コロナ後の日本の姿  Ⅴ

 

<日本社会の限界は、武漢熱前からはじまっていた>

 この武漢熱によって、人生が大きく変えられどん底に追い込まれて方向を見失った人が多いと思います。緊急事態宣言や経済活動の自粛によって、経済的な要因でまったく先の見えない時代になりました。すでに1年経ち、この春から景気が回復して元に戻ることを切に願っている人たちが多いと思います。しかし、北米から見る世界経済は、2021年も続き兆しが見えるのは来年の春から回復していくだろう、ということしか言えません。いまは、社会の変革期と見て次世代に繋がらない無駄な投資(金銭・時間)と仕事は極力さけて、自分の技術や能力を高めることに費やした方がいいと見ています。そして、2022年以降に焦点を合わした人生プランを立てるべきだと思っています。
 この迷走した社会は、遅かれ早かれ日本が直面することであり、経済の沈下は避けられない状態にはなっていました。古い体質はイノベーションの障壁になり、必要以上に体質を守る側と刷新する側の攻防が、水面下で繰り広げられ、加計学園の問題にしても電波法の改革にしても一例でありますが、役人の省益と既得団体の強いつながりが、国を刷新する勢力をつぶして、イノベーションできない現状になっています。穴だらけのポンコツの船を修復もせずに、太平洋の荒波の中を航海しているのが、いまの日本の姿です。経団連と連合という旧体制を軸とした、老朽化した労働の仕組みに各省とメディアが付随して、必死に日本という国を回してどうにか経済大国を維持しています。しかし、いまの状態を続けていたら日本は5年以内に没落していくでしょう。武漢熱によって表面化しましたが、この問題は以前から日本を沈下させる仕組みになっていました。
 高度成長期にできあがった仕組みは、その体制で世界に躍り出て経済大国にしたシステムであることは間違いありません。それは過去であって、現在も通用するシステムかは別問題です。国を繁栄しない仕組を、続けることの意味はどこにあるのか? 老朽化したシステムを続けることによって、若者自身将来が見えない社会になり、知らぬうちに貧困層を拡大し経済の没落の中で、定職に就けない人を増やしています。今回の武漢熱によって、一つだけ良かったことは、突発的に経済が止まったことによって腐敗していた構造が一望出来たことです。もし、じわじわと偽装中流が増えていけば、多くの人は知らずに国家が弱貧になり4~5流の貧困国家になっていたと思います。そうなれば、さらに中国やアメリカの属国になり、他国の富のために日本が奴隷化した経済システムの中で、日本は民族として二度と立ち上がることは出来ない道を歩むことになっていたでしょう。
 この鎖国状態の中で、産業から教育に至るまで、すべてを見直す時期に来ていると思っています。この1年は、個人にとっても企業においても冷静に社会を洞察するいい機会だと思います。歴史や日本の文化に触れて心を落ち着かせて、自分たちの生活を見直すことで、次の世界が見えてくると思っています。
 「敗戦後受けてきた教育とは一体何だったのか?」 この問題は、子供だけの問題ではなく大人にも関わる問題として受けとめなくてはいけないと思っています。なぜなら、国家の教育は40~50年という大きな時間のサイクルで社会に反映されるので、結果は50年後でしか見ることが出来ません。
 以前、安倍晋三さんが「戦後レジュームの奪回」と言って、総バッシングを受けてその意味を抹消してしまいました。しかし、75年間戦後の日本社会を見たときに、日本の文化を子々孫々に何をつなげてきたのか? 社会主義思想やリベラル思想を中心に教育と生活スタイルを刷新したことによって、歪な日本社会を作り上げてしまいました。日本文化を刷新した者たちは、ユートピアが来ると信じていましたが、いまの日本社会を捉えることが出来なくなり、誰も明確な先が見えない日本にしてしまいました。
 敗戦後、経済だけを重視してきた国家は、経済発展も出来なくなり国家自体が骨抜きにされてしまいました。もう一度、振り返らなくてはいけないのは、戦後の「国づくり」は、どのような経過で経済成長をしてきたのかを知らなくてはいけないと思っています。

 

