「日本は、世界で優位に立つ瞬間が来る Ⅱ」
-個人と公が解っていない日本人―

 日本を見ていると、なぜ無駄な仕事を増やして本質に切り込まずに問題を棚上げにするのか理解できないことがあります。武漢熱のさなかでも、意味のない仕事を増やして必要なことをしない不思議な民族になってしまった。とくに、国・都道府県・区市町村の多くの役人や議員が、公衆衛生と経済活動に対して、生活のガイドラインや法の設備を整えずに、空理空論で社会を回して行政や政治が機能しなかったことです。メディアも酷く、的外れの報道しかせずに、本質に迫る問いを投げかけることすらできなくなってしまった。それに加えて、関係省庁や専門家は責任のなすり合いをして社会の改善をすることもせずに、日本という国を後退させてしまった。
 今回の件で、日本社会の実態が見えたような気がします。公のために働いている人たちは、武漢熱をどのようにとらえているのか?「政ごと」をする側の責務放棄が、庶民の生活を混乱に落とし入れて、さらに景気循環を困難な状況に追い込んだと思っています。
 対外的な非常事態だからこそ政治力で、「規制(罰則)」と「助成(補助政策・助成金)」を法律の設置とガイドラインを明確にして、収入が減った人には保証をして国家の方向を示すべきだったと思っています。いまの日本は、非常時に公益と個人の権利のガイドラインを引くことが、非常に困難な国になってしまいました。日本社会のシステムにも問題があるのですが、公共の権利を理解する力が日本人は薄れてきているように見えます。いまの日本は、公共規制と個人の行動規制を「個人の采配」に委ね、国家や自治体の権限を前面に出すことが出来ない社会になってしまいました。
 今回の武漢熱は、たまたま弱毒の感染症だったので、日本において死者数はさほど多くはなりませんでした。しかし、毒性の強い感染症が出たときに、いまのような政治力で公共規制を設けて民族の命が守れるだろうか? 非常に疑問視して見ています。「民族の生存」という概念から国づくりを見て、個人は何が出来るのか? 考えることをしなくてはいけないと思っています。敗戦後の日本は、地域社会や国家という集合体の公益を守るということを軽視してきました。公共の利益を担保することは、一人一人の制約と良心によって公益が担保され、政治力を持った人が決断と責任を取るという意思決定で社会秩序を守っていかなくてはいけないと思っています。武漢熱は、個人の利益よりも公益を優先する世界があるということを教訓した有事だと思います。
 いまの日本人に欠けていることは、公益という考えを個人との関係の中で、どのように空間デザインをするかです。「政ごと」をする側は、他の命を預かるという責任を持ち、選ぶ側は政ごとをする人に自分たちの未来に託すことが出来るのか? 国づくりをする側・選ぶ側に、その覚悟と責任を持って人生を歩んでいるのか、民族の将来が問われていると思っています。いまの日本社会は、はっきりしない社会と中途半端な全体主義(責任を取らない全体主義)を前面に出し、すべてにおいて「事なかれ主義」で来てしまいました。「平等」と「個人の自由」を謳いながら、民族単位で生存権を見る意識が無くなってしまいました。世の中は、淡い空気のように流れ、勝手に社会が動いていると信じていますが、現実はそうではなく民族生存の責任という観点から、社会を回していく責任があります。それがないところには、「国づくり」はできません。
 北米の人知が参考になるかわかりませんが、一例を挙げます。カナダは、3月にトルドー首相が非常事態宣言を発表してから、各州の地方自治に委託し罰則規定を制定し、ソーシャルディスタンスを法に入れてガイドラインを明確に出しました。それによって、個人の行動規制と経済活動の制約をして、状況がつかめるまで感染症対策に徹しました。先日も書きましたが、政府や地方行政が助成金をバラまき財政政策と規制をしました。月日が経ち少しずつ状況が解明していく中で、自由の行動範囲の緩和と規制をバランスよくしながら平常の生活に、徐々に戻していきました。今現在、100%戻してはいませんが70%ぐらい戻しながら、公衆衛生という立場を明確に出しガバナンスをしています。店や公の場(ショッピングモール)で感染者が出た場合には、公表し保健所の立ち入り検査をして状況説明と営業停止の罰則をしています。そこには、個人の権利よりも公衆公益が優位に立ち、公益から社会構築をする意思表示を明確にしています。政治力とはなにか、日本においては「独裁」と言ってオールドメディアは騒ぎますが、そうではなく全体のバランスを見ながら、上手く機能して社会を動かすことが政治であります。
