol .450 「中国崩壊の先」から、抜粋します。
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これまでのアメリカは、原則的に ヨーロッパからの白人系の移民とアフリカの黒人をベースに、ヒスパニック系の流入がありというように、その人種的な構成は、一神教の世界がもたらした世界秩序を反映したものでした。しかし、そこに、朝鮮戦争以来、大量の韓国人が移民し、近年では、経済成長いちじるしい中華人民共和国の富裕層が、途方もない金融資産を持って移住してきています。

    途中省略

世界の多くの人間の行動原理は、妬むものであるというところからきています。
日本人がつくってきた日本文化というものは、はるか昔に、自らのうちの妬むものという要素を排除する方向で形成されてきました。
武士道でいうなら、他者を妬むなどということは、あるまじきことです。
この日本人の特性を知るならば、このクニがこれからアメリカに復讐するなどということは、起こり得ないということがわかります。
それでも、彼らは、信じることができないでしょう。
世界はいつも疑心暗鬼でこのクニを見ています。
それは彼らの行動原理が妬むものだからなのです。

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光文書Vol .462 「日本の秘密」から、抜粋します。

アメリカはベトナム戦争に韓国を参加させるために、半島から多数の移民を受け入れることを認めました。その結果として、韓国系のアメリカ人は、独自の文化圏をアメリカ国内でも保持しています。アメリカの中国移民は、古くはクーリーという名の労働者層でしたが、現在はアメリカで自分の子供を産ませるという共産党幹部などの富裕層に問題の中心が移りつつあります。
郷に入れば郷に従え、という日本的な文化と、半島と大陸の移民の行動体系は違うのです。
これから、人造国家としてのアメリカ合衆国は、かつて人種差別主義者であった自国の政治的指導者が、大日本帝国をたたき潰すために使った行動原理を、国内では、使えないというジレンマに直面するはずです。

    途中省略

精神界から見れば、共産主義というものは、一神教の悪魔的な意識が、人間のたましいの不滅性を全否定することで、自らの欲望のもとに人間を置くための洗脳システムに過ぎません。

    途中省略

精神学を学んだたましいは、いち早く、人間の原罪や悔い改めというテーマの人生を卒業し、ほんとうのたましいの目的を開花させることになりま す。この学は、日本でしか、日本語でしか、人知に取り込めないことに気づくと、このクニの壮大な秘密が見えてくるのです。

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光文書Vol .490 「強欲の末路」から、抜粋します。

世界で唯一、マネーを崇めない文明をつくり出してきたのが、日本なのであり、その歴史的な積み重ねが、次世代の人類のためのモデルになるということでした。

いま、このクニの多くの人間は、共産党内のポストが莫大な財産を生み出す、中華人民共和 国の社会システムから生み出された人間の群れに、明確な拒否反応を持ちはじめています。   それは、単純にいうなら日本語の共産主義というものが、かつて、このクニの古代にあったような、スメラミコトも臣も民も、同じように 田に出て働くという原始共産制に近い、イメージをあらかじめ附与されているからにほかなりません。戦後の日本のある時期に、このクニのシステムは、最も成功した社会主義だと評されることがあったのも、このクニがもともと持っている平等志向による民度の高さがあった結果なのです。

21世紀に入って、このクニの方向性がグローバリストと呼ばれる人間グループの影響下に置かれ、このクニの富める者と貧しき者の差は、どんどん、アメリカをはじめとするその他の先進国に近づきました。

そして、そのマネーを崇める世界の支配者グループに加わりたい日本人のグループまでが生まれ、目の前のマネーのために、移民受け入れを主張するまでになったのです。

—————————– 抜粋 引用 ここまで 

まさに、そのとおりだとお感じになりませんか。

木下道雄侍従次長の「側近日誌」には、戦争の原因として、『昭和天皇独白録』同様に、

  「列強が人種問題によりて日本の発展を阻止したこと
  (人種問題によらぬ列国相互の競争は、さほど国民的憤激を巻き起こすものでは
   ない)」

と聖談拝聴録原稿(木下メモ)に書かれています。

日露戦争から十年、第一次世界大戦が始まりました。日本は、日英同盟に基づき英米陣営に参加しています。
ドイツと戦い、戦勝国となりました。
第一次世界大戦終了後、パリ講和会議において、日本は「人種差別撤廃案」を提案しました。

日本政府内において誰がいつ最初に人種差別撤廃に関する提案を行ったかは現在も明らかになっていません。

当時すでに、アメリカにおいて、日本人が激しい人種差別にあっていたからでもあるはずです。
しかし「人種差別撤廃案」はアメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどから、強硬に反対されます。
採決では賛成十一票、反対または保留が五票でしたが、議長を務めたウィルソン米大統領は当初賛成に傾いていましたが、イギリス連邦、特にオーストラリアの反発は強く、またアメリカ上院もこの提案が内政干渉にあたり、この提案が通れば条約を批准しないと猛反発したことなどにより「全員一致でないから」という理由で退け、多数決の結果を無効にしてしまいました。

提案の否決によって新聞世論や政治団体は憤激し、国際連盟加入を見合わせるべきという強硬論も強まっていきます。

パリ講和会議二年後の一九二一年(大正十年)十一月から翌年二月にかけて、日、米、英、仏、中など九カ国が集まってワシントン会議が開かれます。アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また史上初の軍縮会議でした。

