生と死とたましい (人間についての疑問)

わたしは、先日の「送り」に参列させていただいたものの一人です。

早いものであれから10日余りが過ぎました。
ここ数日思うのは、
すべての人間は 死の前に 平等であってほしい ということです。

身体が存在する時間には 限りがあります。
身体をもつ限り、人はみな その死を迎えます。
信仰や宗派や金銭等に関係なく 死にあたって すべての人は
平等であってほしい と
わたしは今回初めて思いました。
それが マツリヌシ の仕事であると 思いました。

そして それを実現するのが 形式や様式ではなく
祈りであるとするならば この送りは 誰にでもできるものである
はずです。

限りある身体の その「死」の後も なお
人間のたましいと呼ばれるものが ある形をもって 存在することが
できるとして、 さらに その存在のあり方に 自らの自由意思で
関与することができる というのは、
わたしには 何かの特権のように 思われるのです。
この 特権のごとき ある種の自由は 何に由来しているのでしょう?

たましいが 死してなお存在することが 可能であるとしても
人間は時間的・物理的制約をもつ 身体をもって 生きている。
そのことに 人間の存在の 本質があってほしい。
・・・・・・こう思うのも 生きている人間の側の 望みなのかも
知れません。

身体を持っていることが 一種の不自由であることは
わたしも多少 理解しているつもりですが、
不自由があるのなら 身体を持つからこその 自由も あるはずです。

マツリヌシ は 死者を送る世界を 知るものであるのならば 同時に
そこから理解できる 生の意味についても 伝えなければならないと
わたしは 考えます。

それをいわゆる スピリチュアル系のことばではなく
日常の 普通のことばと文脈で 伝えていくことを
私は 試みてみたいと 考えるようになりました。
けれど結局 ことばは必要なく 「ことばにならないもの」の方が よりダイレクトに 真実を伝え 深く届くのだと わたしは 実感しているのも 事実なのです。

暴論であるかも知れませんが 今のわたしの 率直な意見です。

motosasa 記

3 thoughts on “生と死とたましい (人間についての疑問)

  1. mayflower

    こんにちは。

    大阪マツリヌシ講習会真っ最中に、東京から失礼致します。

    >スピリチュアル系のことば
    とは、本来、’精神’を意味するスピリチュアルではなく、むしろ逆の、精神(ひかり)のない闇のことば、という意味で使われているのでしょうか?
    それなら話しは分かります。
    ただ、「死」とは、ひとつの状況を表すものでもあり、つまり、死は身体性を失った状況をいいますから、本来、これ以上ないほどにスピリチュアルな概念を孕む言葉だと思います。そのため、死を語る上でブレてはいけない論点(=最後の審判)を、しっかり捉える精神が確立していない状態で「死」を語れば、単なる心情的な、情緒的な、詩的言語の域を出ることができないと思います。
    かつて、私は、ジャンケレヴィッチという人の書いた『死』という書を読んで、発狂し(かけ)たことがあります。
    当時、スピリチュアルを知らず、精神学も知らずに「死」について考えた結果、発狂し(かけ)たのは、「死」は精神学を学ぶことではじめて正しく捉えることのできる概念であるからだと思います。
    「たましい」も「最後の審判」も極めてスピリチュアルな言語ですが、しかし、それらの概念を抜きに「死」について思考することは、むしろ思考停止に陥ります。
    すべての人間には、’平等に’ 死というときがおとづれます。
    それは、すべてのたましいには、’平等に’最後の最後に審判が約束されていることをわすれさせないための啓示ではないですか?

    >この特権のごときある種の自由は何に由来しているのでしょう?

    光のルールの由来しませんか?
    光へのベクトルがしるされたたましい、つまり審判を希求するたましいに特権が与えられないのなら、それは全的な闇の勝利を意味します。

  2. motosasa 投稿作成者

    May さま いつもありがとう。

    お恥ずかしいのですが、今のわたくしはまだ、Mayさんからいただいたコメントに対して何か申し上げることができるだけの、理解と確信には至っていません。これから知り、検証していく所存です。
    ただ、これからも共に考えていただけると、会員としても友人としても、嬉しく思います。

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