 ソーシャルディスタンスやロック・ダウンによって民間企業は、経済活動を制約され倒産するリスクが高くなっています。営業すれば、感染するリスクも高まります。その状況においては、経営者に経済活動の自由を保障しながらも、経営の継続か休業(もしくは破産)か決めるきっかけにしています。行政側が出来ることは、「公衆衛生の確保であり情報公開」と「助成と経済活動の規制」をすることしかできません。
 経済活動が規制によってマイナスになった人には、いろいろな助成をしています。前年比と比べて売り上げがひどい店には、従業員の人件費の75%の補助金を出しています。ただし、それも9月で終わるのでこれから本格的な、倒産ラッシュが始まると見ています。このようにして、労働者と資本の流動を少しずつ行っています。公共機関は、常に公平・平等に法律を運用しなくてはいけないという第一条件があります。カナダにおいては、比較的公平にガバナンスが動います。
 日本でも公平な助成システムとガイドラインを設けて、収入が減った人を保護する行政力を持っても良かったと思っています。特に、外食産業や宿泊施設なの公衆衛生は、地方行政のガイドラインも明確化せずに、責任と権限を「個人の采配にまかせる」という不思議な社会空間になってしまいました。それによって、苦しまれている経営者は多くいたと思います。武漢熱で明確になったのは、地方行政の役割が機能しなかったことです。役場に働いている公務員・議員は、「何の仕事をしたのか?」 住民に一番直結する住民自治にも関わらず、ほとんど役割を果たさずに機能不全であることが判明してしまいました。この機会に、地方行政の責務と権限の関係を見る必要があると思っています。

 

「先入観にとらわれない頭脳」

 世界は、どこも鎖国状態になり国内需要や地域需要で、いままでとは違う経済体制になってしまいました。観光産業を中心に経済を回していた世界は壊れ、いたるところで何を基幹産業にして循環システムにするかを必死に探しています。インバウンド・ビジネスが崩壊したことで、違う世界が突如として現れました。さらにこの状況は、年内には解決できず来年の夏まで続くと北米社会は見ています。世界の各地で、地域密着型の地元経済に移行して、グローバル社会が一瞬にして崩壊してしまいました。ある意味、昭和時代の地域の中で回す経済循環に戻ったといっていいでしょう。いままで、過剰にあった外食産業やサービス業は淘汰され、平成に出来上がった企業モデルが音を立てて壊れることは目に見えています。そして、簡素化された社会の仕組みになっていくと見ています。コロナ後の世界は、残る仕事と残らない仕事が明確に分かれ、産業構造の大きな地殻変動が起こります。そして、仕事とキャッシュの経済循環のシステムが大きく変わります。
 いま、一人一人に求められていることは、将来の社会システムを創造することだと思っています。来年以降は、社会の仕組みが大きく変わります。それは、日本も例外ではなく全世界で「会社という概念」や「仕事という概念」が違う形になり、時間をどうお金にするのか、まったく違う発想で見ていかなくてはいけなくなります。具体的に言うと、大企業や公務員という組織で仕事をすることが減っていきます。一部の大企業は、9月以降倒産するところが至る所ではじまり、大量の失業者が出てくると見ています。そして、地方行政も税収が減り一般公務員や学校職員の人件費が削減され、大幅に人を削減する時代に入ると見ています。いま日本国内は、テレワークや自宅勤務ということで、働き方が少しずつ変わりました。しかし、雇用体系においては大きな変動がなく、既存の企業文化とサラリーマン社会で社会は回っています。それが、9月以降から体力のない企業から潰れ、日本型企業文化では回らない時代に入ります。教育システムも変わり、かなりの教員数も減ってオンライン授業が増えていくでしょう。もう少し踏み込んで話すと、年功序列や終身雇用が壊れるだけでなく、専業サラリーマン(専業労働・1つの会社で働く形態)という労働体型が通用しない時代に入ったと見ています。これからは、兼業労働システムに入っていくと思います。
さらに、職業の再編がはじまりAとBで分かれていた職種が、AB職種融合化の社会になっていきます。世界的に産業革命が、はじまったと思います。
