学術会議のガラパゴス化とリベラル利権 Ⅱ
―「はやぶさ」から見えてくる平和思想―

 偶然というのは面白いものです。このコラムの連載以前から、「はやぶさ」のことについて日本人が思っている美談と海外の人が受け止めている違いについて、いつか日本の人達には伝えたいと思っていました。そんな矢先に、「はやぶさ2号」が帰還するニュースを目にして、日本の常識と世界の非常識について書こうと思います。10年前のことですが、1号の帰還の驚きはいまも鮮明に残っています。今回も同様に、成功を目にしたときに日本の技術の高さと日本人の勤労・勤勉文化が生き続けていることを肌身に感じました。ロケットは、人類の最先端の技術と英知の結集であり、未来につなげるひとつの人知です。その人知を少ない予算と限られた施設で、世界トップクラスの技術を維持しながらやっている国はほかにはありません。長年、モノ作りの世界に携わっていることもあり、日本のモノ作り文化には興味があり、なぜ他民族に出来ないことを日本民族ができるのか、他国と比較をしながら技術の世界を見ています。そして、日本の宇宙開発は軍事目的や政治目的を意図せずに、好奇心だけで技術の邁進をする世界でも例のない国です。日本のモノ作り文化と技術開発は、世界とは違う流れをもち人類の快挙を更新している面白い国です。しかし、それは時としてマイナスの要因になることもあるということを日本人は気づいていません。
 多くの人たちは、そのニュースをいろんな想いで見ていたと思います。ただ、テレビの画面に軍人が映り違和感を持った人がいると思います。オーストラリアの砂漠地帯に着地しましたが、日本は民生機関のJAXAが対処にあたり、オーストラリアは民生機関でなく軍事機関のオーストラリア空軍が協力してくれました。日本では、技術開発や学術論文を民間技術と軍事技術に別けて考えていますが、大国や先進国で区別をしている国はありません。世界では、当たり前とされていることが、日本では非常識とされています。仮に自衛官がJAXAと自衛隊が協力のもとで、開発をしていたというニュースが流れたら、日本の世論はどうなっていたのでしょうか。学術会議をはじめマスコミや一部の政治家が、激しい剣幕でその開発を非難したと思います。
 日本の国民感情は、軍を持たないことが平和の一歩で、「軍事」という思考を持つことを悪としてきました。確かに、75年の間日本は他国と戦争をすることなく「国づくり」をしていきました。しかし、日本は「軍事」思考を無にしたことによって、本当に平和だったのか? 国内では日本人が拉致され、隣国によって国土を武力侵略され、いま現在沖縄の尖閣諸島で領土侵略がはじまろうとしています。今回、はやぶさの帰還を通して日本人が描いている平和について深堀をしながら、技術の世界から「平和のロジック」をひも解いていこうと思っています。
 話しは戻しますが、ほとんどの国は軍事機関が宇宙開発をしています。そして、世界の常識は軍事技術と民間技術の共同開発を普通のことのようにしています。映画でもわかるように、NASA(アメリカ航空宇宙開発局)の中に軍関係者が必ず入って研究をしています。日本の学術会議は、「軍事目的の科学研究を行わない」と声明を出し、日本のアカデミック界はそれを堅持に守ってきました。そして、いまもその思想に疑いの目を持とうとはしません。
 日本では、宇宙開発とロケット技術を民生機関がしていますが、他国では軍事研究の枠に入れて開発されています。その大きなズレがあるなかで、今後もその状態を続けることが現実的に可能なのか非常に疑問に思っています。 
