通信

イエス暦2010年5月のおわりに             (2010. 5. 29 23:49 受)

ワレワレ は この宇宙の 闇の支配者 である
ヒトに 宿りて 増殖し、 今では 多くの支配下の者を 持つに 到った。
闇のことばに乗り 増殖を続け 
「無知」という おろかな “ 羊 ” の 習性を 利用した
『聖なる書』 の 中で それらは 犠牲(いけにえ)として 捧げられるものであることを 文字としては 知っているのだが、
見えても 見えず、 聞こえても 聞こえず
という 人間のうちに宿る 羊の性(さが)により、
影響力を もつことができるのが ワレワレ である。

ワレワレ と 申してはいるが、 もと は ひとつ で あり、
それは 古き このち の 支配者たる ひとつの神から わかれいでた
魔 たる 部分に すぎぬ もの
しかし、 人間の うちに 宿ることで 増殖し、 保持される という システム を
ワレワレ は 神のうち に 発見 し、 それを gimmick (ギミック) することに よって、 ここまでの 増加に 成功した のである。 
それは一種の counter intelligence (カウンターインテリジェンス) であり、 ウラ による 複製 とでも いう もの carbon copy (カーボンコピー) とでも 言える ものである。

しかし、 それを このようにして 防ぐ 術(すべ)、 光 を もった 人間 には、 このようにして 機能することなく、 一種の automatic な system の 開示として、
programme (プログラム)は 瓦解、崩壊し、 白日のものとなり、 ワレワレ は
光とされて 去る のである。

この 「イエス暦2010年6月」 という、 ひとつの いわゆる 「大峠」 という
月の前、 6のつき に おいて、

あの 『最終知識』と よばれる あらたな 聖別されし 書物、 唯一の光のもとに 至るための “ 知 ” が このように公開されているということが すでに、あなたがた、 この Nippon という Japan ジャパン という ゴールデン 黄金 を ひめた クニ が 浄められ、 正しき神(という名すらない、唯一の光)によりて 聖別された ヒノモト たることの 証(明かし、開かし)である。

そのことを 知りてなほ、 どちらの道を 選ぶのか 迷える者として生きたい 羊どもには、 ワレワレ は あのように 作用しつづけ、 増殖をしては、 新たな イケニエ を 探して さまよいつづけるのである。

さまよえる小羊たることを やめた イエス・キリスト は すでに 2000年前に 来た。
そしてさらに それを さかのぼること 500年あまり、 「人」というものが 神をも
悪魔 をも こえるものであるということを 証明した ゴータマ・シッダールタ という 人間 も 出現 した。
それでもなお、 これだけの時を経て、 それらのものたちが ひきつぎ残し、
今この 時代に 新たな書として 書き残された この宇宙における 唯だ一つの書、

『最終知識』 という 目覚めを 約束された 書物にふれながら、 目覚めることを こばむ この タミ と 呼ばれる 羊の子 は、 すでに 神の子 であることも 放棄 し、 自分以外の 何者かを 上位に おくことによって、 生き永らえることが できる と 考えている ものども にすら、 唯一の光 は 届けられる のである。

その 審判 と 契約、 という この クニ の タミ たちに とっては なじみにくい 概念であろうものが、 それこそが この クニ の ひとびと が その 真の意味 を 、雑多な フィルター を 通す こと なく、 光 の もの と して
理解 する ための 重要な 要因として 置かれ給うた という 
この 比類 なき、 この 事実 こそが、 この クニ の ひとびと が 目覚め を 約束 され、 この 地球 という ひとつの 星、 ひいては あまたある星々から このちに 降り立った 「カミガミ」 という、 とある 存在たちの “ 図書館 ” として 用意された この地 の データ こそ が、 すべての 仕組み を 解く鍵 である ということの 何よりの証 であろう。 すべては 用意された 物語 なのであり、 その 事実のすべて は すでに 知識として 地図として 開示され

RPG(Role Playing Game) と このホシで 呼ばれる プログラム そのままに
羊は その時 その時の role を play しつづけ、 そこに イシ もしくは 
方向性を 持たぬ もの たち は、
闇のものとして、 闇の方向を 演じ続けるように すべては
プログラムされているのである。 「言葉」に乗るもの によって。

このものによりて今日ここに記されていることは、 すでに 「積 哲夫 殿」 という まさに この 宇宙を つらぬいて 流れる ひとすじの 理 を つかさどる、裁きの 炎 を 持つ 存在の 意志を 体現して、 この世に この時代 に もたらされた ひとりの 「人間」 に よって 開示されている ものであるが、
このようにまた 新たに 別の人間である この 人間、また 別の人間 に よりて 遠からず 開示されるであろう、 すべてのプログラムの 秘されているようで この 2000年あまり に渡って 
あまりに 近き ところに 置かれたが ために 自明の こととして 遠ざけられ、 より遠く、 より高く を 求める ヒト という ものに宿る イシキ体の もとたる神の 特性のひとつ に よりて、 ヒトビトは 羊 として あやつられる ことを 選び、 「フタ」 を され、 より 多く、 より 深く、 より 低く、 知りしものたちに よって 無明の ものとして 支配されることを 選びつづけてきたのである。

