「民族と表現の自由」

 日本のニュースを見ていると、「表現の自由」が民主主義の根幹だと思っている人が多いが、本当にすべての表現の自由が許されるものなのか? 何をもって「言論の自由」と「表現の自由」があるのか、いまの日本人は理解していない人が多いように思う。その結果、秩序を維持するための「自由」の枠が明確になっていないために、日本社会がカオスになっている。「自由」と「表現」という言葉を使えば、何をやっても許される背景に「責任」と「自由」の因果関係がわかっていない。かつての日本人は、多くを語らず礼節に重きをおいて国づくりをしてきた。言論空間より大切な礼節を重んじた社会だったので、言葉にも節度があった。「表現の自由」という文言を全面に出さなくても、人と人のコミュニケーションは成立し、国内において普通に社会は回っていた。しかし、いまの日本社会は言論空間が浮遊し、実態とは違うところに「自由」という言葉が正当性を持ち、「無責任な自由」が社会を無秩序にしている。いま日本社会に蔓延している空気は、「自由」や「表現」という浮遊した言葉が宙に舞っていて、国づくりの正当性をかき消す状態になっている。この不自然さは、民族の良識や日本の慣習を壊し、どこの世界に向おうとしているのか日本人自身が見えなくなっている。そして、その空間は世界の民族が持っている常識とは、まったく違う方向に向かっていることを知らなくてはいけない。
 「あいちトリエンナーレ」の問題は、いまの日本の国の大きな闇を表しているものだと思っています。芸術というベールに包みながら、「表現の不自由展」という言葉だけが浮遊した芸術展を開催してしまう不思議な社会構造になっている。展示品もさることながら、公金で主催していること事態に民族の価値観が薄れている証だと見ています。
 今回のようなことは、海外の視点で置き換えてみると非常によく解ります。もし、あのような展示会をカナダやアメリカでした場合、どのようなことなのか。カナダやアメリカの州知事が、公職に就きながら「イエスの絵や聖書を燃やし土足で踏みつける」行為や「ムハマンドの画やコーランを燃やし土足で踏みつける」行為を展示した場合、どんなことになるのか。冷静に考えて見てください。間違いなく州知事の命や家族の命は無いと見た方がいいでしょう。(アメリカであれば、すぐに関係者は射殺されるでしょう。そして、その余波はまったく関係のない人にも影響が出ます。同じ政党というだけで、何千キロ離れた他の州の事務所が襲撃され、民族間や宗教観の対立にもつながっていきます。)そして、政治家だけではなく展示会に関わった知識人たちも危害をこうむり、まず平穏な生活は送れないでしょう。
 カナダのような穏健な国民ですら、暴動が起きることは間違いありません。仮に、州知事が生きていたとしても、即刻リコールになり役職を失うでしょう。もし、議会が動かなかった場合は、「首長自らから治安を不安定にさせた」ということで、住民投票にかけられ退陣に追い込まれるのは間違いありません。
 決して、世界の常識や北米の価値が正しいということを言っているのではありません。それぐらいに、この問題は民族のデリケート部分であり、安易に刺激して対立を生み出す行為をしないというのが、人類の知恵であります。北米だけの価値観で言っているのではなく、多民族が共有し民族の大切なものを無作為に冒涜しないというのは、世界共通の常識です。その行為をしたときには、必ず生命に関わることにつながります。
