ホンコンから学ぶもの(後半)

 今回の香港のデモは、日本に考える大きなきっかけを作ってくれたと思っています。5つの見出しに分けて、いまの日本社会問題と香港人の生き方から見た日本の姿を書いていこうと思います。

■ 家族のあり方(核家族の弊害)
■ 家族内での資産運用
■ グローバルの意味(学校教育の弊害)
■ 団塊の世代の民主主義と平和運動
■ 住民自治からの侵略

 
家族のあり方:

 いま、日本がかかえる大きな問題は8050の問題も含めて、かつて日本が持っていた家族文化を壊してしまったことです。家族をどのように危機から守るのか? 子供たちが成人になったら、どのようにして経済的に自立をして家族と育むのか。この根幹が、いまの日本社会には無くなってしまいました。ただ単に、学歴だけを付けさせ、学業と仕事の関係をつなげない社会システムを作ってしまいました。高学歴信仰と核家族は、8050問題を作り家族を分断化させました。
 香港問題をみると、8050問題は裏と表の関係でつながっていることがわかります。日本社会の世代間の分断化は、家族の中からはじまりました。それは、民族の生命の知恵を断絶してしまいました。学歴社会は、学業と仕事をどうリンクさせない家庭教育からはじまり、経済的な自立をさせない人間を育成してきました。そして、敗戦後の平等主義と全体主義が、その無能な人間にも権利を与え家族で保護してきた結果、得体のしれない家族ができてしまいました。働ける能力があるにも関わらず、家庭に引きこもって80歳の親から生活を守ってもらうという子の姿は、滑稽にしか映りません。そんなことをしている人は、世界の中でも日本人しかいないでしょう。外国の人と話して、そんなことを聞いたことはありません。
 Vancouverに住んでいると、香港の老人と若い子が歩く姿をよく目にします。他国の文化・言葉が違う中で、老人が住みづらいことを理解しながら、孫が自分たちの祖父母を大切にすることをしています。病院に行くと、高校生ぐらいの子が祖母と一緒に来て医者からの通訳をしている姿を目にします。薬局でも祖父祖母の通訳をしている、高校生や中学生を見かけます。家族の責任をどのように、持って生きるのか? いろいろな障害をどのようにして、家族で乗り越えていくのか。いまの日本社会のかかえる問題は、家族社会の分断化と「成人になっても自立をさせないシステムを作ってしまったこと」これが、8050問題につながっています。香港の若い人たちは、自分たちの先人を敬い。先人たちは、若者たちを育む家族のかたちがあります。かつての日本は、その文化を大切にしてきた民族でした。敗戦後の日本は、個人の自由を謳歌し物質的な豊さと見栄と体裁だけを重視してきました。そこには、自由と責任の振り子を持たない大人を大量につくってしまいました。その結果として、与えられたものでしか生活ができない「人の動物園化」に日本社会がなってしまった。小さいうちから、家族の責任と育みを軽視して、先人からの知恵の継承を拒んできた結果であります。世代間の分断化(祖父母・親・孫)は、民族を弱体化し国力を落としていることにもつながっています。いまの日本人は、気づかないうちに民族としての弱体化がはじまっています。本来、日本人は先人の知恵を受け継ぐ文化からはじまり、圧倒的な民度の高さを誇っていました。しかし、それは過去の話しであり、若者の弱体化は国外に出ると明確にそれはわかります。