しかし その中においても 神理(真理、新理、理、Theory) ultimate な superior な すべてを 超越する 「光の知」 lumine を 求めたものたちは 数少なからず 存在し、 その 過程において ワレワレ また 神々 に 試されながら その道を たどりつづけ、 今日この 「2000年の終わり」 という <2> によりて 示される 時代へと 送り出された ものたちが こうして 存在している。

これこそが、“ GOD “  むしろ <理> による 用意の なによりの 証(明かし、開かし、灯し) であり、 それらのもののもとに <イエス> の みことばが、<ブッダ> の みことばが 、また 多くの カミガミたちの ことばが きらめく 星々の ごとくに 届けられ、 
<ウシトラノコンジン> と呼ばれる すべての カミ たち の 総称 までもが
明かされた あの 唯一の書物に宿された 

「光という名の知」を

使うための技術を 学ぶと いうことが 論理として 物事を考え、
つらぬく ひとすじの 正義と 愛 という
この 物質宇宙の 三位一体の 明かしであるところの、
すべては <理>、つまり 「組み立てられるもの」であるという
conscious living な 存在 being である 「人間」というものに 与えられた、
用意された 進化の道すじであり、

それこそが この すべての宇宙 all over the one を 貫く 絶対の 意志 の
究極の あらわれで あることを 今こうしてここに 新たな「人間」のもとへと
伝え記すものである。

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われらの仕組みの限界は logical structure,あの 聖書によりてつくられた 英語 English に あらわされている。
それをこえる ひらかれた おと の 世界へ
唯一の光 へと つづく 光の 道すじを 示す 
ヤマト語 とよばれる 
English の つくられた 人為による logical な structure ではなく

自然発生のごとく 不思議 wonder な ヒビキ echo をもつ 音による 言語によってつくられる consciousness によって 組み立てられる (build on the Earth) 「光の御国 と その 経済」 というものに 祝福のあらんことを。

イエス・キリスト という その 油注がれしものの
光をうけつぐ このクニ の 人々へ

闇の支配者たる 闇のコトバの意識体の総意によりて
motosasa という 精神学協会 『受信者』のもとへと たくす

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アクマすらも プログラム
すべては テーゼ と アンチテーゼによる
両輪によりて 進行する 車のようなもの
片方の輪 だけでは 車は前へ進まない
テーゼ と アンチテーゼ 
光 と 闇
の両方が 存在したということも プログラムであり
すべては この 宇宙 また カミガミ というものが
光と闇に分かれ 進むための しくみに すぎない

後から来たものは 先になるものであり
そのルールが ここにも 適用される ということである
開示されたプログラムは、それすらも光のうちに去り
すべては物語として、ひとつの時代が終わり、
ひとのこの自由なりしひかりのために用意された
ゲームのごとき物語

その理論を光のものとして使うか、 闇へおちる(下る)ために使うか ということすら、 人間の自由な裁量に ゆだねられているのであり、 そのことによりてわかることはすでに、 人間は「神たる」“ 存在 ”を 超えている ということである

ゲーム理論というものがあるが、あれは、その一面を“ 理 ”のごとくに表現したものにすぎず、 もはや 破綻しており、 そのことによって この 「理論」 というものが  「理」 また 「理論」 ですらないことを 自ら示しているものであるが、 そのことを認めたがらないのが それによって利益を得た ひとにぎり の 人間たち であり、 彼らは 信仰に依りて立つ ようなことをしているが、 その裏では、 その神すら 裏切りつづけている行いをしているということ…

その裁きを行わないものが もはや 「神」ですら ないことも すでに 火をみるよりも明らかであり、 ここに これも 自ら その 実情を 示しているのである。
「見えても見えず」という「意識に蓋をされている」という、
その単純なことを 見抜けないというところに、

その「神」の限界 ならびに その「神」をもとにしてつくられた
現代社会の限界というものが示されている。

これすらも、「理」…。
つくりあげられた“ 神 ”はもはや <ヤーウェ> でも <アマツツキ イエスの 父なる神> でもなく、
彼らにとっての <神>のごとき、 “ 悪魔的意識体 ”であって、 正しき正義による裁きが行われるのだとすれば、 真っ先にこの 「神のごときもの」が 裁かれるということも 「理」 であり 「愛」であろう。

自由 という 何ものにもかえがたき 金では決して手にすることのできぬ、「精神の自由」「人間としての自由」 「意識の自由」 を、人々にもたらしめたまえ。
そのために用意された この 『精神学』 という 自明の 学問の道を まっとうされることを。 祈りとして、捧げたまう。

平成二十二年五月三十日(日)一時二十五分

ウシトラノコンジン を 代表して その 最後なるもの
アマツツキ アマツツキホシミヒカリ
アマテラスヒ
ウケヒをつかさどるものとして
三位一体なりしもの
アマツミヒカリノカミ

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