 兼業労働システムで言えば、午前中はA社で働いて、午後はB社で働くというフリーランスのような仕事形態に代わっていきます。中には、月・水・金をA社で働いて、火・木・土をB社で働くなど、労働と時間の組み合わせでフリーターのような人が増えてくると思います。いま、北米はITと個人資産を利用した労働に代わってきています。そのいい例が、UberやUber Eatなどの個人の資本と労働とITを融合させたビジネスモデルです。Uberは、一社に帰属しない労働システムで、ITを駆使した個人タクシーです。空いた時間に、自分の車を使い他人を載せて目的地に行くというタクシー業務です。1つの仕事に縛られるのではなく、他に職を持ちながらタクシー業務をして時間をお金に変えていくシステムです。一例ですが、車を所有している人が、通勤時に自宅から会社に行くまで同乗したい人をITによって探してもらい、会社周辺の場所までという条件を付けることで、利用者を探すことが出来るマッチング・システムがはじまりました。これによって、サービスする側と利用者の組み合わせが詳細に出来るようになりました。
 Uber Eatは、日本でも今はやっているようですが、1つの店の出前でなく多数の店の出前を受け持ち1社に拘束されない働き方です。個人がバイクや自転車を所有していれば、簡単にでき自分で働きたい時間を決めることができるシステムです。ITと仕事の融合によって、無駄な時間と無駄な固定資産を持たない社会がスタートしました。
 職種融合化で言えば、すでにもの作りの世界でははじまっています。昔は、製造業と卸業と小売業に分けて、職種の分業の物流で社会が構成されていました。しかし、インターネットの普及によって製造元とユーザーを結ぶことが可能になり、ネット販売することでダイレクトに最終ユーザーに届けることができようになりました。この技術革新によって、製造元が卸業と小売業の兼業が出来るようになりました。中間サービス業が、ITによって淘汰される時代になってしまいました。
 産業構造の再編は、企業資本から見てもよく解ります。従来のタクシー業務であれば、働き手は会社に帰属し暇であっても時間を拘束されます。会社側は、車を保持し労働者を雇用しなくてはいけません。労働者の労災や保険や賃金などの保証をして、労働者の業務管理をしなくてはいけません。それに加えて会社を維持するコスト(ビルの維持・事務員・車のメンテナンス)は、とてつもない経費になっていきます。仮に、利用客が1日1時間の実質労働をしても、8時間の束縛と賃金の支払いを余儀なくさせられます。その労働量と無駄な時間は、会社単位で見ても個人の拘束時間から見ても無駄な空間を作ってしまっています。社会全体から見ても、負の産物になっています。今までの社会構造は、ほとんどの人が「個人と仕事を結ぶことが出来ない」状況でした。それにより、個人が会社に帰属することで、仕事を得ることができキャッシュを回してきました。時間を現金化する仕組みが、会社に入ることによって仕事の受注と労働をつなげマンパワーでこなすことが、仕事として位置づけられてきました。
 そのいい例が、旅行代理店や航空会社のサービス業務です。大勢のマンパワーで巨大組織と大きな仕事をこなし、巨額の収入を得ていました。JTBなどは、世界にオフィスを持ち大量の人材を雇用して、巨大旅行代理店として繁栄してきました。しかし、ITが出てきたことによって、JTBのような大量の人材で仕事をこなさなくてもいい時代に入りました。大量の人材や会社という看板が無くても出来る時代がはじまってしまいました。それは、旅行代理店だけでなく広告代理店含め、メディア産業(テレビ局・新聞社)や特定の製造業にも波及して、既存の大企業の業務が中小零細企業でも個人でも出来る時代になってしまいました。
 さらに社会は大きく変わろうとしています。会社システムや業種別の垣根が壊れただけでなく、居住地の概念すら壊れたと思っています。いままでは、都会と地方の垣根があり都心に出て仕事をすることが、ステータスとして位置づけられていました。しかし、本社などの共同スペースで仕事をすることに意味を持たなくなり、オフィスワークの概念すら壊れてしまいました。そうなると都心部で仕事をする意味がなくなっていきます。昭和・平成にあった、都会に企業を集め人口密集をして効率化と現金化するモデルが主流でしたが、それは過去の産物になっていきます。自宅で業務がこなせるのであれば、朝の通勤ラッシュというものが無くなり、居住を郊外や地方に置いても問題のない生活空間になります。通勤時間に費やしていた時間は、個人の時間に変わり他の仕事をすることができます。そして、いまだに続いている同時出勤や同時退勤が、昭和や平成ほど重要性を持たなくなってきます。そうすると、「居住と会社」「仕事と生活」の概念が違うものになってきます。