 まだ、多くの人は記憶に残っていると思いまが。数年前にフランスでは、シャルリエブド社がイスラム教を冒涜する記事を載せ、襲撃事件まで起こり数人が殺害された事件がありました。その後、キリスト教陣営はEUの代表(各国の大統領や首相)が参加する大規模のデモをして、異教徒の対立の火種を必死に消した過去がありました。そもそもは、フランスの小さな新聞会社が犯したひとつの行為が、庶民の不安と民族間の殺意を掻き立てることをしました。一歩間違えれば、ヨーロッパの中で血みどろの殺戮が起きようとしていたのは間違いありません。キリスト教陣営は、庶民レベルでは解決できないと決断したからこそ、各国の代表が緊急に集まり、あの大規模なデモに発展していったのです。ヨーロッパという地域(ヨーロッパ全体をひとつの国で見たとき)に、たかだか地方紙のひとつの記事が、各国を巻き込み、どれだけキリスト教圏の不安と緊張をもたらしたのか。そして、各国は莫大な税金を使って、その火消しをしたのは言うまでもありません。
 当時、日本では「表現の自由」を守るデモに映ったかもしれませんが、ただのパフォーマンスではありません。あのパフォーマンスでしか鎮静は出来ないと思ったからこそ、世界に向けて大規模なデモをしたのです。日本人は、言論空間と民主主義の素晴らしいかたちと思っていますが、外国ではそんなきれいごとでは捉えていません。多民族と共同で生活することは、治安や民族の対立をどう避けるか、これが一番はじめの前提になります。あのキリスト教陣営の迅速さと錚錚たるメンバーをみれば、何を意味しているのかがわかると思います。それぐらいに、民族の大事なものを冒涜や否定することは、殺戮を生む行為につながるということです。
 キリスト教の歴史は、「どのように命を尊重して、お互いが命を落とすことなく終着させるのか?」 長い年月をかけヨーロッパや北米は、デモでお互いが殺戮をしないということを産みだし、歴史の中から作り上げた民族の知恵であります。そこまで、掘り下げてあのデモを見ていた日本人は、どれくらいいるでしょうか。「テロ行為に屈しない」とか「暴力による言論弾圧の解放」と思って、民主主義陣営の一致団結として見ていた人がほとんどだったと思います。「表現の自由」とは、もっと根の深いところにあり、いまの日本社会には理解しづらい、民族間の隙間に人類の闇があることは理解しなくてはいけません。
 人類は、民族のデリケートな部分を尊重し生きる根幹を大切にしてきました。人間の生活の大きな柱は、デリケートな部分が派生し文化や文明が生まれ、現代につながっています。ゆえに、民族のデリケート部分は安易に否定や意見するのではなく、慎重な上にも慎重さを重ね知恵と良心で見ていかなくてはいけません。海外では、宗教や民族の根幹の部分を公共の機関によって、冒涜や誹謗されることは決して許されません。
 いまの日本社会の闇は、同族の人間が民族の大切なものを冒涜する行為を平気でしていることです。昭和天皇陛下のご真影を焼き、踏みにじる行為を芸術と称して、その先に民族の将来につながる行為だと信じている人間がいることです。さらに、他の展示品は大戦中に国を守るために命を落としていった先人を、辱める展示品にすることが、民族の良心を受け継ぐことにつながるのでしょうか。国づくりに命をささげた英霊を、侮辱する展示を同胞がして、その子孫に健全な良心が宿るとは思いません。民族の良識で意見を言うことができない空間そのものが、日本社会が壊れている証でもあります。

