Marioのシンロジカルシンキング

私なりの精神学的思考ブログです。実写版マリオブラザースの世界の写真も織りまぜながら展開していこうかと…

 

前回、日本人の優秀さを論じましたので、今回は日本人の民度の高さと言うものに疑問を投げてみます。

我々は他国に比べて民度が高いと信じてますし、他国からの評価も概ねよいのは事実です。東日本大震災の時の被災者が、助け合いの精神で少ない物資を分かち合う姿は私も感動したものでした。
日本は自然災害が多発しますが、最近の被災地ではたしかに暴動も略奪も起きておりません。これを持って民度が高いからそうだと言えるのだろうか。
もちろんそれもあるのでしょうが、いちばんの要因は国家の信用だと思うのです。どんな極左の反国家主義者でも知らない内に日本という国を信用してる故の行動と言うことです。
どういうことかと申しますと、過去の災害の後を報道で学習してる我々は、ここ日本であれば避難所にさえいれば3日、4日耐えれば必ず助けが来ると知っていますよね。国をあげて自衛隊、警察、消防団、自治体が救助救援をしてくれることを皆わかってます。
だから助け合い分かち合う事が出来る余裕があるのではないのかと思っております。
遠くハイチの地震の際は、物資の取り合い略奪などは記憶に新しいところですが、ハイチの政府は国民を助ける余裕などないですし、そもそも国民が政府を信用しておりません。
翻って我が国の場合、ハイチのように信用が地に堕ちた先の大戦の後はどうでしたか。
主権が失くなり警察力も失くなって、治安をヤクザが担わなければならない状況下で、国民は今のように行儀よく助け合いが出来たでしょうか。皆とは申しませんが、我を最優先にして行動したはずです。戦災孤児にだれも手を差しのべず、我が子の食料確保に必死だろうことは想像に難くありません。
五木寛之のエッセイに子供の頃の想い出として、飢えた大人が一番怖かったと回想してありました。
今となれば信じられないのですが誰も助けてくれなければ、これは当然の現象であって善悪で語れるものではありません。死活問題と言うやつです。
これで、我々が民度と思っているものが実は国家の信用といかに密接な関係があるかわかってもらえたかと思います。各個人の意識が高いので民度が高くなったのではなく、国家の信用という他力が根拠になって、民度が上がったと言うことです。    戦後教育で国家を蔑ろにし、自衛隊を疎んじ、挙げ句国境など取っ払えばよいのだとのたまう面々であっても、実は知らず知らずの内にお上を信用しているわけですなあ。
民度と国家は密接に関係してて、どちらが先に高くなったかはともかく、我々の人権を担保し、守ってくれるものは日本国であることをベースにしなければいけないのです。衣食足りて礼節を知るの言葉通り、民の生活を安定させる国の統治があって、民の礼節(民度)が涵養されていくのでしょう。公と民は国の両輪なんです。戦後の行き過ぎた個人主義から、少しでも公の精神に回帰される人の増えますやうに。
戦後の混乱を例えに自戒めいた文脈でしたが、自然災害の頻発地の我が国は、古代から災害時の助け合いシステムは出来ており、先の敗戦時や戦国時代を除けば、お上もしっかり援助したであろうことは理解して書かせてもらっておりますことをご了解ください。