<明治百五十年に、何が終わるのか?>第四回

積哲夫の問い

復活した薩軍は、私の記憶では、東京まで進軍し、その後、北海道からユーラシア大陸へ行ったグループと、北アメリカを目指したグループに分れました。北アメリカへ行ったグループは、ワシントンのアーリントン墓地に行き、そこに眠っていたアメリカ軍の将兵に、光の情報を伝達したわけですね。これは、普通の人間には、はじめて開示される情報ですが、このタイミングで、第二次世界大戦における日米の戦闘参加者たちの霊的世界で、和解と理解が成立しました。人間世界でのアメリカ議会での安倍首相の演説が成功したのは、こうした精神界のバックアップがあってのことだったというのが、私の認識なのですが、そのアーリントン墓地へのグループを率いたのは、村田新八でした。そのハタラキを、なぜ村田新八は知っていて、できたのかについて、知っていることをご紹介ください。

 

マツリの返信

復活後の薩軍がふたつのルートに分かれたのは、明治初期の彼らの実経験を反映したものと考えられます。

西郷さんは、ユーラシア全体の関係性の中で日本をどのように位置づけるかということを重視していました。明治五年には、北海道に鎮台を設けて自らが司令長官となるという構想を、開拓次官だった黒田清隆に送っています。そこには、桐野利秋、辺見十郎太、別府晋介らと共に北海道へ移住し屯田法によって開拓したいこと、樺太には鎮台の分営を置き、その司令長官を篠原国幹にすることが記されていました。北海道への移住は翌年の春に閣議ではかられたそうですが、実現しませんでした。

同じ頃村田さんは、岩倉使節団の一随員として西洋各国を訪れていました。

 

村田新八の経歴

村田経麿(経満、新八)は、天保七(千八百三十六)年に生まれました。九歳年上の西郷さんには、幼い頃から兄事していたそうです。

文久二(千八百六十二)年、島津久光の命に背いたため西郷さんは徳之島へ、連座して村田さんは鬼界ケ島へ流されました。鬼界ケ島へ着くまでの記録『宇留満乃日記』には、航海の様子といくつかの和歌が残されています。

西郷さんはさらに沖永良部島へ流されますが、元治元(千八百六十四)年に赦免され鹿児島へ召還されました。その際に、西郷さんは鬼界ケ島へ迎えの船をまわらせ、何も沙汰が下されていなかった村田さんを共に連れ帰りました。

戊辰の役では、薩摩藩軍第二番隊監軍として奥羽を転戦し、賞典禄八石を得ますが、新政府への任官を断り鹿児島へ戻りました。鹿児島常備隊では砲兵隊長をつとめています。

明治四年、政府の要請で上京する西郷さんに従って上京し、宮内大丞に任命されます。その後、東久世侍従長の随員として岩倉使節団に同行することになります。この村田さんの渡航と近い時期に、長男の岩熊(十蔵)も鉱山について学ぶため、開拓使留学生の一員としてアメリカへ留学しています。

五年の秋にヨーロッパで使節団からは離れて、その後パリやスイスなどを訪れたようですが、六年末から七年初め頃に日本に帰国したようです。宮内大丞の職も、この間に辞したようです。なぜ使節団から離れたのか、現地で何をしていたのか、そしてなぜ帰国したのかは分かっていません。

帰国後は鹿児島に戻り私学校の設立に参加、旧砲兵隊員二百人を収容する砲隊学校の監督となりました。西南戦争では薩軍の二番大隊長をつとめ、緒戦は田原、吉次、植木方面で戦線を指揮しました。十九歳になっていた長男・岩熊も、アメリカから帰国後鹿児島へ戻っており、四番大隊七番小隊の一員として西南戦争に参加していましたが、四月一日に植木で戦死しています。のちに「田原坂」に歌われた馬上の美少年のモデルは、この岩熊だといわれています。

四月十五日に官軍が熊本城に入城して以後、薩軍は守勢にまわります。村田さんは本隊の指揮を取り、人吉から都城、佐土原、宮崎へと転戦していきます。苦戦が続く中勇猛に奮戦を続けましたが、敗色は次第に濃くなり、八月初めには全軍が高鍋に退却。古閑俊雄の『戦袍日記』には、死を覚悟した村田さんが従者に遺品と幼い子の将来を託した時に語ったことばとして

 

