武漢クライシスがもたらした、日本社会の崩壊 Ⅴ
―時間軸と「生」を考えるー

 

「北米と日本の意識の違い」

 北米は、収束の兆しすら見えず、次の手をどうするのか手探りで模索をしています。街は、外出禁止に近い状態(ロックダウン)にも関わらず感染者の拡大は止まらず、亡くなる人も増えています。日本も4月に入り、武漢ウイルスの深刻さが日増しにひどくなり、5月の連休を緊急事態宣言を出して外出をすることを制限しました。世界各国が、先の見えない未来といつ経済活動を再開して普通の生活に戻すことができるのか、探りながら実態が見えない中をさ迷っています。この武漢ウイルスによって、何を「生」の基軸に置いて生活をしていけばいいのか、人種を超えて大きな課題を突き付けられたと思っています。北米の田舎街であるVancouverですら、どのように次の手を打つべきなのか足踏みをしています。Vancouverダウンタウンの中心であるロブソン通り(東京で言えば、銀座4丁目の交差点)も、いまはこのような姿になっています。


店の窓に合板を張っているのは、内装工事をしているからではありません。日本は、どこの店もシャッターがあるのですが、北米はシャッターが普及してないので、このように合板を張って防犯をしています。通常であれば、若い子たちで溢れかえっている場所ですが、いまは誰もいない状態です。ブランドショップが連ね、人でにぎわっている場所が、写真の状態が2ヶ月も続いています。(日本の無印も閉めて、ナイキも閉まった状態になっています。アリティアやBanana Republicも閉まっています。

Vancouverで一番レントが高いと言われている場所ですが、レントだけが出て行ってしまう状態が続いています。<次回詳しく書きますが、また新しい法律が出来きて、レントを国と家主が補助する法律が通ったようです。毎回、新しい法律ができすぐに施行されるので、情報を正確に掴むのが大変であります。>)

前回、ソーシャル・ディスタンスの話しをしました。入店するときも2mの距離をあけて列に並ばせて、人数制限を徹底的にしています。いまは、どこの店もレジにアクリルの板で囲い、お客さんとの接触を極限まで、させないようにしました。写真でもわかるように、レジを打つ人とお客さんの間には、アクリルの板で境を付けて、従業員を守る対策をしています。店によっては、現金受取を拒否して、カード決済だけにして、お客さんの側にクレジットカード機械を置いて、お客さんの私物にも触れないような体制で仕事をしています。日本では、ここまでする店はないと思いますが、北米は非常事態になったときは合理的に考え「いままでの常識」や「お客に失礼という感情」でビジネスをしないことも北米文化の1つなのかもしれません。

 科学的な見地から、従業員をどのように守るか。そして、合理的客観的な立ち位置に立って、社会を編成するシステムを持っているところは、日本とは違っているかもしれません。日本だと、慣習や常識が先に来てしまい、店側がシステムを変えても消費者側から「客を感染者扱いにして」とか「お客を差別して」というクレームが起き、社会を変えることが難しい一面があります。長い歴史の中から社会倫理を作ってきた国は、いままでと違うことを、すごく怪訝視する社会性があります。合理性を優先しなくてはいけないときに、いままでの常識や礼節を重んじる社会は、急激な方向転換の出来ないことが、今回は弱点になってしまったのかもしれません。