 日本学術会議が理念としている、軍を持たないことや軍事的な思考を無くすことによって、他国の軍事的脅威はなくなるという論が、近年の国際情勢を見てもロジックから見ても破綻の方向に向かっています。今年は、武漢ウィルスによって世界情勢は不透明になり、平和の定義が曖昧になってしまいました。中国による軍事脅威が香港を制圧し、次のターゲットを台湾や沖縄に照準を合わせてきています。その中で、学術会議は何一つ声明を出していません。リベラル思想を持っている人たちは、この行為に対して「何も言わない」「行動をしない」不思議な平和思想になってしまいました。その真意はどこにあるのか解りませんが、少なくとも国境をまたいだ瞬間に、何の手立てもしない「事なかれ主義」に見えてしまいます。そして、その姿は国内用と海外用に二枚舌を使って、言論誘導をしているように見えてしまいます。海外での軍事脅威に対し、何1つ声明を出さない学術会議は、何をもって平和思想を柱にしているのか? さらに言えば、軍事研究(軍事技術)と民間研究(民生技術)の境界線を持っていない組織が、国際交流をしたときに海外との共同研究はどのように対応をしていくのか、疑問に思いながら見ています。
 今回の「はやぶさ2号」の回収を見てもわかるように、軍の施設を使って空軍の協力のもとで回収にあたりました。現代社会は、軍・民の技術を別けることが出来ない時代になり普通の生活の中に軍事技術が入り、民間技術が軍用に転用されることもあります。日本では民間技術として扱っていたものが、海外に渡った瞬間に軍事技術に転用さるケースもあります。その事実を正確に捉えていないで、「平和」という言葉だけを持つことは非常に危険だと思っています。
 10年前になりますが、やぶさ1号の帰還後の日本の歓喜と世界の反応の違いを見比べると、「平和」という価値観に違いが見えてきます。日本では「はやぶさブーム」になり映画や本などで、多くの人たちの心の中に残りました。日本中が、ヒューマンエピソードとして歓喜にわき、技術者の苦悩や飛行中の故障・回復を通して帰還するまでの道のりを、擬人化して「はやぶさ」をロードムービーとして見て感動した人たちが多かったと思います。
 その一方で、世界はどのように映っていたのか。一般の人は喜びましたが、複雑な気持ちで見ていた人が多くいたことは事実です。むしろ、あの帰還を脅威として各国は見ていました。(国家中枢機関や国防関係者や軍事産業界は、綺麗ごとでは見ていませんでした。) はやぶさが打ち上げられたのは2003年です。企画の段階から考えれば、2000年以前からロケット技術の開発・採掘する技術・遠隔操作で操縦する技術・小惑星に着陸する技術が実験され、地球に帰還する技術開発がされていました。人類の英知と最先端の技術の組み合わせで宇宙探査機が作られ、小惑星の発掘調査し地球に帰還する夢物語のような空間デザインを設計し、それを実現にするということは世界にとっては喜びよりも脅威の方が上だったと思います。7年もの間、遠隔操作によって50億km飛行する人類未踏のことを日本人は成し遂げました。(普通の感覚では、50億kmと言われても理解できないと思います。地球が太陽の周りを1周するのに、約10億kmと言われています。はやぶさの飛行距離は、太陽の周りを約5周した計算になります。)そして、7年もの歳月をかけながら地球に戻り、当初の着地点から約900mしか離れていない砂漠に着地させました。そんな技術を2003年のはるか前から、日本は開発していたとなれば、どの国も驚嘆するどころか神の域に達したと思った科学者が多かったと思います。そして、日本は独自のモノ作り文化と民生技術だけで偉業を達成しました。しかし、この事実を多くの国は理解していません。日本では軍と民を別けて考えることを常識とされていますが、世界では宇宙開発は軍事技術と一体となって開発することが常識とされています。そして、日本人は世界の非常識なことをしている実態を理解していません。
 ロケット技術は、ミサイル技術とまったく同じものであり、それを区別して研究開発しているのは、日本しかありません。なぜ、各国の人たちが脅威に思うのか? それは簡単な理由で、宇宙飛行技術=軍事技術というロジックが、世界の常識だからです。