<敗戦後の教育の大きな過ち>

 高度成長期の中で、画一的な学校教育と企業システムがシンクロニシティ(偶然の一致・同時多発的にリンクすること)によって、日本を貧困国から経済大国に押し上げた奇跡に近いことが起こりました。多くのイデオロギー信者(社会主義やリベラル思想)は、国の繁栄をイデオロギーによって達成されたと信じていますが、いまの日本を見ていると果たしてそうだったのか? 間違った認識の中で有識者・教育・メディアを中心に、認識誤認が言論空間を拡散し事実とは違う現代史を作ってしまったように見えます。
 戦後75年の間に、民族の価値観の柱が消えてしまい民族の世代間を断続することによって、文化や国体を点で捉える社会に作り替えてしまいました。民族を点で捉えることによって日和見主義になり、常に場当たり的なポピュリズムは民族の文化を断絶し、いままでの価値観を否定した社会を作ってしまいました。
 さらに深刻な問題は、「日本の勤労文化」が壊れてしまう局面に来ていることです。若い世代が、経済的な自立と仕事の喜びを共感できず、日本社会に不信を抱いている人が増えてきています。大きな柱である「勤労文化」も失う可能性も出てきています。いまの20~30代は、貧困から抜け出したいために、目先の銭儲けと場当たり的な仕事ばかりに目が行ってしまい、拝金主義に類似するような仕事が注目され、負の価値に引きずられています。忍び寄る国家の沈下は、敗戦後の教育を柱にした価値観では、次の時代に導く人知は持てないと思っています。
 国会議員を見ても、民族観とマクロ政策をまともに話せない状況を霞が関村で作っています。どれだけ、国家観と民族観を持たない人間が「政ごと」をしているのか、国会審議を見ていても露呈しています。不毛な審議と無駄な時間は、国の発展を妨げ国民の生命すら危機にさらしています。メディアはそれを伝えず、事実を水面下に隠し国民に考える機会すら与えていません。
 世界は、難局を迎え民族生存競争がはじまっています。民主主義陣営は、中国を「ジュノサイド」として認定して、臨戦態勢に入っています。日本の審議を見ていると本当に危機と思っているのか? あまりにも稚拙な国会運営に驚いています。いま、必要なのは国家単位で「民族の尊厳」と「国益」をどう守るかを優先事項にして国づくりをしなくてはいけません。
 経済政策一つとっても、政策の成果は2~3年後に開花します。いま打たないと、3~4年後にはさらに経済は沈んでいきます。政策が遅れれば遅れるほど、日本の成長はさらに遅れ先進国から貧困国になってしまいます。そのような社会に成れば、さらに失業者が増えて若者は未来に希望が持てず、自信喪失と絶望しか描けなくなり地域社会の治安は悪化していくでしょう。そして、優秀な日本人は国内から世界に出ていき、人材の空洞化にも繋がっていきます。
 75年の間に、日本は文化を捨てる教育したことによって、「精神の空洞化」を作り民族の価値観が骨抜きになってしまいました。その解決から取り組んでいかないと、民族の文化を取り返すことは出来ないと思います。令和から、文化を取り返す教育に変えて、民族の誇りと個人の誇りを持つ教育にしていくべきです。
 昭和の後期から平成にかけて、銭儲けだけを重視した教育は平和ボケを作り、ほとんどの日本人は「生」に対して受動的にしか考えない思考にしてしまいました。「経済的な要因」も「国防」に対しても、「生命の危機」においても関心を持たず、自立して生命の存亡がどうあるべきかという問いがないまま、日本は国づくりをしてきました。いまの日本社会の現象は、責任を負わない全体主義と表面的な「仲良しクラブ」が、得体のしれないイデオロギーや歪んだ思想を作り、教育やメディアを媒体にして日本人の心の中に植え付けられていることです。それを巧みに使う人たちが、教育者・知識人・議員・役人が中心になり、言語空間の支配と高収益集団を作り社会構造を作ってきました。
 いま、日本人は、先人から受け継がれた人知と民族の誇りを取り戻さなくてはいけません。それがないがゆえに、「みんなに嫌われない」「みんなと同じ」という歪な全体主義が、主体性のない同調圧力となり、社会を閉塞にして子供社会から大人社会にいたるまで蔓延しています。このいびつな同調圧力は、世代をまたぐことによってさらに閉塞感を拡張して、日本人を閉塞社会に縛り付け身動きが取れない状況になっています。その意味を理解しないと、民族の人知と文化は断続性の社会から抜け出せないと思っています。