 北米の徹底さは、もう1つの写真でもわかります。道路にショッピングカートが出ているのは、外で殺菌をするためです。通常は、そんなことをしませんが、今回の武漢ウイルスによって、消毒をする業者を頼み徹底的に公衆衛生をやっています。ブディックなどが閉めているのは、従業員の感染拡大を防ぐことと、モノから人に感染をすることを恐れた結果、店を閉めた方がプラスだと決断した北米の人知だと思っています。その状況のなかで、日本からこんなニュースが入ってきました。各地の繁華街(銀座や新宿や渋谷などの人が集まる場所)は減ったようですが、下町の商店街や公園には人が殺到して、世界とは真逆の状態になっているとのに、不思議な感情を抱きながら、日本社会を見ていました。
 公衆衛生や危機管理という観点からは、想像できない思考回路があるような気がしています。日本人の中に潜在している「事なかれ主義」なのか「平和ボケ」か、知りませんが「生と死」という境界線が、虚構の世界になってしまったのかもしれません。世界の標準に合わせろとは思いません。ただし、各国で何が起きているのかという事実を知る作業と、海外の実体を推測するクリエイティブさを持たないと、この国の先はないような気がします。世界各地で、「生死にかかわる」民族の挑戦がはじまっています。この武漢ウイルスの捉え方が、世界と違うことを日本人は受け止めなくてはいけないと思います。いま日本全体が、何を基準に社会観を持って国づくりをしているのか? 問われていると思います。この武漢ウイルスで、世界の価値観が大きく変わろうとしています。日本人は、一人一人が先人の持っていた死生観に立って考えることをしなくてはいけないと思います。

 

