日本人が捨ててきたもの
―日本社会が抱える2つのゆがみ-

 毎年帰るたびに、いろんな問題に直面する。今回一番に感じたのは、同年代の40~50代が将来を諦め、人生の消化試合をしていることである。会社組織から疎外され、目標を失っているのか? 家庭の崩壊が無気力を生んでいるのか? 原因はいろいろあるのだろうが、共通して言えることは、生きることの楽しみが無くなっている。都会に居ながら、小さな世界で生き、人の温もりもない孤独な社会で生きている。
 かつては、高学歴と一流企業のサラリーマンが最高な人生だと謳われていた時代があり、そこを目標にして社会が成立していた。しかし、その生活は社畜になり、家庭での温もりは薄れ、現金だけを振り込むキャッシュディスペンサーになってしまった。お金だけのつながりは、家族とのつながりがなくなり、仕事に対しての誇りもなくなってしまった。いったい敗戦後の日本は、何を作ろうとしてきたのか。 
 私のような海外の生活が長く、年に1回しか帰らない人間にとっては、年々淋しい国になり果てている。かつては、どこにでもあった人の温もりや活力、町には活気があった。そういった未来の希望や機運に、社会は満ちていた。いまは、その気配もなく自分たちの想いとは違う国づくりに向っている。40代~50代は、目先のキャッシュを追い目的のない、いびつな価値観にしがみついている。自分たちの理念とは、違うものだと解っていても、その大きな流れに身を委ねている。その不自然さが、不協和音のように自分には聞こえてくる。
 日本社会から離れて暮らしていると、日本人とは違う角度から日本を見ることができる。その最たるものが、学生から社会人になるときの集団の流れが、すごく機械的に見え不自然な社会に見える。労使ともに、意思を持った成人が、すべて同じ行動をして自動的に動いている不思議な空間は、世界のどこを見ても存在せず、日本独特のシステムである。雇用側は、各社同時期に一斉に入社させるシステムを、いまだに続けていびつな横並び(平等主義という不自然な形)にしている。そして20代の新入社員は、学校を卒業してすぐに入社し、会社に入ることが仕事だと思いこんでいる。意志を持った成人が、自分の選んだ仕事に興味や責任を持たずに就業に就いているが、仕事をするという概念を持っているのだろうか? そんな彼らは、自分たちの主張と権利ばかりを言って、その組織において、どれだけの生産性を生んでいるのか理解していない。それに加え、何の経験値を身に付けているのか、わからないで時間を使っている。20代の大切な時間を、自分の能力を過信し責任を取らない仕事をして、将来の役にたたない時間を費やしている。日本人の大半が、通勤ラッシュとタイムカードの生活が、成人のルーティーンだと思っていること自体が時代錯誤である。その不思議な社会に対して、教員も親御さんも否定もしなければ疑問も持たずに、そのレールに乗せることが責任と思っているが、果たしてそうだろうか?
 かつては、それが成人の証として日本社会は、10~20代に祝福をしていた時代があった。しかし、いま日本に存在している企業システム(サラリーマン社会)では、次の時代には機能できなくなっています。その大きなゆがみが、複合的に絡み合い将来が見えない国づくりを日本人全体がしている。

<2つのゆがみ>

 一番のゆがみの根幹は、教育から企業社会まで、日本人自身が信仰しているいびつな全体主義と平等主義が大きな問題になっていると思います。

 学校や家庭での教育を見ても、個人主義と個の自由と権利を称賛しながら、真逆の価値観である全体主義をとり、平等社会の中で人を育ててきた。その結果、平らな人間関係が正しいという、先入観を植え付けてしまきました。(ある小学校では、運動会の徒競走のときに、みんなで手をつないでゴールをして、「みんな一等賞」といって喜んでいる。が、これこそ不自然な平らな社会である。)本来の人間社会は、能力や年齢によって、上下の関係があることや人間に凹凸があることを知るのが学校である。それをどのように立ち振る舞い関係を作るのかを学ぶのが教育で、人間の知恵を伝えていく大切な空間であった。それをすべて、「平等」という不思議な言葉で平らにして、凹凸のない社会と責任を負わない権利(主張)だけをかれらに与えてきました。(今日は、深くは触れませんが。その問題は、ニートの問題や8050の問題にもつながっていきます。そのことについては、別の書こうと思います。)そんな彼らに、社会人になって人間には上下の関係があると言われても、彼らは対応もできなければ、凹凸の関係を理解できないは当然である。いま、社会人の世界でいびつな上司と部下の関係になっているのは、仕事のできない無能な人間に平等という権利を与え、個人の能力の問題を全体で解決するという構造が、背景にあるからです。「ゆとり教育」や「悟り教育」という言葉だけが世間に伝わり、世代の問題とされているが、実は根底にあるのは、教育の時点で知恵のない人間を育ててきたことが問題だと思っています。