 

<一つの生き方しか教えてこなかった、日本の教育>

 敗戦後の日本教育は、一つの生き方しか教えてきませんでした。家庭でも学校でも教育の柱は、いい偏差値を取り、安定と収入が高い会社に就職することを人生のゴールにして、人生プランを最優先してきました。結婚やマイホームなどは、人生の付随のような組み合わせになってしまい、まずは学校と企業が優先事項になりお金で買える裕福さしか持たない価値観を幸せとしてきました。それによって、拝金主義による人生設計が家庭でも学校教育でも中心になり、学歴信仰とサラリーマン信仰が一つのセットになりました。そのレールから逸脱すると、脱落者や落伍者として扱い、レールから外れない価値観を植え付けてきました。それによって作られた思考は、「お金」と「仕事」の関係がまったく理解しない人間を大量に作ってしまいました。その結果、いま現れているのが、年功序列賃金体系や終身雇用のシステムが壊れたとたんに、思考回路がゼロになってしまい、次の人生設計が立てられない、中高年の問題です。
 この現象は、さらに深刻になっていくと思います。思考停止になっている個人を、どのように発想を変えて人生につなげていくのか? 敗戦後の教育は、一つの世界観しか教えてこなかったことによって、次の時代を人知でイメージが出来ない人を多く作ってしまいました。サラリーマン社会で生きてきた人の大半は、社内での問題解決をする術を持っていますが、社外に出たとたんに秩序がないところから土台を作り人生を組み立てる能力は徹底的に欠如しています。 
 特に、仕事とお金の関係がどのようなロジックになって、お金になるのかが明確にわかっていないのが、いまの日本人です。それにより、何が価値になり何が仕事なのかがわかっていないため、自分の能力と収入の関係がまったく理解していません。会社員のときは、タイムカードによって自分と労働と収入のイメージは付くのですが、そこから先の労働とお金の関係は、まったく把握していないのが実体です。
 日本人がイメージする仕事は、費やした時間がすぐに収入になるという思考で労働をとらえています。脱サラして、起業をして上手くいかないのは、もう一つ上の次元のお金のロジックの思考が出来ないからです。
 具体的に話すと、1年間300万円の収入を得ようとしたときに、「お金の動き」と「時間」と「仕事量」は無限の組み合わせで成り立っています。

■ 毎月25万円の一定の収入が入る仕ケース。
■ はじめの10ヶ月は、収入は0円で最後の2ヶ月300万円というケース。
(起業したときなどは、お客が付くまでランニングコストがかかる場合)
■ はじめの1ヶ月で300万円の収入があり、11カ月は0円というケース。
(ブームの仕事をして、当初は利益が出たけども流行りが去った後は、利益にならない場合)
■ 毎月10万円の収入だが、7月80万円 8月70万円 12月60万円というケース。
(リゾート地や観光地にあるケースで、特定の月に利益が出て通常日は利益が出ない場合。)
■ 期間限定1週間で300万円の収入にして、他の時間は余暇にあてるケース。
(イベント会場での販売や高単価なサービス・モノを短期間で仕事にする場合)