「新しいかたちの戦争がはじまっている」

―インストラクション戦争―

 いま世界の至る場所で経済活動が止まり、公衆衛生の収束だけの問題ではない次のステージに入ったと見ています。当たり前の日常生活が普通ではなくなり、経済活動の不自由な社会が、孤独と不安と恐怖を同時に体感することが、どれだけ精神の負担になったのか世界中の人がわかったと思います。いま北米は、ロックダウンの状態が2~3ヶ月で解決できるとは見ていません。ヨーロッパの一部では、制限を緩和して日常生活を取り戻そうとしていますが、それがいまの時期なのかすごく北米の専門家は疑問視しています。世界各国は、公衆衛生の収束から経済活動の再開をどのようにしていくのかに争点が移り、国の再建に尽力しています。今回、日本社会の対応を見ていて、すごく疑問に思ったことは初動から情報を正確に扱っていなかったことです。統治機関、学者・専門家、メディア・有識者を含め、情報を職にしている人たちが、まともに武漢ウイルスの実態を見ずに、論点のすり替えと世界情勢を正確に分析してこなかったことです。それによって、政策を打ち出すこともできなければ、国民に正確な方向をうちだせずに今日まできてしまいました。
 前回にも書きましたが、1月の武漢の都市封鎖がはじまったとたんに、各国は中国からの渡航制限・禁止スタートしました。各国の対応は、民間に任せるのではなく軍人や国家機関が主導権を取って国防体制に入りました。顕著にでていたのは、武漢から日本人を引き上げさせるときに、日本は自衛隊が動くのではなく民間のチャーター機を飛ばし、民間と国家の仕事の境界線を作らないまま非常事態がはじまりました。さらに国の玄関でもある空港では、役所の縦割り(法務省:入国許可・外務省:ビザの発券・厚生労働省:公衆衛生)によって指示系統が明確にならないまま、感染者を大量に入れてしまいました。
 日本だけが武漢ウイルスの対応は、国防レベルの対応でなく厚生労働省管轄の町中医療レベルでスタートをしました。その結果として、日本の心臓部の東京にチャーター機を受け入れ、町中の病院とホテルに収容させました。あまりにも世界との対応の違いに、はじめは愕然としました。日本の報道を見ていても、野次馬的な情報ばかりを流し、科学的検証や社会への対応の必要性をまったく報じてきませんでした。2月の報道の大半が、クルーズ船内の感染者のこと(食事の搬入や医療体制を報道して、情緒に訴えること)ばかり取り上げて、国防レベルでの対応をどうするかという話しすらなりませんでした。報道のありかたも含め、統治機関と知識層の限界なのかもしれません。
 そして、北米の国を見ていて一番に感じたことは、国主導で動いたことによって、公衆衛生と経済活動の両者を天秤にかけながら、社会秩序をどう維持するかを政策の中に入れていたことです。社会機能が壊され、ウイルスで殺されるのか経済的要因で殺されるのか、2者択一の状況の中に入っていくことを予測して、欧州や北米はいち早く決断をして政策をうちたて外出禁止令と財政出動を同時に行いました。世界は知恵を出しながら、可視化出来ない危難を、ロックアウトやソーシャルディスタンス(2mルール)で住民の生命・財産を守る決死の覚悟で統治期間は動きました。庶民は、その行為が公衆衛生とどうつながっているのか解らないまま、罰則と自由の規制を受け入れて、治安維持するために国の政策に庶民は委ねました。(自分たちが選挙で選んだ人に、社会秩序をゆだねるという当たり前のことですが、暴動も起こさずに一斉に国家に従い、国家と国民が1つになって同じ方向につき進む決断をしました。)ある意味で、民主主義を見た一幕でもありました。 
 この大きなズレはどこから来るのか? 今回、日本とカナダの政策を見ていて思ったことは、日本の統治機構に欠陥があるような気がしています。自治を任せられた人間は、社会秩序という概念が無いまま統治する仕事に就き、責任を負わない発言と何も解決しない政治をしてきました。結果として、「事なかれ主義」と「外国のこと」としてレッテルを張り、この武漢ウイルスを平時のウイルスとして捉え、国民(住民)の財産・生命の観点からものごとを見る人知がいなくなってしまいました。日本の不思議なところは、有識者が国際化やグローバル化をあれだけ推奨しているにも関わらず、ほとんどの人がその対応が出来なかったことです。国家レベルでも地方自治レベルでも、一部の人を除いて、その対応が出来ていないことが判明してしまいました。
 日本の社会システムを変えていかないと、この国は次の国際社会では生き残ることは出来ないと思っています。まずは、コストがかからずに、現存のシステムをからできる選挙から意識を変える必要があると思います。いままでは、地域の有力者とか世襲でやってきた職業でしたが、公衆衛生やマクロ経済の観点から社会をデザインし、専門性を持ったプロが自治をしていかなくてはいけないと思っています。都道府県の地方議会においても、外国と地域秩序の相関関係の空間デザインを出来る人が出てこなくてはいけないと思っています。得体のしれないイデオロギーで政治をするのではなく、実務と法をもって政策を構築する政治家を生み出さなくてはいけないと思っています。そして、報道システムにも責任があると思っています。無知な人気タレントを使い、情に訴えるような報道はやめるべきだと思っています。知識人(学者・報道人・シンクタンク)のレベルを上げて、古い既得権益の上に載らない報道をし、結果と責任を取る有識者を育てなくてはいけないと思っています。
 この武漢ウイルスによって、はっきりとわかったことは、国家観を待たない民族がグローバル化を推進しても、子々孫々の英知にはつながらないということです。敗戦後の教育は、昭和・平成のシステムで日本全体が分断化され、国という単位で次世代の世界を創造する力がなくなってしまいました。平成脳(平成の価値観)で見ている人たちは、平時の経験値ですべてジャッジをするので、すべてが縦割り社会になり、小さな世界の既得権と閉塞的な社会観しか持たない思考回路になってしまいました。その縦割りの想像力は、マクロで社会を見る力と世代を超えた時間軸で見る能力が無いことが判明してしまいました。
 実は、世界は新しいステージに入っています。日本国内では、武漢ウイルスのことばかり取り上げて、多くの人は緊急事態宣言の解除を待っていますが、世界各国は新しいかたちの戦争がはじまったとみています。その新しい戦争とは何か? 人類がはじめて経験する「インストラクション戦争」がスタートをしたと見ていいです。なかなか想像しにくいと思いますが、戦争というと兵隊と兵器の両輪で、敵国の社会や特定の地域を壊すことを戦争の定義をしていきました。この新しい戦争は、平常時の公衆衛生を破壊し経済活動を止めることで社会を壊し、知らぬ間に人を死に追い込み戦争状態に巻き込まれていることを意味します。さらに恐ろしいのは、同胞が同胞を殺しあう状態(経済破綻によって自殺者が増え、人から人にウイルスが感染して死に追いやること)がはじまってしまいました。武器や兵士を使わなくても、強国を一瞬にして社会機能を停止させ、仕掛けた側がコストをかけずに、その民族を貧困に陥れ自滅させるという、新しい時代がはじまったと見るべきです。今回の武漢ウイルスは、ただの疫病としてみるのではなく、国際情勢と時間軸で何が起こったのかを見るべきだと思っています。その意味では、平成脳を切り離す時代に入ったと思います。