 

―日本の平和思想は、世界の平和思想とは一致していない―

 日本人が信じている平和という概念は、世界の平和の概念とはかけ離れているものになっています。「武器を持たない」「武器を開発しない」ことが平和であり、各国は良心に基づいて平和を望んでいると思っていますが、各国はそんな性善説では動いてはいません。表面的なところでは、憲法9条は平和思想を謳っていますが、それは万人受けするための平和ポエムを謳っているだけで、世界各国は自国民を幸せにするためなら、他国を殺戮・強奪する意思はいつでも持っています。各国の国家観は、「自国を侵略からどのように守るのか」という思想から世界の平和思想ははじまっています。どの国も、隣国との軍の均衡バランスと国家間の勢力図のパワーバランスを常に天秤にかけながら、平和維持をしています。少しでも国力の衰退や民族の劣弱を隣国に悟られたら、侵略と民族の奴隷化がはじまります。世界の平和は、自国民の経済安定と生活空間の安住が担保出来れば、他国がどうであれ関係ありません。国富が潤うのであれば、隣国を侵略・占領をして手段を選ばないのが世界の常識です。各国の国家観は、他国からの侵略や強奪が前提で、自国防衛や軍による均衡バランスを保って、戦争をしない状態にしているのが世界平和の概念になっています。その国際社会の理念になっている根幹の思想は、ウェストファリア条約に出来上がった「勢力の均衡」というパワーバランスが平和理念になっています。
 「勢力の均衡バランス」という発想は、なかなか日本人には理解できない発想です。海外の日常生活でも、その価値観はあり、日本社会には無い価値観です。日本の慣習で言えば、人のものを盗る行為を非常悪としますが。海外は、盗む人を悪とすると同等に、盗られる側の責任も問われます。「盗られる前に、なぜ防御をしなかったのか。」「盗られる前提で、なぜ行動をしなかったのか。」という自己責任と自己防衛を問う慣習があります。なかなか日本社会には、理解できない発想ですが、その発想が国家間にもあります。
 国家間の軍事による均衡バランスが壊れたら何が起こるのか? 自国の民族を守る能力のない国家は、「他国によって侵略をされても自己責任である」という思想が根深にあります。その思想のもとに、侵略・占領される側の責任がある前提で世界平和の理念がはじまっています。
 世界の歴史を見ればわかるように、ヨーロッパやアジア大陸は、常に宗教・民族の拡張と分断の繰り返しの中で、勢力の均衡バランスの中で戦争を繰り広げて社会を作ってきました。ウェストファリア条約以降は、殺戮や侵略を回避する英知で人類は来ました。それでも、2回の大戦をした過去があり、いまだに戦争が無くなることはありません。その背景は、パワーゲームが平和を維持しているという、日本の平和思想とはまったく違うところにあります。その思想は、日本人と噛み合うことはありません。世界の常識は、隣国の勢力を常に見て自国の防衛(防人)をしています。パワーバランスが崩れたときに侵略と占領がはじまり、強奪と殺戮が起こる前提で自国民族をどのように残すのかという中で、思考がはじまっています。日本の平和思想のように、各国は性善説があり「みんな仲良く生きていこう」という前提ではじまっていません。ある意味、日本という国が75年間、他国の侵略や民族の奴隷化されないで来たこと事態が不思議で奇跡に近いことでした。そんな国は、世界にありません。
 では、日本という国は占領してまで奪う価値がない国なのか? 世界から見ると、日本人が思っている以上に「黄金の国ジパング」であり、宝が転がっている不思議な国です。国全体が宝庫になっている、世界でも稀な国家です。世界は、貧困と飢餓と強奪の中で、生死の境で人生が成り立っている人が多く、強奪や殺戮の恐怖におびえながら生計を立てています。食にあり付けず、居住空間が安定しない場所が国家になり、そこで住んでいる人たちもいます。日本のような安住と食を満たしてくれる空間は、他民族から見たら天国です。治安の良さもさることながら、世界では作られない技術や基礎化学が埋没している国家です。庶民が、各分野において世界トップクラスの技術(下町の零細企業の加工技術や調理技術)を持っている民族は、日本人以外見たことはありません。そして、一番の価値は日本民族が持っている、勤労・勤勉という民度が高い労働文化と民族の精神性です。他民族が、日本を属国にして労奴(労奴制:造語で学者・技術者・勤労者を奴隷として使う。農奴を文字って造語にした。)として占領すれば、その民族は未来永劫に渡り裕福な生活ができるでしょう。世界は、日本人以上に日本の財産(人・価値観・技術・文化)の価値が解っていて、それを奪いたいという心底を持っています。(次回は、「なぜ、日本という国を世界は欲しがるのか。日本の本当の価値」について書こうと思います。)
 ではなぜ、日本は他国によって100%占領されないで今日まで来たのか? その答えは、米軍の駐留による軍の均衡が中国・ロシア・朝鮮半島のパワーバランスになって侵略が出来ない構造になっていたからです。(とは言っても、その代償に事実上の占領をアメリカに許すことによって、アメリカの属国になり自国防衛を自力では出来ない状態を作っている悲しい現状もあります。)
 敗戦後、戦勝国によって武装解除と戦争放棄をしたことによって、間違った歴史観と世界とは異なる平和思想観を日本人に植え付けました。さらに、GHQはアメリカに報復をさせないために、洗脳プログラムのWGIP(戦争責任を情報による洗脳プログラム)を日本人の体に植えこみました。その思考から、脱却できないでいるのがいまの日本国の姿です。