 もう1つは、ITの出現によって時間をかけながら修得していた熟練した仕事が、素人でもできる時代になってしまいました。情報が公開されることで、プチプロ(素人ではあるが、プロほどの技能を持っていない)のような人がたくさん社会に出てきました。以前より、徒弟制(縦社会)の中での修行や技術の継承が薄れ、ネットでの情報公開によって技術の開示が、若年者でも簡単に手に入る時代になりました。技術の伝達が変わったことで、能力と年齢の上下関係が、昔ほど重要視されなくなってしまった。(師弟関係にならなくても、独学で技術を身に付けることができてしまう時代になった。)その背景が、日本社会の上下の関係を壊し、ゆがんだ社会をつくってきました。
 平成の後半から、一部の企業は全体主義や組織でする仕事に重点を置かなくなってきました。さらに、その流れは進むでしょう。この現状に対して、日本の国づくりは教育・行政・大企業は何も対策を打たずに、学歴信仰と会社信仰だけで日本社会を回してきた。時代に適していないシステムが、国際競争力を失い次の社会にも適せず、日本全体が無駄な労働と無駄金を使って今日まで来てしまった。
 最近のことで言えば、あのトヨタ自動車が「いままでの雇用体系では、社員を維持することはできない。」と言った時点で、「終身雇用」や「年功序列賃金体系」が崩壊したことを意味し、日本型のサラリーマン社会は終わったことを告げました。日本社会がいびつに映るのは、エリートといわれる人間たちほど、その現実から目を背け、事実を見なかったことにしてしまうことである。本来、頭脳で生きてきた人たちは、その事実を実直に受けとめ空間デザインをして、次の世界を創造するのが仕事である。学者を含め社会をけん引する人たちは、問題を傍観して事なかれ主義になっている。
 それに加え40~50代の人は、社会人としての経験値もありながら、今後のシステムに先がないことに否定しないで来てしまった。いま必要なことは、自分たちの手でサラリーマン社会が主流でないことを示すべきである。そして、会社を離職しても社会から疎外されたという認識ではなく、新たな人生がはじまったと自負することである。世間の体裁は、「勝ち組」「負け組」という言葉に踊っていますが、自分の人生を達観的にみるべきです。
 20~30代にも問題があります。既存の日本社会を冷めた目で見るのであれば、独自の方法で「時間をお金にする技術(経済的な自立)」と「社会での責任(仕事をツールにして人との関係を持つ)」を身に付けていかなくてはいけない。会社組織にいれば、年配の人が若年者たちの「面倒を見る」が、プロとしての行為ではなく、本来許される次元の話しではない。お金が派生した時点で、仕事の責任を負えなない人間は、自分の無能をさらけ出していることになる。同年代のアスリートを見ればわかるように、結果が出なければスポンサーは付かず、収入は入ってきません。経済的な自立できないことは、無能であると同時に、将来の自分の人生の枠を狭めていることにつながります。その意味を自覚しなくてはいけない。
 日本社会のゆがみは、各年代が周りの責任にして、自分たちの目の前の責任を見ないようにしていることである。自分が労働者として、どれだけ価値があるのかわかっていない。いま必要なのは、目先の人生を恐れるのではなく、肥大化したいまの状態(プライドや虚栄)をそぎ落とすことである。壮年者であれば、20~30年社会人として生き必ず知恵と手段は持っている。離職して次の人生を歩むときに、プライドが傷つくことや減給があったとしても、一時的な感傷であり自分のやりたいことや技術が社会に還元されていれば、そんなことは小さな問題にしかならない。環境の変化を恐れず個人の生命力に委ねれば「突破力」につながり、小さな行動が大きな勇気に変わっていきます。