 

「国家とマネーの関係」

 ロックダウンの状態が2~3ヶ月続き、さらに半年続いたらどうなってしまうのか? 北米の行政機関は、常に最悪のシナリオを出して国づくりをしています。武漢市がロックダウンしたときに、アメリカは幾つものシナリオをつくり、すぐに水際作戦で防衛をしました。(ちなみに、アメリカとカナダの関係は、国境は存在しますが、国防プログラムに入ったとたんに情報を共有する関係なので、アメリカが主導をしたら追随する体制をすぐにとります。)軍人が動き中国からの渡航禁止をして、ウイルスを国内に入れない体制を作りました。当初(2月まで)は、アジアとヨーロッパのユーラシア大陸のこととして捉えていました。しかし、3月に入り国内に武漢ウイルスが入ってしまい、ニューヨーク州からアメリカは最悪なシナリオになりました。その後、カナダも東サイドから感染者がクラスターの状態になりました。北米の合理的頭脳のすごいところは、すぐにロジックを転換して国外体制(水際作戦)から国内体制にシフトチェンジをして、国づくりを始動したことです。過去の失敗に引きずられるのではなく、科学的・経済的・人道的な側面を同時に捉えて、切り捨てるところと残すところを明確にして政策を出し進めていくことをはじめました。それが明確に出たのは、公衆衛生(ロックダウン)と経済停止(失業者増大の回避)を同時に国民に共有させたことです。その後すぐに、財政出動をして庶民にお金をばらまき、社会システムを保つことをはじめました。
 (蛇足ながら、平成脳の日本の政治家のレベルではそうはいかないでしょう。野党は、政権の過ちばかりを批判して、政策のないマウンティングをして何もしない政治をしているのが、いまの日本の政治です。結果的に、血税を払って勤労をしている人たちを見殺しにするシステムになっています。)
 話しを戻しますが、北米は3月に感染が拡大したにも関わらず、財政出動は3月中旬発動し、多くの人は助成金を3月の下旬に手にしました。民間の力では出来ない仕事を、政治の力で補うという官民の相互関係がはっきりしていました。
 北米の面白いもう1つの価値観は、マネーを置きモノ(宝物やタンス貯金)としてみるのではなく道具と捉え、それを最大限に使う知恵を持っていることです。確かに北米は、お金を生み出す力を正義とする「マネー至上主義」ではありますが、マネーを稼ぐ個人の能力を評価し、モノとしてマネーをみているところがあります。マネーを貯める(停滞させる)ことを意味するのではなく、流動させることに意味があり道具として使うモノとして捉えています。
 その思考の根幹は、開拓文化なのかしりませんが、地域社会の維持費や社会を立て直すことを合理的にお金で計算ができる能力があります。一度壊れた社会を立て直すのに、どれくらいのコストがかかり、治安維持をするための費用(セキュリティーコスト)がどれくらいかかるのかを、1つのセットとして社会を捉えています。日本の人たちには、わかりにくい発想ですが、治安・秩序の維持することをコストがかかるという発想があるので、高額になることを非常に恐れています。そもそも歴史のない多民族国家の下では、共通の文化(宗教観)と文明(生活慣習)を持たない社会システムなので、マネーという文明で共通価値を持つことで社会維持をしています。日本のように地域文化(歴史や慣習で文化を作ってきた社会。民族のモラルや倫理で成り立っている社会。)で治安を維持することができないので、治安維持に莫大なコストがかかるという発想を持っています。(セコムのような個人や企業のセキュリティーとコストとの関係とは違った発想です。)社会の貧困化は、治安崩壊と直結しているので、一部の民族が貧困化すれば連鎖し他の民族の生活にも関わる問題になるので、社会秩序の維持は北米社会の死生観に繋がっています。その意味では、北米のまつりごとをする人間は、彼らなりに社会をどう維持してマネー(財政)を使いながら、自治をしていくのかバランスシートは持っています。

 