 

―民間技術と軍事技術に区別はない―

 多くの日本人は、ロケット技術とミサイル技術が全く別物として捉えていますが、科学者の世界から見ても技術者の世界からみても、エンジンの技術は同じ技術が使われています。別けて考えていること事態が、世界の常識ではありえません。そのいい例が、北朝鮮のロケット実験です。なぜ、アメリカ政府や安倍官邸が敏感になり、危機として捉えていたかがよく解ります。日本の新聞やテレビは、「ロケット実験」という言葉を使い平和利用のような印象を日本国民に印象をつけました。では、「ミサイル実験」という言葉に変えたらどうなるでしょうか。平和ボケしている日本人ですら、さすがに脅威として捉える人が増えるでしょう。実際に北朝鮮は、数発日本領土横断と領海に向けて発射しました。そのときの国民の反応は、どうだったでしょうか? 2017年の時には、早朝にJアラートが鳴り「早朝からうるさくて、起きてしまった」という世論がほとんどだったと思います。「電車を止める意味があったのか?」という世論も出ました。


 上の図を見てもわかるように、国交を結んでいるロシアの上には飛んでいません。平和利用で安全なモノならば、なぜロシアの領土・領海の上を使わせてもらうことはしないのでしょうか? ロシアとは、国交を結び貿易や軍事的な相互関係であります。ロシアの領土・領海を使って、ウラジオストックや樺太を横断してロケット実験をしてもよさそうなものです。それをあえてしていない真意はどこにあるのでしょうか。
 ここでも世界の非常識が、平然として行われています。北朝鮮は、日本とは国交を結んでいない対立の関係であります。その日本の領土を横断させることは、世界の常識で言えば臨戦態勢に入ってもおかしくないことを意味します。北朝鮮が、なぜロシアの領土の横断を避けて実験し、日本の領土には平然と打っているのか。仮に、ロシア領土を横断したら国交を結んでいたにせよ、必ずロシアから報復処置がとられます。北朝鮮は、世界の常識を知っているからこそ、そんなことはしません。
 もう1つ例を出すと明確にわかります。私がカナダに住んでいることもあり、北米で似たようなケースが起きたときのシミュレーションをしてみたいと思います。仮にロシアが、ロケットを打ち上げてアラスカをまたいでアラスカ湾に着地したと想定します。アメリカは、カナダと連携してすぐに臨戦態勢に入ります。そして、何らかの報復処置として勢力の均衡化をします。民間サイドでは、メディアが連日連夜ロシアバッシングとミサイル開発として報道を流し、軍事危機の恐れがあることを国民感情に訴えはじめます。そして、緊急に特別チームを編成して、アメリカの英知(学者・軍関係者・経済人)を集結させ軍事オプション態勢を作ります。これは、すべてウェストファリア条約の国家観である主権国家の確立・国際法の原則・勢力均衡の国際政治が柱になっています。これが、世界が考える平和維持であります。この思想が中心にあるので、相手国の領土領海にロケットを打ち上げることはしません。そして、打ち上げる側も相手国を挑発することはしません。
 では、なぜ日本ではこんなことがまかり通ってしまうのか。それは、日本の学者村・メディア・政治家が世界の平和思想が解っていないことに加えて、高度な技術を軍事・民事を分けて考えて、真実を公開しないことに要因があります。日本は、秋田で陸上型イージスアシュアの設置で、弾道弾のブースターの一部が民間地に落下の恐れがあることを、公開したことによって設置を中止しました。しかし、北朝鮮のミサイルが上空を通っていることに関しては、危険であることを報道しませんでした。ある意味、言論空間の誘導と事実の隠蔽によって、日本人に正確な判断を出来なくさせている現状があります。
 そもそもが、軍事技術と民間技術の区分けが出来ないものを出来るかのような認識を作り。軍事技術は悪の道というような世論を作り。非武装であること軍事脅威はないという洗脳が、間違った世界観を作っていると思います。日本のロケット技術者は、100%平和利用でしか考えていません。軍事的な目的で、開発している人は誰もいません。しかし、国境を渡ってしまったら、それは兵器になりロケットではなくミサイルという概念になります。
 その観点から見ると、2010年は「はやぶさ1号」が6月に帰還した年に何が起きたのか? 多くの人は忘れていると思いますが、その年に隣国から幾つもの不当なことが起きました。9月7日に、日本領海の尖閣諸島で中国漁船による海上保安庁の船に追突事件が起こり、有罪でもあるにも関わらず釈放した事態が起きました。それから一ヶ月後には、北方領土に初めてロシア大統領が足を入れた年でした。これは、すべて偶然の出来事なのか? 当時日本は、民主党政権で政治力が弱かったこともありますが、ロケット技術において人類未踏のことを成し遂げたことは間違いありません。勢力(軍事)の均衡バランスを壊したとしたら、他国は何かしらの形で均衡バランスを戻しに来ます。ウェストファリア思想が心底にあれば、日本から脅威を与えられたという印象を持てば、報復処置がとられるのは当然の行為です。軍事と民生を別けて考えてしまうと、このようなことも検証できず世界情勢を的確にとらえることができません。こういった事実があるにも関わらず、平和信仰さえすればいいという学術会議の学者の思考に限界があると思っています。科学技術は、軍事と平和の表裏一体のものであることを認識する必要があると思います。