 
家族内での資産運用

 この問題は、家庭と学校教育の学歴信仰とサラリーマン信仰が大きな弊害になっています。敗戦後の日本は、高学歴と一流企業のサラリーマンにするモデルが教育の一貫として、子供に投資をしてきました。大学まで行けない子は、学生ローンまで組んで多額の借金をして、サラリーマンになることが正しい生き方と信じて今日まできました。そして、サラリーマンになれば会社が人生と経済的な補償をしてくれると誰もが信じこんできました。日本経済・社会の柱が、それであったことは間違いありません。
 本来、人の生き方は学歴や会社がメシを食わせてくれるわけではありません。(今の会社システムは、生産性のない無能な社員を在籍させなくてはいけない。それによって、労働者個人も自分の無能さを気付いていない。)「何を仕事にするのか?」がはじめにあり。そのための学業への投資と自分の技術をどうお金に換えていくのか、この発想が日本人には欠けています。香港の人たちと話していると、子供が将来の目的を持たないで大学に行かせることはしません。自分の子に、大学に行く費用の価値がなければ違う道を歩ませます。前回の例ではないが、オーストラリアに行った次男は、学業は苦手ではじめから料理の世界で勝負する覚悟を決めていました。無駄な時間と体裁に投資をしません。ただし、彼が事業を立ち上げたときは、投資をして家族の資産を運用するという発想で資金提供をします。日本のように、能力のない息子に店を与え、無駄な投資をすることはしません。その根幹にある考えは、「家族の資産をどのように守るか」ここが、原点になっています。
 Vancouverに来ている、日本の留学生やワーホリを見ていると無駄な時間と投資をしています。「自分探しと言い」ながら、目的のない留学(投資)をしています。
 英語を身につければ、いい仕事に就けるという幻想は捨てるべきです。まずは、「何を仕事にするのか。」「その技術で、どう経済活動させるのか。」家族教育の中で訓練させる必要があります。20歳過ぎてからの時間は、タダではありません。技術を身につけるときに、時間と費用をどれだけかけるのか、時空間を作る頭にする必要があります。教育費用や事業投資は、原資の回収まで含めた教育をしていかなくてはいけないと思っています。
 敗戦後直後は、貧困から抜け出したいという日本人は、経済的な自立から人生観をつくっていました。「もったいない」とか「食べ物を粗末にしない」とか「家族にいい生活をさせたい」という原点が、生活にリアリズムがありました。いまは、モノが豊かになり貧困の苦しみを味わう機会はなくなりました。いまの家庭教育は、昭和の貧困をベースにした教育では、限界があると思っています。香港の人たちの様に、次世代に命をつなげるという視点から、お金と時間のフローの話しを家庭教育の中で訓練する必要があると思っています。家族の資産をどう守り子孫につなげていくのか。家庭教育としてキャッシュ・フローの勉強をさせるべきです。これは、守銭奴と拝金主義の学習ではなく、社会とのつながる道具としてのキャッシュの使い方の勉強であり、自分たちの子孫を残すためのひとつのツールであります。華僑やユダヤ人は、血縁や民族を守るために仕事と家族とお金の関係をシビアに、リンクさせながら子供たちに伝えています。学歴信仰と企業信仰から、将来設計や学業投資をするのではなく。戦前や戦後直後にあった、家族の中で守るものと投資するものを目利きできる思考を取り戻さなくてはいけないと思っています。

 
グローバルの意味(学校教育の弊害)

 最近は、やたらと高校や大学を見ていると専門学部で「国際~」という得体のしれない文字を目にします。ホントに学業として教えている人たちが、国際情勢やグローバル化を理解して教鞭をとっているのか? 疑問に思うときがあります。中途半端な国際協調と国際平等主義は、まったく意味を持たないグローバル教育です。その教育を受けた子どもは、将来の日本人を間違った方向に進ますだけで、決して国際社会で役立つ人材にはなりません。今回の香港の人たちから学ぶことは多いです。机上の理論だけでなく、日常生活の中から学び、自分の人生と現実を一致させながらリアリズムの中で考える思考になっています。前回の例ではないが、彼らは必然的に世界情勢と自分たちの生活をリンクしながら実生活をしています。それは、いまの日本の学校教育と家庭教育のグローバルリズムとはまったく違います。リアリティのないところに、自分たちの人生のストーリーを描くことは出来ません。いまのように、情報が過多になり真実がどこにあるのか解らない時代で、知識と情報を詰め込むことがグローバル社会教育は時間とお金の無駄でしかありません。本来は、国際社会だろうが日常社会であろうが、自分との危機管理とリアリズムの関係で、「どう難局を個人の人間力の力で解決していくか」であります。それは、体感の中から考える知恵であり、異文化の中で対極はどこにあるのかを瞬時に洞察する力です。今回の香港の人たちから学ぶグローバル社会は、「中国共産党の覇権とどう距離を取りながら共存し、自分たちの自由をどう確保するか。」この対極を立体的に作り、些細な事件も見逃さなく体感の中で危機管理とリアリズムを捉えていたことです。
 かつての日本人は、グローバル社会を学業としてではなくリアリズムの中で作っていった人たちがいました。移民で海外に出た一世や二世の日系人です。彼らは、言葉がしゃべれなくても技術と知恵で、差別と困難と脅威の危機管理の中で生活をしていました。「生きるということ」「日本人であること」を柱に置き異国の町で、生活をしていた過去があります。これこそが、体感の中で考えるリアリズムです。情報をグローバル社会で学んだとしても、ひとつの知識でしかありません。情報や知識は、机上のもので生きる知恵には結びつかないと思っています。本来のグローバルに生きるということは、異文化をどう日本人の知恵で生きるのかということであり、先人の日本人は崇高な知恵と見識を持っていました。香港の人たちのデモや危機管理は、「グローバル社会でどのようにいきていくのか?」これが知恵であります。その原点に戻ることを、香港の人たちは教えてくれています。