そこで、米・英・仏・日による四カ国条約が締結されることとなり、かわって日英同盟が破棄されます。

一九二一年は、皇太子裕仁親王(昭和天皇)初めての外遊で欧州訪問が実現した年でした。

   皇太子裕仁親王の欧州訪問
   

   平成28年12月15日 今更聞けない皇室研究会
   村田春樹講師 『東宮殿下欧州巡幸 日本~エジプト』編
   https://www.youtube.com/watch?v=LgdUOxvIJj8  

   今更聞けない皇室研究会 講師:村田春樹氏 
   先帝陛下の御生涯をたどって 英国まで  平成29年2月16日
   https://www.youtube.com/watch?v=_diU2VmOKYY  

   今更聞けない皇室研究会 英国御巡啓編 村田春樹氏 平成29年6月15日
   https://www.youtube.com/watch?v=iTZn_cpYuhs  

御召艦「香取」と、供奉艦「鹿島」で横浜港からご出発されましたが、それらの艦船は日英同盟の英国で建造したもので、英国への好誼の現われでもありました。御召艦「香取」の艦長は漢那憲和で沖縄県出身、最初の寄港は中城(なかぐすく)湾で、与那原から電車で那覇へ、そして首里を訪れています。三月からの半年がかりでしたが、艦内ではフランス語やマナーの大特訓もお受けになられたようです。香港、シンガポール、セイロン(スリランカ)、エジプト、マルタ島(第二特務艦隊の戦没者慰霊のため)、英国領ジブラルタル、と寄港されイギリスにご到着になります。

  裕仁親王のイギリス訪問を伝えるニュース映像
 https://www.britishpathe.com/video/royal-procession-and-various-hirohito-material/

数日にわたる多くの歓迎行事など公式日程を終えられた後、特別列車でスコットランドに向かわれました。
アソール公爵保有のブレア城での二泊三日は、ご生涯で一番楽しかった思い出になったようで、別れの日には領民の皆さんと一緒に「オールド・ラング・ザイン(蛍の光 スコットランド民謡)」を歌われたそうです。
二荒伯爵を通じて同行記者に、「私は今度の旅で、非常に感銘をうけたものが多かった。アソール公爵夫妻は実に立派な方々で…(中略)私は日本の華族や富豪たちが、アソール公爵のやり方をまねたならば、日本には過激思想などおこらないと思う。私のこの感想は、新聞電報でうってもかまいません。」とおっしゃったそうです。
その後、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアと各地で大歓迎を受け、数々の慰霊を含めた公式行事をこなされてご帰還になられた年でしたが、ヨーロッパ各国への歴訪、特に英国へのご訪問は英国王室との友好も含めて、大変貴重なご体験を重ねた外遊となりました。
当時イギリス国王であったジョージ五世は父親のように親身になってお世話してくださって、「君臨すれども統治せず」の立憲王政のあり方を、懇切丁寧に教えられたそうです。
その、友好国イギリスと戦うということは、なんとしても避けたいことであったと思います。

一方、アメリカにとって日英の絆を断つ日英同盟の破棄は、非常に好都合なことでありオレンジ計画達成のために必要なものであったと、今日からは考えられます。
オレンジ計画については、あらためて探っていきたいと思っています。

日英同盟の破棄から二年、排日移民法が制定されたのは一九二四年のことでした。
日系移民が全面禁止されると、日本国民の対米感情の悪化は決定的なものとなりました。

立憲君主制の厳守をずっと心がけてこられた昭和天皇が、その大原則を破ることを承知の上で終戦を決意された、終戦時の「玉音放送」。
「堪ヘ難キヲ堪ヘ 忍ヒ難キヲ忍ヒ 以テ万世ノ為ニ 太平ヲ開カムト欲ス」
のところばかりが頻出している玉音放送ですが、全文を拝読し、全音声をお聞きすると、まさに昭和天皇のお心に触れ、ありがたさに泣けてまいります。

  「玉音放送」全音声  終戦時 よみがえる緊張感
  https://www.nikkei.com/article/DGXKZO90030180R00C15A8M13900/  

よい鏡となってくれている友人との対話で、どちらともなく湧いて出た言葉でしたが、感動が感謝を呼び、感謝が報恩の心を招き、現実的な行動に結ばれていくのだと思います。

昭和天皇はこの放送の最後をこのようにまとめていらっしゃいます。

(原文)
宜しく、挙国一家子孫相伝え確(かた)く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏(かた)くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進軍に後れざらんことを期すべし。爾臣民其れ克(よ)く朕が意を体せよ。

(現代語訳)
 どうか、挙国一致してこの国を子孫に伝え、わが国の不滅を固く信じ、国家の再生と繁栄への責務は重く、そこに至る道は遠いと心に刻み、持てる力を将来の建設に傾け、道義心を篤くし、志を固くして、わが国の美点を発揮し、世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。
 あなた方国民には、私の思いをよく理解し、身に付けて欲しい。

いまさらですが、陛下の篤い御心に心が震えます。
昭和の時代に長く暮らしながら、詳らかに振り返ることもせず過ごしてきてしまいました。

「日本人でよかった」と、こころから感謝し、困難に戯れ、ともに刻苦勉励で報恩を、と思っています。

平成二十九年十月二十日

阿部 幸子

協力 ツチダクミコ