 愛知県は、日本を代表する大都市であります。その知事が、責任転嫁するような会見や公費を使って「表現の自由」と言っていますが、住民の分断化や先人の英知を否定する行為を首長自らしていることに対して、日本人は良識を取り戻さなくてはいけないと思います。保守とかリベラルという枠で括るのではなく、「人類の英知はどこにあるのか」この観点からみれば、民族のデリケートな部分を安易に否定し無作為に誹謗することはできません。ことの本質を取り上げるべきです。
 「不自由展」に賛同した人間は、大学の教授や知識人が多く、言論でメシを食べてきたプロの人たちだと聞きます。その人たちの根幹にある、思考や民族としての問題をどのように捉えているのか、多くの人は知る必要があると思います。いまの日本社会の大きな闇は、このような言論空間が支配して、公金を使って得体の知れない知識人を国民が支えていることであります。
 更に最悪な事態は、今回のような展示会を否定や反論する人々を、「ヘイトスピーチ」とか「言論弾圧」という言葉で片付けてしまい、まっとうな意見が抹消されてしまうことです。民族の良識や人類の知恵で意見しても、意見を封殺されてしまっている社会こそが恐ろしい社会になっています。

 民族としての「正当性」がないことは、朝鮮学校の無償化裁判にもつながっています。「あいちトリエンナーレ」の問題にせよ、「朝鮮学校の無償化裁判」も根底のところは同じところで繋がっています。それは、民族観(民族の文化・文明・歴史観)が無くなると、「表現の自由」とか「平等社会」ということばかりに比重をおいて、国づくりの根幹がわからなくなってしまうことであります。本来の教育の無償化は、日本人が日本語を学び社会の中で、次世代にどう英知と知恵をつなげていくのか、それを学ぶ場が学校であり教育であります。他民族の文化の継承を、日本の国税を使って他民族の教育の無償化をすること自体が、日本人のなす行為ではありません。裏を返すと、日本の税金で他民族の教育を支えることは、日本人自ら民族の独立を奪っていることにつながっています。民族を尊重するという立場からも、国費を入れることはあり得ません。「朝鮮学校の無償化」を訴えている人たちは、「民族と独立」や「民族の自由」の概念がはっきりとわかっていない証です。
 カナダやアメリカにおいては、日本人の子が日本語学校に通うのであれば、これはプライベートの教育になります。カナダで生きる場を国が保証するのは、カナダの言葉や基礎学力をつけるのが国家の役目であります。(カナダにおいては、英語圏とフランス語圏があるので、英語で教育をする場所とフランス語で教育をする場所がわかれている。)国家が、保証することは居住している子供たち(駐在員の子や移民の子)に、平等にそこの国(カナダやアメリカ)の教育を受ける権利を保障することであります。他国の民族の教育を、カナダが保障することではありません。
 もし、異文化の教育にカナダ政府が100%国税を使った場合。その民族は、「民族の教育」をカナダに売ったことになります。カナダ政府が出来ることは、NPOや学校法人として減税をすることや建物に数%の補助金を出すことで、他民族を尊重しながら「民族の教育」をサポートすることが、多民族が共存していく知恵であります。カナダでの日本語学校は、NPOの団体にあたり現地の日系人が学校を支えるために、いろいろと活動をして資金を集めて運営をしています。これは、どの民族も当たり前のこととして、同胞が次世代の子供たちの教育を守っています。

 今日の日本社会は、間違った民族の尊厳(民主主義)の上に立っていると思います。そして、日本人の弱点は、「何が平等」で「何が権利」なのかがわかっていないことです。「子供にも教育を受ける権利がある」という文言をだされると、「朝鮮学校の無償化」という理不尽なものでも受け入れる体質になってしまっていることです。オールドメディアは、「朝鮮学校の無償化」という言葉を使っていますが、正確な言葉を使い言論空間のまやかしはやめるべきです。「朝鮮学校の無償化」は、他民族の教育に100%出資することであり、「日本国民の税金の贈与」と明言するべきです。このように言葉を明確にすることによって、「朝鮮学校の無償化」を唱えていた人たちも自分たちを恥と思い、大きな声で言わなくなるでしょう。
 仮に、カナダで同じような裁判をした場合、棄却されることは当たり前のことです。棄却された後に、「民族の差別」とか「ヘイト」とか「自分たちの権利が保障されていない」と言ったときには、民族間の亀裂が起こり、カナダ社会から締め出しがはじまります。自らの手で、民族の差別化を作り、特定の民族として優遇としろとカナダ人に言っていることと同じだからです。
 民族の問題はデリケートであり、民族の自由や表現は、時には他民族の生存に影響することを理解しなくてはいけません。いま、日本の中では民族の概念がなくなり、民族間の均衡のガイドラインが薄れています。これは、すごく恐ろしいことで、いまの状態を続けていけば、次世代の日本人は民族の闇に入り、他民族に対する憎悪が精神を支配するでしょう。次におこることは、民族間の対立であり他民族の排斥や殺戮がおこります。それを避ける意味でも、「いまの世代は何が出来るのか?」それが問われています。

 敗戦後の日本は、民族の概念を無味乾燥にしてしまい、民族間の隙間をマネーで埋めてきました。民族間にある隙間に闇が入り込み、民族の正当性が壊れ憎悪と憎しみを生む装置を日本人自ら作ってしまいました。いまは、その装置は小さいが、やがて年月と共に巨大化して、民族の闇に呑み込まれていきます。もう一度、日本は伝統と文化を取り戻し、民族の知恵を呼び起こさなくてはいけません。「あいちトリエンナーレ」にせよ「朝鮮学校の教育の無償化」にせよ、いま日本にある議論では、本当の解決にはつながりません。大きな問題は、日本人が葬ってしまった「民族という精神」なのです。
 それを取り戻さない限り、民族の弱体化はどんどん進行していきます。この国の民族の弱体化を、他民族は伺っています。少しでも脇の甘さを見せれば、他民族は隙間に入り込み日本の国を分断化して、国を亡ぼすでしょう。日本人は、自ら隙間を作って民族の闇を入れてきました。これは、民族の存亡にも関わる行為です。日本には、多くの財産(お金だけでなく、精神や文化的な資産)がありますが、何が財産なのかわからないで、今日まで来てしまいました。民族観を失ったときに「何が財産」なのかも見失って、守ることをして来ませんでした。残念ながら、その価値を誰よりも知っているのは、他民族の人たちで、それをしたたかに狙っています。
 「民族の精神」を取り戻すことは、保守になるということではありません。文化と歴史を取り戻し、民族の知恵を取り戻すことであります。日本人は、民族観を取り戻すことによって国づくりの防御になり、どこに民族のポテンシャルがあるのかも知ることにもつながります。実は、その秘めた宝を持っているのは日本人なのです。