而シテ吾レ若シ大将及ビ利秋等ト共ニ泉下ノ人トナルトキハ、姦臣益々権威ヲ擅ヒママニシ、忠誠直言ヲ進ムルモノハ之レヲ退ケ、面諂巳レニ嬌ル者ハ則チ之ヲ揚ゲ、遂ニ我ガ神州ヲシテ洋夷ノ版土ニ帰センコト鏡ニ懸ケテ見ルガ如シ、呼々祖宗開国二千年ノ業今将ニ蠻夷ノ手ニ落ントス、吾レ生命固ヨリ惜シムニ足ラズト雖モ、忠臣尽ク国事ニ斃ル、誰カ又此天歩ノ艱ヲ救ウモノアランヤ…

 

と書かれています。

その後も官軍の追撃を受けながら、高鍋から美々津、延岡と宮崎の海岸線を北上する戦いが続き、八月十五日の和田越の戦いでは西郷さんが自ら陣頭に立ちましたが、陣を突破されて退却、山形有朋が指揮する官軍に包囲されます。ついに十六日に解散令が西郷さんの直筆で出されると、本隊のはからいもあって傷病兵と党薩諸隊の多くは投降しました。村田さんの次男・二蔵や『戦袍日記』を残した熊本隊の古閑俊雄も、長井村で投降しています。

西郷さんが奄美大島で愛加那さんとの間にもうけた菊次郎も、西南戦争に参加していましたが、この時、弟・従道のもとに託されました。右脚を切断するほどの重傷を負っていました。

残った少数の兵は、軍議の末、十七日に官軍の包囲を突破して可愛岳(えのだけ)を越え、宮崎の山間部を南下する進路を取りました。三田井から米良を経て九月一日には鹿児島に戻り、城山へ入ります。二十四日の官軍総攻撃をもって、七か月に渡った西南戦争は終わりました。この日まで村田新八は西郷さんとともにあり、四十二歳で戦死しています。

 

復活後の村田新八とそのハタラキ

西南戦争で戦死したのち、薩軍の一団のみたまは眠り続けていたようです。復活後目ざめた時には、すでに戦争というものや、その勝敗の結果を超越した状態になっていました。私の印象では、村田さんはあたたかみがあってとても優しく、いつも落ち着いていて、知的で語りかけの上手な人でした。まわりを励まして鼓舞する様子も、よく見られました。

正しい光の情報は、生きている人以外にも伝えられると「最終知識」には書かれています。光の情報の内容をいちばん最初に理解した村田さんは、それを薩軍の人たちに伝えていったようです。あるいは光のもつ特性として、村田さんの存在をとおして、ほかの意識体へも情報が伝わっていったのかも知れません。

そして、本当に不思議なことですが、村田さんは西南戦争の後に起きた歴史の意味を理解しました。

「アメリカと日本が戦争をして日本が敗れた。しかしその結果、より深刻な痛手と影響を負ったのはアメリカだ。アメリカの兵士が真に戦うべき相手、アメリカの社会が戦っている相手は、ペリーによる開国以来日本が戦い続けたものと同じだ。そして、その戦いは今もまだ終わっていない」

村田さんと次男の二蔵は、実体験としてアメリカや西洋の社会を知っていたことから、すぐにこの知にいたったと考えられます。新政府、また官軍の豊富な物資と軍事力の背後にあったもの、それが彼らが戦う本当の相手だという認識は、幕末から明治初めの時代に生きて社会の変化を目の当たりにした人たち、特に西南戦争に参加した士族の間では共有されるものでしたから、ほかの復活者も理解できたようです。

そして村田さんを中心とするグループはアメリカへ渡り、その中で英語を解する人たちが主な役割を担って、アーリントン墓地で光の情報を伝えました。アメリカの将兵もその内容をすぐに理解できたようですので、実際の戦場を知る士官クラスの人たちには、国籍をこえた共通の認識だったと考えられます。この和解と理解が人間世界の側にどのように影響したのかは、私はお伝えする立場ではないので差し控えます。

村田さんたちのハタラキは、これまでアメリカと日本という国家対国家の枠組みの中で語られてきた戦争の実の姿が、決してそうではなかったことを現しています。

さらに、自らが信じた正しい道を進むならば、時代や周囲が変化してもそれに流されることなく、たましいは存在することができる、そしてその本質にあるのは、なにものにもとらわれない自由であるという貴重な情報を、まるでその志を継ごうとする人たちへの贈りもののように伝えてくれています。