<明治百五十年に、何が終わるのか?>第二回

積哲夫の問い
西郷グループのたましいの復活の過程で、これまで、私がくり返し伝えてきた、明治維新の元勲をはじめとする参加者のなかで、神格を与えられた存在が、明治天皇ただひとりであったことが確認されたわけですが、これについて何か教えられたことがありますか。また、西郷さんのたましいは、復活し役割をはたすプロセスで、神界に座を与えられてもいいくらいランクの高いミタマの存在が確認できたと思うのですが、責任を取って去りましたね。
このことについても知っていることがありますか。

マツリの返信
幕末から明治維新にかけて、諸外国の革命や内戦に比べるとはるかに数が少ないとはいえ、多くの血が流されました。維新の関係者は、公に裁かれていないとしても、何らかの罪に関わっていた人も少なくありません。

その一方で、神格は与えられていませんでしたが、維新の志士や先の戦争で戦った人たちの中には、人間(人格)として役割や目的を全うした人たちも複数いたようです。
「最終知識」に書かれているように、人間のたましいの内部には『神になりたい』という因子も内在しています。けれど、神のようになることよりあえて人間として戦うことを選んだ、レベルの高いたましいが存在していました。
その真っ直ぐなこころざしは、「おほみこころ」にとても近いものでした。

明治維新から敗戦までの日本の宗教思想や時代の背景と、たましいは自ら生まれる時を選んで生まれてくるという精神界からの伝達をあわせて考えると、神々がその時代のためにワケミタマとして送り出した人たちだったのではないでしょうか。
また、積さんが光文書に「皇軍の霊団はなにものかによって保存されていて、復活して光軍となった」と書かれていたように、彼らはなにか、精神界の中の特殊な領域にわざわざ分けられて存在していたという印象が強いです。

西郷さんについては、諜報の任務についていた時期もありましたし、維新の過程で特に多くの若い人たちが命を落としたことへの自責の念や罪の意識は、非常に強く持っていたようです。
小説やドラマで描かれてきたような愚直なイメージが強い西郷さんですが、残されている手紙や資料を読んでみると、複雑な背景や内面性がある存在です。
積さんのお話では、光の世界ではないところへ去ったとのことなので、個人的には、まだそのたましいのテーマは終わっていないのかも知れないと感じています。