「国家観念のない統治機関と知識層」

世界は、各主要都市でロックダウンをして経済活動が止まっているにも関わらず、日本政府は「なぜこんなに時間をかけて財政出動に戸惑っているのか?」よく解りません。
北米の対応を見ていると、日本の統治機関の対応の遅さと国を統括するヒエラルキーが、機能していないことが明確にわかります。カナダは、日本より1ヶ月も遅れて武漢ウイルスの感染拡大がはじまりました。すぐに、経済活動の制限と外出規制をかけて、人の動きを止めました。それと引き換えに、武漢ウイルスによって仕事を失った人に、財政出動をして助成金の給付がはじまりました。カナダ緊急賃金助成金制度(Canada Emergency Wage Subsidy)を立ち上げ、月最大2000ドル・最長4カ月にわたり給付がはじまりました。驚くことに、トルドー首相の3月中旬に発表以降、すぐに助成金制度がはじまりました。窓口での受付は、ほとんどせずにオンラインで申請が出来るシステムに成っています。個人が登録申請をすれば、すぐに銀行振り込みか小切手で支給され、個人が手に出来る状態になっています。さらに驚くことに、新しい助成金システムにも関わらず首相の発表とほぼ同時に、ホームページも立ち上がりネットで申請するシステムができていました。私も、4月の中旬に申請をあげたところカナダ政府から小切手が、2週間後には送られてきました。

いつもは、お役所仕事は遅く時間がかかるのですが、緊急助成金に関しては迅速の対応だったので、今回の失業問題がどれだけ深刻なことなのかが、汲み取ることができます。いまは、カナダ政府は助成金をバラ巻き国民に貧困と安心を与える政策をしています。
 日本社会の危機管理と死生観の境界線が無くなったと冒頭に書きましたが、それは庶民だけでなく日本の統治機関に携わる人たちにも言えることです。日本ほど勤勉・勤労な労働者がいて、その庶民が日本社会を支えているにも関わらず、その人たちを救済しないというのは、一体何をもって国づくりをしているのか。勤労者を救わずして、何を大切にするのか? 次世代に何を残すのか、日本の根幹にも関わる問題です。日本の圧倒的な力は、勤労の精神と高い技術は世界に誇れる財産であり、この武漢ウイルスが収束したときには、これが一番の財産になる時代がはじまると思います。それを大切にしないということは、日本の尊厳を否定することになります。
 敗戦後の日本は、貧困から高度成長期を迎えお金と物質的な豊かさだけを追求してきた結果、社会の共同体と個人の価値観がいびつな人間社会をつくってきてしまいました。統治する人・経済活動をする人・公共サービスをする人(消防士・警察官・自衛官など、命を懸けて治安維持をする人に、敬意を払う社会にならなくてはいけない。)の分断化が起こり、個人が社会の中でどう死生観を持つかという観念が無くなってしまいました。今回の武漢ウイルスによって、日本社会の死生観が明確になったと思います。
 いつの時代もエリートと言われていた知識層が、国を動かしてきました。しかし、先人の知識層は国難があるたびに、日本の尊厳に立って国づくりをしていきました。平成の知識層や政治家や既得権益を作っているグループは、勤労という精神を無にする国づくりをはじめてしまいました。統治機関をグループ化し、古い既得権益グループが、自分たちの私腹を肥やす国にしてしまいました。その一番の闇を作ってきたのは、日本型のマネー主義(資産を停滞させる価値観)だと見ています。
 財務省をはじめ、国際情勢や時間軸でものごとが見られない人間が、国づくりをしても世界には通用しません。官僚のシナリオで作られた日本社会は、メディアや教育機関を使い日本の屋台骨にしてきましたが、今回の一件で通用しないことが判明しました。ある意味、いまは国難です。世界の価値観が大きく動いている時代に突入しました。
 日本の核になる尊厳をどう守っていくのか? かつての先人は、お金を貯めることに執着を持ちませんでした。未来に投資をするという発想を常にもって、明治維新から戦後の復興まで日本という国を作ってきました。もう一度、日本人に立ち返って世界と未来を創造する人知をよみがえらせる必要があると思っています。