 高度成長期の日本は、地方から東京や大阪の都会に出てきて、会社に通えるところに居住地を持つことが一番の理想的な生活空間でありました。都市の周りには、ベッドタウンができ大量の人口移動と人口集約がはじまりました。居住状況は、賃貸よりも購入の方が金銭的なメリットがあるということで、多くの人は都心やベッドタウンに居住空間を購入しました。昭和・平成を支えた社会モデルは、マイ・ホーム信仰と専業労働(サラリーマン文化)でした。その信仰は、銀行と企業が連動し長期ローンをすることで、転職と居住移動の自由を奪いました。終身雇用と年功序列賃金システムは、安定・安住を約束し定職することが、サラリーマン文化を根付かせました。そして、自分の土地を持つことが土地神話につながり土地投資によって、日本経済が支えられてきました。この社会ルーティンが、コロナ後には無くなります。古い固定観念を脱して、未来をデザインする時代がはじまりました。
 仕事の概念と居住空間の概念が、変わるだけで日本の仕組みが全く違うものになってしまいます。昭和や平成の固定観念をいかに脱するか、一人一人に問われています。それを打ち壊すことができた人から、令和の新しい日本社会に参入することができます。

 

「無駄な仕事を増やし、景気を低迷させる愚策」

 この「Go To キャンペーン」を4カ月前に目にしたときに、「何という愚策か」という印象を受けました。なぜならば、役所の仕事を多く増やし巨額の予算を投じても、将来に繋がらない政策にしかならないからです。その場しのぎの政策は、未来の日本社会に繋がらず無駄な投資と意味のない労働にしかならないからです。
 いまの日本の大きな問題は、地方行政と国政が庶民の生活にリンクしない、社会形態になっていることです。今回の「Go Toキャンペーン」がいい例で、なぜ国政が地方経済に関与して、ダブル行政をしているのか。地方行政でする仕事を、国家主導でする必要があったのか、すごく疑問視しています。いま、日本全体がしなくてはいけないことは、国の仕組みを変えることで国の仕事と地方の仕事を明確に分けることです。
 国の仕事は、国防と国土設計(高速道路・港湾・空港)に特化して、中央集権の体制から地方分権にするべきです。地方自治の権限枠を広げ、地方経済の活性化と教育の仕組みを独自の地域の英知で作らなくては、地方はさらに疲弊していきます。いままでのような、全国画一的な社会を庶民は求めなくなってしまいました。戦後直後は、地方との格差を避けるために中央集権にして、均一の教育や富の配分をして国づくりの意味がありました。しかし、成熟社会になり東京一極集中の価値観(経済至上主義)は、日本人を豊かにするどころか、拝金主義とマネー信仰で地方経済と郷土文化を壊してしまいました。このまま東京一極集中の国土設計にして、郷土(地方)に合わない街づくりを進めていくことが、日本の将来につながるのか考える時期に来ています。東京からのトップダウンの行政依存は、地方に若者は残らず郷土文化をすたれさせる構造になっています。
 なぜ、日本の地方の中でITと労働をつなぐアプリが出来ないのか? これだけ、技術大国であるにも関わらず、IT化しない日本社会の問題がどこにあるのかよくわかりません。地方は、労働者を多角労働にしてITアプリによって、労働と時間のマッチングをすれば郷土がよみがえると思います。さらに言えば、土地が自然に近い形で残っているので、景観を重視した次世代の社会空間を作ることが簡単にできます。Uberのようなアプリ(国産のアプリにする必要がある)が、地方限定からスタートすれば、キャッシュの流れと労働体系が大幅に変わってきます。過疎の地域は老人が多く、若い人でないと出来ないことが多くあります。そこを仕事とITの組み合わせですれば、若者にも仕事が増え収入の安定にもつながり次世代型の社会システムが出来ると思っています。ITを入れることによって、単一業務から多角業務に変わり、一社に拘束される必要がなくなるので社会的な閉塞感に縛られなくなります。そして、自分の責任で社会に参入することができます。現行の法律や事業規制では、自由に労働とキャッシュのマッチングが出来ない問題があります。