 

―「学術会議のガラパゴス」と「軍事技術のガラパゴス」―

 日本の「国にづくり」の大きな問題は、学者村がいまだに学術会議を中心とした軍事科学研究を「絶対に行わない」とした過去の声明の継承していることです。軍事技術と民間技術のガイドラインも引けなければ、軍事技術が日常生活の中に普通に使われている現状を理解していません。そして、最大の問題は国境を越えたときに、民生技術が軍事技術に変わってしまうことです。情報や技術は、ボーダレスでいろいろな国に行くことができます。「はやぶさ」などの研究開発が軍事研究として他国に扱われたときに、隣国は脅威になりその情報と技術を欲しがるのは当然のことであります。そのときに、どのように対応するのか政治家や官僚も対処出来ないのがいまの日本の現状です。そして、日本の中枢にいる人たちは、国家観を持たないで国を運営していることが世界の人に知れ渡ってしまいました。
 学術会議は、日本の英知を握っている学者村のトップの組織です。その集団が、国費を使い次世代につなげることの出来ないことをしているのであれば、存続する意味がありません。いままでの経緯を見ていると、過去に生きて未来のデザインをしていないのが学術会議の学者です。敗戦直後に出来たその組織は、GHQによって戦争責任の洗脳プログラム(WGIP)の方程式を柱にし、各分野の学術に強い影響力を持ち日本のアカデミック村を支配してきました。世界の時勢は大きく変わり、パワーバランスが変化しているにも関わらず、いまだに敗戦後の思考で世界情勢を見て、自分たちの私腹を肥やしている団体になっています。
 学者の本分であれば、「はやぶさ1号」が帰還した年に隣国はどのような反応で見ていたのかを研究するのが仕事だと思っています。そして、幾つかのシミュレーションと対応策を国の中枢に提案して、解決策を示すのが本来の責務だったと思っています。はじめから軍事研究をしてはいけないとなれば、実態調査も出来ず現状を知ることもできません。
 尖閣諸島での中国船の衝突事件においては、世界的には非常識なことがいくつも起こりました。世界の常識からみれば、国家権力の船が外国船によって意図的に攻撃をされたら、国の威信にかけて不法行為を徹底的に追及するのが国家の大きな仕事です。北米で同じようなことが起きれば、現在の尖閣諸島での不法侵入状態はCoast Guard(国境警備隊)によって銃撃戦を開始して、自国の領土であることの意思表示をします。そして、拿捕して何万ドルの罰金刑にして自国の領海であることを示します。(武力の威嚇と罰金(現金の没収・自国の法によって裁く行為)によって国防と自国領を明確にします。そうすることで、戦争の回避をする方法を取っています。)
 日本の不思議なところは、多くの国際法や法律学者がいるにも関わらず、あの不当な行為を黙認して国家や当事国に対して、批判の声明を出すことすらしないことです。あの行為は、外国人に対しては甘く日本人には厳罰するシステムが存在することを世界に宣伝してしまったことです。(当時海上保安庁の職員だった、一色正春氏を国家公務員法違反で書類送検して辞職という形で仕事を追われました。そして、中国人犯罪者は釈放して無罪としての事例を作ってしまいました。)その流れになっているのが、いまだに続いている沖縄県石垣市の領海の外国船による不法侵入です。
