天からの贈りもの

2013年2月13日
『光の精神に成る。』26
≪至福の喜びに到る=(命の書、最終知識、精神学、おふだ)13≫

【 天からの贈りもの 】

1、 2013年2月13日(水)
これは自分への記録として 
今日は誕生日であります。
今まで導いてくださった天とこの地球と宇宙と
両親と親族と親友と仲間と
積先生と積先生をつかさどる存在さまと
精神界の皆さまと私を小さい時から導いてくれた導きの星とその聖なる光
に感謝いたします。

2、『人間である間に上昇すれば
   光のなかに去れる
   人間である間に下降すれば
   地獄に去る
   これより例外はいらぬ
   このために審判のみたま
   天の御使いが
   天地の契約によって生まれた
   すべてがあらたにされた』
               「最終知識より」

3、積先生とお話をする機会があり、積先生は「天のみこころのままに、と願い、天の働きをしたいと願う人は多いが、実際は天の要請で天と共に働ける人は少ない。」といわれました。
砕けた言い方をすると「神や仏の高次の神霊に関わり一緒に働きたいと願う人は多いですが、実際は唯一の神様から要請された人は少ない。要請されても唯一の神様の要請通りに働いている人はもっともっと少ない。」ということです。

願うのも拒否するのも「目覚めた人間の意識が、いちばん強いという原則」(最終知識)
からすれば、自由ではあります。
しかし、天の、唯一の神様から要望される人は非常に少ない。
そしてそれを覚悟して天の、唯一の神様と共に働ける人はもっと少ない。

4、今日、本屋の文房具コーナーでメモ手帳を買うのに少し悩みました。
1つ買うか、2つ買うかの話なのですが、そのメモが小さい時から予告されていたメモらしくて、数量で悩みました。
悩んでいると内なる声が聞こえてきて、「友よ、1つにした方がよい。」と心に浮かんでくる。
何度も1つでレジに行こうとするのですが、身体がレジの方向へ動かない。
心が揺れる。そうしていると、「なぜ悩まなければならないのだ?」という疑問がでてくる。
些細なことで心が揺れる。
なぜ心が揺れる。
後悔したくないのはどちらか。
1つのほうである。2つ買えば後悔しそう。
ところが最近、精神学を学んでから「自分の心が拒否している方向(なんとなく逃げている方向)が後々正しい結果となっている。」というのを思い出しました。
そしてもう一つ、精神学から学んだこと、この内なる声は「人間臭い、自分臭い」感じ。
それに気づいて、2つ買うと決めると、突然いつも私の頭の映像で、「頭上に光っている導きの星」が現れてことばがありました。
「やっとつながった。」と「導きの星」は喜んでいた。
私も「ありがとうございます。」と心から今までの感謝を「導きの星」にお返ししました。

5、積先生は「精神学(シンロジカル)は実学である。」
といわれている。
実際、精神学を学ぶと結果が伴う。
結果が出ないのは間違っているからです。
間違っていれば軌道修正すればいいのです。
積先生と話していて、「外人に精神学(シンロジカル)とスピリュチュアルの違いをどう伝えるのだ。」と質問され、答えられませんでした。
それからずっと違いを考えていて、先ほどの「導きの星の声」を聴いたとき、
「おそらくスピリチュアルは人が魔法のように自分の願望も、何かして願えば実現すると認識してる。
これに対しシンロジカル(精神学)は天の、唯一の神の要請にて、自分も神霊も高次の意識体、聖霊、精霊も含め、論理的な方法で現実化するものである。
要はゴールが自分の願望や都合でなく、天の、唯一の神のみこころのままに、である。
新しいルールになって天の要請にこたえる人は、天の御使いのサポートが常にある。

6、救いはある。
「役割を終えたものは去るのが正しい、というルール」(最終知識)があり・
苦しいことはいつまでも続かない。
ありがたいです。

7、積先生は「命の書に登録してあるからといって、たましいの目標が達成されていなければ、またそれを行いに働かなければならない。その時、僕はいないかもしれないしね。」
といわれました。
砕いていうと「命の書に登録された方はいつか光の宇宙へ行けるでしょう。しかし、たましいの光のお役目(目標)を達成していなければ、どこかでまた働かなければならなくなる。
その時、積先生はいるとはかぎらない。」という内容でした。

8、最近の私の関心事は「こころとは何だ。」というものです。
 積先生は「うかのみたま(様)は、みたまとついているので、もっと崇高で高次なものだ。ヘビなわけがないだろう。うかのみたま(様)に失礼だ。」といわれました。
このことばが頭からは離れず、「みたま」というのは「もっと崇高で高次なもの」だと知りました。
では「こころ」とはなんだろうと。
「最終知識」に「こころ」のことが最後に記載されています。
私も「こころ」が原因で情、感情、愛情が生まれ、うらみ、つらみ、悲しみも生まれるのでは
ないかと思っています。

高校の時、浄土宗の仏教高校だったので仏教の時間がありました。
法然上人の言葉に
「月影の いたらぬ里は なけれども
      眺むる人の 心にぞすむ」
                  法然上人
意味「月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月(月の影)は、はっきりと存在してくるのです。」
砕くと「月の光はきれいで常に地上に届けられているのに、月に雲がかかり月光を遮る様に、見ている人のこころが曇っていると清い光もその人には届かない。」ということです。

「こころとは何だろう。」
「みたま」が「もっと崇高で高次なもの」で天からお預かりしたものであるなら、そのエネルギーを邪魔しているのは、自分の「こころ」ではないか?という気がします。
ところが世間では「こころ」が好きで、これが「スピリチュアル」と一緒になって、自分の願望を達成することが正しいとしている。
「こころの満足」、「スピリチュアルの効用」を大いに受け入れている。
でもひょっとしたら「天の、唯一の神の要請とは逆」なのではないのかなと思います。
それは死んだ後、自分のたましいの行き先でわかりますが、「天に召されるたましいはあまりにも少ないのかも。」
「こころ」についてはまた積先生に質問します。

9、最後に積先生と和歌山支部長の長女さんに心から感謝します。
後方から光の声に呼び止められて撮った写真はとても美しいものでした。
天からの写真を頂いたと思い感謝し掲載いたします。
 お二人と天と光に感謝をいたします。
 「本当にありがとうござました。」

ミエル

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