現行法を緩和して、若い人たちの知恵を借りて、ITと家政婦(ハウスキーパー)のマッチングのアプリを作り、時間と仕事の組み合わせと社会の仕組みを作り変えれば、第四次産業革命が地方からスタートすることができます。本来は、地方には大学の研究機関があり、人材もいて自然という資産があります。そして、都会には無いメリットがたくさんあります。その1つは、人口が少ないので小回りが利くというメリットです。そして、人工の固定資産が少ないので、景観を重視した自然とIT社会の街設計が都会よりもできやすい状況になっています。ITを活用することで、郷土にあった組み合わせと地場産業の活性にもつなげ、新しい社会構造を作ることができます。固定観念を壊し新しい発想に変えるだけで、疲弊していた地方がよみがえると思っています。
 その観点からみても、「Go To キャンペーン」の政策は愚策になっています。内訳を見ても、地方行政が出来る権限は小さく、国政が関与することで公務員のダブル行政で役所の仕事を増やし複雑化と多重構造を作っています。それによって、地方の独自の英知を活かすことが出来ずに、どこの地方も同じような政策しか出来ない構造になっています。「Go To キャンペーン」は、地方を画一的なモノにしています。
 地方の観光業界の経済を支えるのであれば、直接活性化する仕組みにすればよかったと思っています。しかし、東京の広告代理店と大手旅行代理店に、まずはお金が落ちる構造になっていて多重構造になっています。この政策は、日本のゼネコンと類似している産業構造で、地方の現場に落ちるまで幾つも天引きによって減額され、中央の主導によってすべて決められています。それでは、地方の独自性の街が出来るはずがありません。あの政策は、既存大企業を守るシステムであり、ITが普及しながらも古い既得権を守っている政策になっています。
 今回の武漢熱でも浮き彫りになったのは、民間経済のパイプにおいても地方経済に中央集権の権限がいきわたり、地方分権がまともに機能しないという根本の問題につながっています。なぜ、国が地域の商工会や観光協会の登録を呼びかけて、地域クーポンを配らなくてはいけないのか? 海外から見ていると、まったく理解に苦しむ無駄な仕事になっています。そして、このことついてメディアや経済評論家は、だれも異を問わない不思議な「忖度」空間を作っています。なぜカナダの一例を挙げたのか、それは国政と地方分権を明確にして役割を分けて無駄な政策をしていないからです。その意味では、合理的な社会になっています。
 国家公務員が、日本最高のシンクタンクであるならば、役所の無駄な多重構造を壊し、世界とビジネスが出来る産業構造の下地を作るべきだと思っています。日本の省益は、国内には強く対外国には弱い側面があり、国家公務員の省益は内弁慶になっています。その原因は、国益という国家観がないことが、省益のモデルになってしまいました。国家政策は、外国と交渉をして国益を生み出す省益にするべきです。その意味では、国家政策と地方政策を明確に分けて、世界と渡り合える行政機関を作るべきです。
 いまだからこそ、国内の役所の多重構造を改善して、地方にもっと大きな権限と閉塞感から脱するべきです。そして、地方自治に権限を渡し郷土復興につなげるべきだと思っています。そして、国家の仕事を担う役所は、対外国との国益を作る仕事に特化して大きな仕事をするべきです。そうすることで、民間経済も追随して景気が伸びていくことは間違いありません。

 

「体制を変えるだけで、日本は甦る」

 実は、日本ではあまり語られませんが、武漢熱の影響をほとんど受けていない先進国は、日本であることを日本人の大半は知りません。確かに、経営が厳しい会社があるのは事実です。飲食店をはじめ、外食産業や旅行業界は大打撃になって、つぶれるところが多く出ることは避けられません。ただし、国の立て直しがすぐにできる国は、北米(アメリカ・カナダ)と日本であることは間違いありません。さらに言うと、国家観や民度で見たときに、世界で一番ポテンシャルがある国は、アメリカよりも日本だと確信しています。国づくりにおいて、国家資産を巨額に持ち・民度が高く・基礎技術が多角的にあり・資源が豊富にある国は日本だからです。そのことを日本人は、気づくべきです。
