<明治百五十年に、何が終わるのか?>第九回

積哲夫の問い

西南戦争は、その後の日本の型としての戦いであったことが、どうやら見えてくるのですが、ここで一気に、明治維新が南朝の後醍醐天皇のある種の思いの結界から生じた可能性について考えてみます。昭和六年の陸軍大演習が熊本で実施されましたが、その中心は、菊池神社のある場所で、そこは同時に、西南戦争の激戦地でした。この菊池氏は、南朝方の有力な武将であり、その家臣だったのが西郷家だとされています。その一部が薩摩に行って、西郷隆盛を生み、東北に行った一族から、会津藩の家老となる西郷頼母を生んだようです。明治天皇が、南朝を正統とし、楠木正成をはじめとする武人の名誉回復をしたことも、戦争の世紀となる二十世紀への同意だったのかもしれません。この西郷家の秘密について、伝えられていることがありますか。

 

マツリの返信

明治維新の思想的な原動力となったのは、水戸学です。水戸学は、十九世紀前半に南朝の天皇を正統とした歴史書「大日本史」の修史事業の中で生まれました。水戸黄門として知られる第二代水戸藩主の徳川光圀が、明暦三(一六五七)年に修史の事業をはじめ、それから約二百五十年後の明治三十九(一九〇六)年に、本紀・列伝・志・表全三百九十七巻、目録五巻として「大日本史」は完成しました。この間、延宝四(一六七六)年から元禄六(一六九三)年には、各地に残る古典資料の収集のため十三回にわたって調査要員を派遣し、その範囲は京都・奈良、高野山、吉野・熊野、北陸、東北、九州におよびました。

「大日本史」の編纂にかけられた熱意と膨大なエネルギーが、後醍醐天皇の執念に由来していて、それに反応した人たちを動かしたとしてもあまり不思議ではないくらい、後醍醐天皇の思いのエネルギーはすさまじいものです。

「大日本史」が現代の歴史観に与えている影響は大きく、南朝の忠臣の代表という武人・楠木正成のイメージも、維新期につくられたものです。実際の楠木正成は河内国千早(大阪府南河内郡)で輸送を業としていたものたちの長で、付近の街道を掌握していたようです。山でのゲリラ戦を得意とし、楠流軍学の内容から忍術の使い手だったと見られます。南朝方には、楠木正成のような「悪党」と呼ばれた武装工作集団が数多くついていました。

 

菊池と西郷一族

慶応四(一八六八)年七月、明治天皇は南朝に忠義を尽くした菊池氏を祀ることを熊本藩に命じ、居城跡に明治三(一八七〇)年菊池神社が創建されました。現在の熊本県菊池市隈府(わいふ)にあたります。主祭神は、菊池氏第十二代武時、第十三代武重、第十五代武光で、第十六代の武政以下二十六柱が配祀されています。

菊池氏初代から、西郷氏を名乗るようになって西郷隆盛へと続いていくまでの系譜には諸説がありますが、西郷さんの先祖は江戸時代には薩摩へ入り、島津に仕えるようになっていたと見られています。西郷さん本人が、南朝の功臣として知られた菊池一族の流れを継いでいることを意識していたのは確かで、奄美大島へ潜居を命じられた時は「菊池源吾」と名乗っていました。また、南朝方の武将を祀ることにも尽力しています。

会津藩の家老だった西郷頼母は、三河(愛知県)を本拠にした三河西郷氏の分家の出身です。三河西郷氏は、徳川氏や松平氏の一門に多く仕えています。一説に、南北朝時代に肥後から三河へ移り住んだ西郷氏の流れを継いでいるともいわれています。

西郷家というより西郷隆盛に関係する情報として、精神界からは「キクチはマカタ(マガタ)であった」と伝えられています。このマカタまたはマガタは、おそらく「真方衆」(マガタシュウ、マガタンシ)のことを示していると考えられます。九州の真方衆は、諜報(隠密、忍び)の集団です。

「マカタ」というともうひとつ、「日月神示」がはじめて降りたのは、現在の千葉県成田市にある麻賀多(マカタ)神社でした。日月神示の中で「富士と鳴戸の仕組、諏訪マアカタの仕組」(松の巻第十四帖)とも出てきます。なお、麻賀多神社は佐倉藩の総鎮守で、佐倉藩にも立身流という兵法武術が伝えられています。

 

「キクチはマカタであった」という情報は、明治維新の実像をとてもわかりやすく伝えています。江戸幕府の衰退がはじまって外国の脅威が近づいた時、南朝を正統とした水戸学から強烈な尊王思想が広がりました。倒幕と維新の現場で動いた人々の多くが西郷さんのような下級士族や、山縣有朋のような士族以下の武家奉公人だったことは、かつて南朝方についた楠木正成のような階層と重なっているようです。

後醍醐天皇の思いのエネルギーが人を動かし、人もそのエネルギーに反応して動くという相互作用が起きたのではないでしょうか。明治以降、日本各地で南朝にまつわるいくつもの説話が出てきたのも、一連の出来事だと考えられます。

西南戦争の薩軍の退却ルートからも、後醍醐天皇が作った強い結界を見てとることができます。薩軍は、菊池と山鹿から北へは出ることができず、かつて南朝方の九州の武将たちが勢力を持っていた範囲へは進出できないまま、険しい山岳地帯を転々と退却し、最後は菊池氏の末裔が幕末まで領主をつとめた宮崎の西米良を経て、鹿児島へ戻る道を選びました。

こう見ると、明治時代の背景には、強い破壊力を持ったエネルギーが存在していたことがわかります。いくつもの神示によって伝えられてきたように、明治維新は「実力行使による間違った岩戸開け」でした。このエネルギーは、大日本帝国の拡大政策と昭和二十年の敗戦の原因のひとつになりました。熊本で陸軍特別大演習が行われた昭和六年は、満州事変が起きた年です。