 サラリーマン文化に慣れている人は、一番初め例は仕事としてイメージは沸くのですが、それ以外のパターンに対しては、空間デザインが出来ない思考になっています。それは、自分(能力)と仕事(市場)とお金の関係が解っていないから、流行りのビジネスをやりすぐに廃業にさせる傾向があります。最近の例では、タピオカ店がブームになりましたが、「お金(資本)」と「仕事(市場)」の関係を理解した人は利益が出たと思いまが、ブームに乗って開業した人たちは借金しか残らなかったと見ています。「お金」と「仕事」の関係が理解できていないと、同じことを何度も繰り返します。目先のお金を追い、拝金主義を前提にした仕事のモデルは、結果的に何も残らないで資金と無駄な時間だけが出ていくだけになってしまいます。ビジネス本やビジネス・セミナーは、ほとんどが“How to”もので浅い人知の中で組み合わせのモノを紹介しているにすぎません。本来、人が必要なのは「勤労する精神」と「時間と収入と生活」の組み合わせだと思っています。
 時間をお金に変える行為は、「長期間の仕事なのか?」「短期間の仕事なのか?」100人いれば100通りの仕事の仕方があります。さらに、自分の性格や能力に応じた形にしなくては、仕事は自分のモノにはなりません。前回は、ワイナリーを例に出しましたが。現在の自分の経験値と能力であれば、おおよその空間のイメージが沸き、自分の実労働も経験値の中から判断ができます。そこに、自分の体内にある好奇心という原動力が、組み合わさった時に行動していまを変える自分の人生になっていきます。これが、仕事と自分が組み合わさる瞬間です。
 誰しも人生の中に、「これをしたい」「これを成功させたい」という気持ちを持っています。その瞬間のときに、自分の体内(魂や精神や胆力)に聞くことで、精神と時運の対話がはじまり行動に繋がっていきます。仕事とは、「自分(胆力・好奇心)」と「時間(年齢)」と「実労働」のマッチングだと思っています。(とは言っても現実は、生活をするための収入と将来を考えてしまい、そこに安定と保証があるのか? 誰しもが考えてしまいます。起業リスクを取るならば、現状維持と何もしないという選択もあります。どちらが自分にとっていいのかは、明快な答えはありません。しかし、その感情(安心・安定)を上回る瞬間があります。)
 まずは、そのプロセスがあった上で、「実労働」と「お金」のテクニカル的な労働原理に組み合わせていきます。
ほとんどの人たちが誤解をしているのは、一番はじめにすることを「キャッシュフローのテクニカル」な技術論ばかり勉強して、一体自分は何を社会に還元しているのか? これを定めないで始めようとします。そうすると、ほとんどの人は自分を見失ってしまい、おかしなことばかりし始めます。そういう人の特徴は、自分の能力や才能と違うことをやり、続かないで中途半端に終わってしまいます。自分の体と対話が出来る人は、分相応の仕事をして人生を前に進めることが出来ます。起業するということは、挫折と成就の繰り返しを続けることです。その繰り返しが、人生を前に進め自分の成長にもつながり、社会から求められる存在になっていきます。日本の教育は、自分の能力と仕事の関係を労働原理として教えてきませんでした。ほとんどの人は、仕事の意味を誤解してはじめるので、起業しても失敗しています。
 一番大切なことは、人生と仕事がどのような関係であるのか、自分の中で答えを出すことです。
 「仕事をしながら生きるということは何なのか?」
 「個人が、仕事というツールで社会とどんな関係にしていくのか?」
体内にある、魂や胆力や好奇心という形而上のモノを具現化する力であれば、ほとんど起業するプロセスは終わっています。仕事をお金に変えていくシステムは、仕組みさえ解れば難しいことではありません。日本人は、先人の人知から受け継いだ「勤勉・勤労文化」を持った、世界ではユニークな価値観を持った民族です。自分が、この仕事に人生を掛ける決意をしたら、仕事と人生が共鳴し合い共存の関係になっていきます。
 他民族(特に西洋文化)においては、「農奴」や「苦役」といった枠で仕事は奴隷がするという「悪」のイメージの中で生活空間に位置づけ文明を発展さて来ました。しかし、日本という国は仕事に精神性を入れることによって「匠」という「美」にしていく特殊性を持った民族です。この感覚は、他人種にはない価値観で日本人独特の感性だと思っています。これは、先人から受け継がれた人知です。