 
団塊の世代の民主主義と平和運動

 敗戦後の日本は、WGIPによって「民主主義」と「平和主義」が国を守る発想からなっていないことが、今回の香港デモを見てもよく解ります。日本の政権が、軍備増強や国防を口にすると団塊の世代を中心にした平和運動家やメディアは、一生懸命に政権批判と平和運動をしてきました。しかし、今回の香港デモで彼らは何の行動をしたのか? すくなくとも、中国大使館・領事館の前で「民主主義のデモ行進」をしたという記事は目にしていません。これだけ、民主主義が壊れようとしている瞬間に、メディアを含め政治でメシを食べている人たちの姿が見えないのは不思議でなりません。政治家をはじめ日本人の姿勢をうち出さないのは、日本の民主主義の破たんをもの語っています。
 先日、香港から来ているお客さんと話したときに、いまの香港情勢を聞きました。
 その人の話し曰く、「あくまでも香港は、ステップでしかない。本来、中国政府の狙いは台湾である。この条例さえ通れば、中国政府を否定する連中を本土に連れていき行方不明にしてしまえばいい。どうやって、自由主義圏を占領すればいいのか? そして、世界の批判を受けずにどう効率よく条例を通すのか探っている。そのモデルができれば、台湾にも同じことをするだけで、香港は実験的にしているだけ。」
 ちょっと外国にでれば、生の声を聞くことができるのに、メディアを含めた専門家は何をしているのでしょうか。いま、目の前で侵略が始まろとしている現状の中で、「平等」や「平和」に敏感な平和運動家たちは、何を危機管理の基準にモノをみているのか? 香港の人たちは、これだけ中国共産党の覇権に脅威を抱いているにも関わらず、それを日本の平和運動家が共有できない思考そのものに彼らのロジックは破綻しています。いかに、日本の平和運動家たちはリアリズムから乖離した運動だったのか。それは、日本のメディアと政治家にも同じことが言えます。日本人が唱える、「民主主義」を考えるきっかけになっています。