 アメリカは、強国であり戦後の世界をいままでけん引した国家です。しかし、技術は古く民族の問題で大きな課題を抱えています。日本人の多くは、アメリカの技術は世界屈指のトップクラスだと思っている人が多いと思いますが、実はアメリカの技術力は年々劣化しています。ありとあらゆる産業において、技術の劣化に歯止めがかからない状況になっています。いい例が、車産業と航空産業です。アメリカの車産業の技術は、フォードニズム以来ほとんど進化しない生産ラインで今日まで来てしまいました。そのシステムは酷く、出来上がった車は新車でも1年以内にどこかが壊れてしまいます。BIG 3は、ほとんど社内の技術革新をせずに古いシステムの生産ラインで続けてきました。北米のほとんどの人たちが、アメ車を買わず日本車を買う理由はそこにあります。日本車は、5年乗っていてもほとんど壊れず、中古車でも高く売れることをアメリカ人は知っています。(80~90年代に言われた日米の貿易摩擦は、日本側に問題があるのではなく。アメリカの経営者が、技術革新をしないことが問題で、日本の貿易摩擦にすり替えられてしまったことが本当の真実です。)
 もう1つは、航空産業です。あのボーイング747(ジャンボ・ジェット機)は、1969年に作られ世界の英知と言われ人類史上最高の航空技術でした。しかし、それ以来大きな技術革新のないまま今日まで来ました。最新機のボーイング777や787の機体は、アメリカの技術革新で作られていません。ほとんどの主要パーツは日本製で、技術革新は日本でされ軽量化と耐震性が保たれているのは日本製であるからです。いまのボーイングは、日本製の部品がないと飛ばすことは出来ません。なぜ、アメリカの技術が衰退化したか? それは、特許権やマネーゲームばかりして、技術開発をせずにもの作り文化を捨ててしまったからです。いまのアメリカの産業の病は、外国産に頼り国産を低迷させて合理主義と拝金主義を前面にしてもの作りをしてきたからです。これによって、技術は低迷し国づくりを間違った方に向けてしまいました。
 それに加えて、アメリカ国内は人種・民族の問題の歪みが表面化してきています。建国以来つづいている奴隷の歴史とミリシア文化「国民が民兵であり、国家すら市民が倒せる(合衆国憲法修正第2条)」が、アメリカを分断化する状況になっています。この民族問題は、さらに深刻な問題になっていき、30年後にはいまのアメリカという国体でいるか不明の状態になっています。ただ、私としては、コロナ後の再建は、アメリカ・カナダの北米は経済の立て直しは早く出来ると思います。
 ここで、人知の奥義を持っている国・民族は、日本以外にないということに注目しなくてはいけません。いまの日本を見ていると、省益と特定の団体の既得権益を守ることを中心にした政策が目立ち、本当の改革にはなっていません。コロナ後は、世界情勢に立ち向かう国体にしなくてはいけません。日本の人知の奥義の組み合わせをすれば、世界最強の国家になることは間違いありません。
 日本全体に蔓延している空気は、目先のキャッシュと昭和・平成に出来た社会システムが、「正しい生き方」だと先入観で凝り固まっている状況です。敗戦後に作られた価値観は、「拝金主義」と「合理主義」を追求した社会で、物質社会が民族を緩怠にして、先見の明を奪い歴史観のない日本民族にしてしまいました。2500年以上も続いた民族が、歴史の中から学ぶ知恵を捨て、戦後75年の歳月の中で日本人はまったく違う国家観と精神構造になってしまいました。かつては、「寛大さ」と「勤労」を基軸にして日本精神は作られてきましたが、歪んだ精神構造は日本社会を壊し国が炎症を起こしています。そして、日本人自身がどこを向いて命をつなげていくのか迷走しているのが、いまの日本です。
 このコロナ後は、敗戦後の歴史を振り返り日本の人知を取り返すところから始めるべきです。そこから、スタートすることによって、日本の精神を取り戻し拝金主義から脱して、勤勉・勤労文化に立ち戻るところからはじめるべきです。その発想の転換をすることで、「人知の奥義」を理解することができるでしょう。そして、その組み合わせをすることによって日本が復活する意味が解ります。そのためには、まずは精神構造の切り替えと基幹産業を決めて「国づくり」をするところから始めるべきだと思っています。
 今までの日本は、資源の乏しい国として国民を洗脳してきました。しかし、日本には資源が大量にあることがわかりました。海底資源の熱水鉱床やメタンハイドレードの発見によって、日本は資源大国になる可能性を手にしました。これは何を意味するか?今までの日本は、資源が乏しいことで世界大戦にも巻き込まれました。しかし、自前の資源を手にしたことで、世界の秩序を変え世界の既得権益を壊したことを意味します。日本は、国の旗を振りエネルギー産出国であることを世界に示す時代になりました。これは、世界にとって脅威であります。資源が自前で採れるようになれば、外圧で日本を縛れなくなるからです。それは、白人社会にとっても創造を絶する世界になるからです。(その理由は、次回ヨーロッパ・アメリカ文化史から書こうと思います。)