 いまの日本教育の最大の問題は、サラリーマン化した教師が労働原理を解らないまま教壇に立っていることです。教師は、義務教育の9年間で教科書の知識の吸収率だけで人間の価値を計り、偏差値の序列でしか人間形成を見ない教育をしています。家庭でも学校教育でも、偏差値教育と企業システムのレール(社会の常識)に乗ることが最良の人生として教育を続けています。
 それによって、子供のころから「すべて与えられた世界観で生きること」を是とし、主体をもって生きることを否定した教育をしてきました。主体を持って生きるということは、好奇心や胆力を育て、そこに責任を持つことを学ばせることです。そして、社会と自分の関係を知ることで、「与える(周りや社会に自ら与える)」意味を学び、良いことも悪いことも含めて社会の空間デザインが出来るようになります。子供の教育時から、主体性に動くトレーニングをしていない結果、「何をしたら周りの人が喜び」「何をしたら人は悲しむ」かを、理解をしないままコミュニケーションが取れない人や礼節が出来ない人がふえたというのは、すべて原因はここにあります。彼らにとっても残酷なのは、教育の段階から先人の人知を身に付けないで社会に放り出されるので、社会人として上手くいくはずがないのは同然です。いまの日本の教育問題と現状は、すべてここに集約されています。
 主体性に動くということは、「周りに自分が与える」行為であり「社会に与える」行動であり、社会空間をデザインすることでもあります。いまの日本社会の精神は、すべて周りから与えられることが前提で社会が回っているから、自分の人生すら決めることが出来ず同調圧力で人生を決めています。

 

<結いの人知を忘れた日本人>

 常に「与えられる」ことばかりを主とした社会は、自分の欲求が満たされないと周りを攻撃し、責任を社会に押し付けて責任転嫁をする傾向があるような気がします。そして、自分の主張を正当化する割には、自分が社会での責任を負おうとはしない。いま日本社会が歪んだ構造になっているのは、主体性に生きる人が減っていることと、主体的に生きようとしている人の芽を摘む社会になっていることが、大きな原因だと見ています。
 主体をもって「社会に与える」という発想に切り替われば、自分の自我が芽生え自分に責任が生れます。そして、周りとって必要な存在になるための「自分探し」がはじまります。そいう人が増えてくれば、そこには人の和が生れ「結いする場」と「経済活動」が自然にはじまります。

 先日、日本からの旧友に相談されたのは、
「会社から圧力をかけられ会社に残れない空気になって生きるのが辛い。」
「会社側は、業績も出して長年働いてきた人間を切れるのか? 国も、経済対策をもっと打って経済をささえてくれ。何をしているのか!」と言って、しばらく愚痴とも捉えられるような話しが続きました。
 確かに、四半世紀費やした同僚との時間や苦労は、生きざまと誇りになって、自分史がその会社にあるのも伝わってきました。が、私は友人に言った言葉は、「本当に必要な存在であれば、会社側も頭を下げて残って欲しいと言ってくると思う。自分の存在が唯一無二であれば、会社は手放さないと思う。」
 そして、「過去の実績は切り離して、いま現在の自分の能力は会社に与えている側になっているのか? それとも会社側から、与えられている存在なのか、どっちなんだ?」
その問いに対して旧友は、言葉に詰まり沈黙をして、しばらく無言の空間になりました。しばらくして、私の方から放った言葉は、
 「会社側が、リストラを匂わせて自分の場所が無いのであれば、早期退職をして自分が主体になって、次の人生を歩むべき。無駄な消耗戦をして、精神を擦り減らしても先がないなら、与えられる人生になるのではなく、与える人生に切り替えろ。」と告げました。
 そして、また無言の空間が続きましたが、しばらくして友人は「そうだよな。自分が主体にならないといけないよな。」と言って、いままでのわだかまりが取れたような空気になりました。本人にとっては、疎外感と経済的不安が同時に来る将来の恐怖は、当事者でないと本当の辛さはわかりません。
 でも、その苦境によって、自分の心との対話する機会をもらったとしたら、それはプラスかもしれません。多くの人は、その場もなく日々の生活に追われ同調圧力によって、心身に支障をきたし精神が壊れ惰性で人生を送っていることを考えたら、自分の意志で行動が出来るということは、素晴らしいことだと思います。旧友は、「与えられる人生でなく、与える人生になれ。」と言っただけで、生命のスイッチが入り、もう一度自分の生き方を取り戻す機会を得ました。いま、一人一人に必要なことは昭和や平成に作られた前例主義から脱して、生命のスイッチを入れてゼロベースから、自分を叩き上げることだと思っています。心の底に眠っている、魂の声に寄り添えば自然に次の人生が見えてきます。