 
住民自治からの侵略

 数カ月前に、北海道の出身者と話す機会がありました。そこで、地元の話しになり,北海道で起こっている現状の話しを聞きました。彼の実家は札幌で、祖父母たちはニセコに住んでいて、よくそちらの方に遊びにいくとのことだったので、いまのニセコの状況を聞きました。北海道のニセコは、数年前からVancouverの人も多くいく場所で有名になっていました。「Vancouverから日本にスキーに行く」と言うと、ほとんどの人がニセコと言っていたので、気になる場所ではありました。その場所に、近年は中国人やオーストラリア人などが多く住んでいて、外国人による土地買収がはじまり、日本の住民が少なくなっていると話していました。いま日本の地方は、北海道から沖縄まで中国資本が入り、土地買収と中国人が流入してきていると聞きます。
 Vancouverもそうですが、チャイナ資本が入ると地元の経済とはまったく違う経済になり、大きな社会問題になっています。これも一例ですが、地元で生まれ育った子が地価の高騰で、住むことができず地元を離れていく現状になっています。一生懸命働いても住まいを買うことすら出来ず、物価上昇によって普通の生活ができない状況にカナダ政府は、やっと外国人の土地買収のルールと固定資産税の見直し改正がされました。(他人に賃貸または投資目的で家を買収した場合には、高額な固定資産税をかける法律がスタートしました。)Vancouverの高級住宅地のほとんどが、中国人によって買われている現状があります。
 いま、西海岸で起きているチャイナマネーによる弊害は、地元の生活や地域文化を壊し始めています。日本でも、地方の小さな町や都会の一角でチャイナタウン化が始まっていると聞きますが、果たして地元の人たちと彼らは折り合いをつけて、共存することができるのでしょうか? カナダは、移民の国から成り立っているので、外国人に対しての対応は日本より進んでいます。それでも、近年の中国人の行動にはカナダ政府も頭を抱えています。彼らは、先住民をリスペクトしながら共存生活はしません。中国の歴史を見ればわかるように、自分たちが所有したものは、彼らの価値で町を作っていきます。
 チャイナタウン化した町が、地方行政や住民自治で日本人の生活を守ることができるのでしょうか。いまの日本は、文化の違う人たちが入った時に、どう文化の対極を作って距離を取っていくのか、政治家・学者を含めて明確な方法をもっていないと思います。話し合いや会合で理解してもらえる人種ではありません。民族の価値観のぶつかり合いは、ときには他民族にとって不条理な強制もするときがあります。日本人が、日本の財産を守るために他人種や他民族を排除することができるのでしょうか。国家としての解決策を持たないと、強い民族に淘汰されてしまいます。
 この問題は、もっと深刻に考える時期に来ていると思っています。ある地区では、他民族が日本の住民より増え、その地域は外国のようになっていると聞きます。それを長年続けていくと、日本の伝統や文化の生活空間はその地区には無くなってしまい、その民族に占領された町になってしまいます。日本の慣習や習慣が通じない社会は、居住する日本人のストレスにつながり、民族間の対立は憎悪や嫌悪にもつながっていきます。
 それに、一度チャイナタウンになったところは、日本人の手に戻ってくることはありません。中国人同士で土地を売買し、徐々に縄張りを広げて、いつしか日本人の手の出せない経済圏ができあがるでしょう。日本国内に、治外法権の場所が突如として表れることになります。香港の人たちから学ぶことは、生活文化や政治体制が違う民族と共存するということは、対極と距離を注視しながら自分たちの自治と治安をどう守るかということであり、香港の問題は数年後には日本の問題になっていきます。正当な法の下で、他民族に土地が渡ったときに、住民自治も取られることはないのか? 新たな民族の侵略がはじまっていると思っています。昭和までの侵略は、武器を持った兵隊が領土を侵すことでした。いまは、普通の中国人が住みつき人口が増えていき、日本人には馴染めない生活習慣を定着させ日本人に自治をさせないという侵略です。あたらしい領土支配の方式が日本にも上陸していることに気づかなくてはいけません。いまの日本の政治家を含め、解決策を持っている人はいません。今回の香港デモから学ぶものは、隣の家のことでなく自分たちのことでもあります。

 
 令和は、平成とは違う世界情勢になったと見ています。「武器を持つと戦争がはじまる」とか、「話し合いで解決する」とか「みんな手を取りあって仲良くする」という思考構造が、日本という国を歪んだものにしてしまいました。家族から職場までの社会構造が壊れてしまい、令和の時代には継承されない思考構造であることは間違いありません。もう一度、香港の人たちの生き方を見ながら、敗戦後の日本の家族・教育・仕事・社会を見直す時期にきていると思っています。小さな社会単位の家族のかたちから、危機管理とリアリズムを原点にした人間力と洞察力の育成からだと思っています。スタートは、家族の責任からはじまり。年齢とともに、社会責任を持つことによって、若年者の人間力と突破力が上がることで、民族の弱体化が止まると思っています。リアリズムと責任の思考を社会にコミットするだけで、新たな日本のかたちが見えてきます。それが、令和の「日本の国づくり」につながっていくと思っています。