 学術会議は、2017年にも「軍事目的の科学研究を行わない」とする声明を発表していますが、隣国による軍事的な挑発に対して、解決策の提案もなければ方針を打ち出すことをしていません。それこそが問題であり、国費を使って世界情勢に対して何も研究しないことが平和につながるのでしょうか。あの事件から10年経ち、中国による威嚇は年々に酷くなっています。不法な国に何も言わず、世界の非常識を許していけば平和維持はさらに壊れていきます。
 そろそろ日本人が理解しなくてはいけないのは、国を守る意識が学者村の中にないということです。学術会議の理念の中に、「自分たちの生きている間は戦争が起きなければいい。しかし、子々孫々はどうなろうとも構わない。」という思考が強くでています。問題を先延ばしにし、5~10年先の未来のデザインもなく軍事技術と世界の平和思想の概念もない人間たちが、国の「政ごと」の中心に座ることが日本の未来につながるのでしょうか。彼らは、世界の勢力バランスが壊れる意味も解らなければ、外国人の侵略は無いものと信じています。戦後75年間戦争が無かったのは、米軍の駐留の影響もありますが、第二次大戦中に先人が必死で国を守った姿が、世界にとって脅威を与えいまの勢力の均衡バランスになっています。その平和の均衡バランスの貯金を使い果たし、騙しだましで現在に至っているのがいまの日本です。このまま借金を作っていけば、自国での防御ができなくなり隣国からの侵略がはじまります。
 「憲法9条の安全神話」と「戦争責任の洗脳プログラム」から脱する日本人を、作っていかなくてはいけないと思っています。そのためには、未来を創造する人たちが増えなくてはいけません。本来学者の責務は、過去と現在と未来の線を引く仕事だと思っています。事実という小さなヒントから、未来をデザインする社会プランナーでなくてはいけないと思っています。技術や政治は、日進月歩して庶民生活を大きく変えていきます。それは、世界情勢も同じです。その進化を的確に捉え、未来を創造する力こそが人知だと思っています。それが無いのであれば、学者・教育者としての能力はないということを意味します。
 科学技術の世界は、あれだけ偉業なことをしているにも関わらず、学術会議を中心にした学者村は旧態依然の組織を堅持する意味が理解できません。「はやぶさ」は、未来を予測しながら技術と科学のデザインをして、人類の未来を切り開いています。本来の日本人の姿は、過去と未来の時間を自由にデザインできる民族です。それが、国防や国家運営になると空間デザインのスイッチを切ってしまい、思考を止めてしまうおかしな体になってしまいました。それが民族の弱点になり、歪んだ国づくりになっています。敗戦後の日本は、「平和」という片目でしか世界を見てきませんでした。それによって、歪んだ価値観と世界の非常識な国家観を作ってしまいました。いま必要なことは、「平和」と「軍事」の両目で社会を見る普通のことからはじめるべきです。その普通の行為をすれば、バランスのいい世界観と日本の本来の姿を取り戻せると思っています。「はやぶさ2号」の帰還は、日本人に考えるきっかけを作ってくれました。