二千十八年六月二十九日
順番が前後しましたが、なぜふたたび<みおや>さま方につながる神々があらわれ、何が進行していて、何をお伝えになろうとしているのか、記録を公開します
二千十八年六月三日(日)十時五十五分から
五月三十日(水)には「みつきのとむらい」、この日は朝から「最終知識」第一章の終わりにある「今日の斎神、身月なりなむ」ということばがおりていました
かみさえ しらぬと いうことは
ない ということではない
よみとけないだけ よみとけなかっただけである
(“かみ” というもの そのものを よみとくこと が必要だった)
二千十八年六月三日(日)十五時三十七分から
人間が ダイレクトに 神知にふれることが できる時代に
そのための メディアはいらない
——————————————————
二千十八年六月四日(月)四時から
進行中のことについて
この 新・神知と人知 の内容は、「みやまには…」という歌によって神々と人が交流する回路を使って「最終知識」の<みおや>さまにつながる神々が伝えてきたものです
この神々は、今の人間への強い不信感をおもちです
二千六年三月に人間におりて、すでに十二年が経過しています
なぜ<みおや>さま、ウシトラノコンジンという神々が、受信者を介して直接伝えることにしたのかの説明です
「最終知識」に書かれているように、<みおや>さまたちは「最終知識」の内容と、積さんの神さまに直接コンタクトできないこと、光の宇宙には直接行けないことを理解して、人間におりられました
それなのに人間の意識の中では、積さんの神を直接知ることができるのではないか、光の宇宙に行くことができるだろうという根強い思いが消えることがありません
ほとんどの人間のなかで<みおや>さまたちの神格を目覚めさせないように、生きている人間の意識が封印してしまった、と神々は伝えてこられました
千九百九十一年から「最終知識」が書かれた二千五年まで十五年、さらに<みおや>さま方が人間におりられた二千六年から二千十八年の十二年の時間の経過があれば、正しい神格がきちんと目覚めて成長したものは、神知の領域にいたるはずであった、と
【最終知識は人間が求めたものなのではない、神が求めたものなのだ】ということをふたたび思い起こしてほしい
そのためにこのページをつかってお伝えになることを希望されています
「この【知】がおかれていなければ、神々は知識に融合することができないことを、人間は知らなくとも、神は知っておられる」と、強くお伝えになっています
次に記したことは、重要な内容だと伝えられています
神は人間を学ばなければならない、人間は神から学ぶことができる
ここに、相互反応が生じる
神々もある目的や意志があって、それを果たすために存在している
(これは、ある目的や意志によって存在させられていると言い換えることができるし、目的や意志を「知」「知識」と言い換えてもよい)
ということを理解しなければいけない
生きている人の人生の意味が、個人のたましいの過去のデータや人間霊の問題になってしまいつつある
神が存在する理由、つまり人間にワケミタマが入っている理由は、それと同じではない
このことを理解しなければ、お金に奉仕しつづける人間はいなくならない
みずからの精神について考えつづけ、みずからが発見することで、神知に近づくことができ、神知の扉が開かれる
積さんの精神が積さんをつかさどるものによって作られたように、その人にとっての神によってその人間の精神は作られている
つまり、悪魔を神としていれば悪魔によって精神は作られてしまう
ウシトラノコンジンの中でも主に国津神のグループがしようとしているのは、霊の問題と神格の問題の分離
この混同は、明治のまちがいによって生じてしまった
——————————————————-
一方で神々は、時がきたことをおよろこびになっています
この時を待っておられたからです
この神々にとって『最後の一厘の成就』とは、新しい時空へ開放されることを意味します
六月三日の
“かみ” というもの そのものを よみとくこと が必要だった
人間が ダイレクトに 神知にふれることが できる時代に
そのための メディアはいらない
へのひとつの説明です
公開することによって「みおやも次に進むことができる」「世界が変わるぞ」とおっしゃっています
二千一八年六月二十六日(火)十七時四十八分から
<みおや>というものは、自己修正機能のついた進化型のプログラムであり、
日本人のマザーコンピュータに例えられるものである
進化の段階に応じて、プログラムは改編される
開放されているならば、さらに検証と修正がなされ
みずからの歩みを確認することができる
そこに、過去の物語は必要とされない
新しい契約がなされたならば