 なぜ、冒頭で「日本人は無駄な労働をしている」と言っているのか。いま日本がすることは、旧態依然の社会構造を維持することではなく、「労働者の流動」と「新産業のフラットフォーム」を作ることが急務だからです。戦後、田中角栄氏が作ってきた国土設計と産業改革では、世界の既得権益とは戦えないからです。先見の明を持って、世界の図式を空間デザインすれば、新しい日本の形が見えて面白い時代がはじまります。それをするまでには、法や産業構造を改革して、日本社会を大きく変えなくてはいけなくなります。
 「Go To キャンペーン」の政策は、角栄氏が作ってきた古いフラットフォームの上に出来た政策であり、次世代の産業にはつながっていません。11兆もの予算を組むのであれば、メタンハイドレードの発掘事業と天然ガスのパイプラインを作る政策を打ち出して、エネルギー産出国にするべきです。
 なぜ、国の仕事と地方の自治を分権にするのか? その意味は、ここにあります。エネルギー産出国になれば、世界の既得権益と戦わなくてはいけなくなります。そのときに、戦う機関が無ければどうなるのでしょうか? いまのような役人の「事なかれ主義」では、国益を守ることはできません。国の仕事は、対外国との国益を守る政策と外圧に屈しない中央集権を作ることです。そして、地方行政は地元の生活水準を上げる政策をうち、異年齢社会を作る日本型の社会構造に戻すことです。資源産出国にするということは、地方に新産業ができ中央集権の産業構造が壊れることを意味します。そして、都心より地方の方が安定と安住社会が証明されれば、人口流動が起こり過疎化の問題も一瞬にして解決につながります。

 次世代の日本の姿というのは、IT社会と資源大国という2つのイノベーションが同時に起きる、令和維新が始まろうとしています。IT社会を促進することによって、社会のインフラ設備と生活スタイルが違うものになります。そして、資源発掘事業という新産業が生まれることで構造改革がはじまり、それが基幹産業になっていきます。コロナ後同時に、2つの新産業のカードを持つことが日本はできるのです。そのことを空間デザインすれば、目先の職やキャッシュ・フローに不安になる必要はなく、将来を恐れることもありません。
 いま、日本人が敗戦後に信じてきた「幸福」という精神(都会に住むこと・学歴社会・サラリーマン社会)の戦いがはじまっています。一人でも多く、過去の価値観から脱した人が次世代の生き方を手にすることが出来ると思っています。
 政ごとをする人は、中央の仕事と地方の仕事を分権にして国の仕組みを変えることです。そして、民間は古い体質であるサービス業や既得権益の団体を淘汰させ、技術ともの作り社会に戻すべきです。日本精神の根幹は、勤勉・勤労ともの作り文化です。もの作りを卑下する社会は、人類の繁栄にはつながりません。それは、世界の歴史を見ても今の欧州や北米を見ても証明されています。
 暗いことばかりが注目され先の見えない時代ですが、一人一人が日本の可能性を理解して、1つでも多く多角的な仕事ができる人間形成になれば、怯えることも不安になることもありません。これからの時代は、柔軟な発想と多角的な仕事ができる人材が求められます。1つの会社に合わす人間にするのではなく、社会に順応できる多角労働の人間にすることです。勤労と技術を磨けば、自ずと仕事が舞い込んできます。それは、損得勘定を超えて、内から湧き上がる力“Virtue”(徳・善行・美徳・親切)という日本人が持っていた価値観を愛でる人間形成にすることです。哲学的に言えば、主意主義になるのかもしれません。これは、個人で発想の転換をすることで人知を持つことができます。拝金主義や合理主義に身をゆだねるのではなく、郷土を大切にする気持ちや身近な人間を大切にする気持ちを愛でることで、主意主義を取り戻せます。そして、個人の精神と新しい産業構造の組み合わせで、日本の未来が変わって見えてきます。
 世界で1番明るい未来を手にしているのは、日本であることを知るべきです。政治も大きな時間軸で国づくりをはじめ、一人一人が先人の英知を活かせば他人種には出来ない、日本人の生き方を取り戻すことができます。