 いまの日本社会のゆがみを改正できるのは、40~50代の人たちだと思っています。会社を離職しても生きる伝手を持っている証を、今の20~30代に示していくことだと思っています。会社にしがみつき、社畜として生きるのではなく、個人でも経済的な自立ができ、次世代の土台を作ることで日本の将来が変わってきます。次の世代に、何を受け継がせるのか? 「社会との責任を持つ」「経済的な責任を持つ」この2つを柱にすれば、サラリーマン社会に依存しなくても、新たな人生を見つけることができます。
 これからの経済の自立は、日本国内の競争ではなく他人種との民族生存競争になっていきます。ITが普及したことで、公平に情報が行き渡る時代になりました。その意味では、40~50代にも公平なチャンスが巡っていることは、プラスに考えるべきです。成熟した大人でしかできない仕事が必ずあります。人間の幅や厚みによって、生まれた人間力はあります。それは、若い世代にはないプラスの要因です。
 長年モノづくりとかかわり、壮年層と職人の世界がつながらないか考えてきました。職人世界とITを上手く融合することで、40~50代の次の仕事にならないか? もの作りの世界は、50代以降は穴が空いた状態になっています。職人が高齢化になり、人手不足と後継者がいない現状になっています。あと数年たつと途絶えてしまう産業は幾つもあります。
 かつてのような、職人が無口で「見て覚えろ」という時代ではなくなりました。雑用を何年もさせて、技術を教えないこともなくなりました。その世界に入れば、すぐに実践と現場の仕事に就くことができます。彼らは、その技術を受け継がれなければ途絶えてしまうことは十重に理解し、残りの人生で技術を伝えたいという想いは持っています。
 職種によっては、年がいってもできる仕事はいくつもあります。いまは、ネットによって個人でも多岐にわたる技法や知識が簡単に入ることができます。ネット社会は情報を平等にして、日本の伝統工芸の職人の仕事が情報公開される時代になりました。かつては、雑用や下積みをさせて辛抱と忍耐を身に付けさせてきました。しかし、40~50代は、違う職場で忍耐力と上下の関係を身に付けてきました。それに加え、社会経験を積んで広い見識を持っています。この経験値は財産であり、プラスの要因です。あとは体を使って実践との組み合わせです。日本の職人仕事は、知識と手の感覚と感性をどのように組み合わせて作品をつくっていくのかが仕事です。それを立体的に空間デザインすれば、昔ほど時間がかからずに、技術の継承ができると思っています。壮年層は、自分の性格も含め長所・短所を客観的に見て、向き不向きの判断ができると思います。日本人の特徴は、勤勉・勤労で1つ1つの技術を積み重ねていく能力を持った民族です。いまの壮年層は、辛抱強く勤勉で勤労を持ち合わせています。これは、技術を修得するには必要な条件です。
 そして、ITによって解決した大きな問題があります。世間は、この問題を大きくは取り上げられませんが、ITの出現によってモノ作りの世界が大きく変わろうとしています。かつての職人しごとの大きな課題は、経済的な自立が出来ないことでした。いまは、ネットができたことによって世界に向けた個人貿易ができます。国内市場だけでなく、海外市場も視野に入れた仕事ができます。間違いなく次の時代は、国内市場ではなく海外市場が中心になると思います。いまの職人世界は、一部を除いて海外市場を目算したところでは仕事をしていません。作ることと売ることを、体系化にして外貨を稼ぐことができれば、経済的な自立の問題が解決することになります。この仕事の面白さは、ITとモノ作りの融合を個人の力でできることです。壮年者は、社会経験があるので起業をするときに、その経験値が大きな力になります。いままでの職人さんは、作ることに特化をして売ることに時間を割くことができませんでした。作り手と買い手のつながる方法をどのようにつなげていくのか、手段もありませんでした。しかし、ネットが出てきたことによって、世界に通じる販売市場が手に入りました。
 実は、日本の文化の中に次の時代の生き方が埋もれていました。全体主義ではなく個人の能力で仕事ができ、「社会との責任を持つ」「経済的な責任を持つ」仕事でもあります。日本という視野から世界という視野にちょっと、視点を変えるだけでも開けた世界が見えてきます。日本全体に蔓延している自虐精神から脱することで、個人の能力と技術で幾らでも可能性を広げることができます。実は、日本人が捨ててきた職人しごとにこそ、大きな可能性と未来があると思っています。