昨日、久々に兄と長い時間話をしました。家族のことや精神学について数時間話をしているうちに、頑なで自分を曲げようとしない兄と自分が写し鏡なんだということに気付きました。
そして「自分を認めてほしい」ということに話がおよび、「人は誰かに認められ、必要とされているから頑張れるのである」という主張と、「誰かに認められたり、必要とされないと頑張れないのか。また自分で自分を認められれば良いのではないか」という主張がぶつかりました。ものすごい時間を話しても、お互いに頑固で折れるということをしない兄と私。電話で1時間、さらに顔を合わせて2時間。

挙句の果てに、私の言っている「認める」という言葉の意味と、兄が言っている「認める」という言葉の意味は、同じ「認める」でも意味が違うと言い始める兄に思わず言い放った。
「僕はこれだけやっています!っていう人ほど、自分のことを見てないんよ。僕はこれはできるけど、これはまだ出来ないとか、至らないところがたくさんあるって、自分の長所も短所もきちんと知ってて、自分はまだまだだって思っている人ほど、人から認められるんじゃない。僕はこれだけやってます!って自慢げに、自分の至らないとことを認めない人を誰が認めてくれるの?自分を認めてほしいなんて傲慢にもほどあるんじゃない。」
言ってしまった。言わされたような感覚もあるが、私が言った言葉であることは事実だ。

そして気付いたことがふたつ。いとちいさきものでなければ、見たいもの以外も見えないし、聞きたいこと以外も聞けないのだと。そしてあの兄に言い放った言葉は、実は自分に向かって言った言葉だったのだ。
我が家は兄をのぞく全員が精神学協会の会員で、今回の長時間の話の発端も家族が精神学を学び始めて変わりゆくのが、今までの家族とは違うように感じる兄の中でどうやらそのことが嫌というか言葉では表現できない複雑な感情を抱いているところから始まったのだが、実は私の中に、兄に対して「精神学は宗教じゃない」と「私たちが変わりゆくことは悪いことではない」と認めて欲しいと思っていたのである。

兄が精神学を学ぼうとしない理由が、精神学を宗教だと思っている理由が良くわかった。それは私の姿を見ているからで、私は自分を大きく見誤っていた。ここに記しながら申し訳ない気持ちでいっぱいになってきた。兄が電話に出てくれますように。

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