「日本文化の逆襲Ⅱ」

―北米概論―

 北米(アメリカ・カナダ)は、一応、先進国としての社会構造になっていると思うが、日本人が想い描いているほど進歩した社会にはなっていない。文明社会の根幹である、モノ作りの立場から社会からみると北米の真の姿が見えてくる。北米のモノ作りは、日本のモノ作りとはまったく違う考えで成り立っている。大きなスケールで「もの」を作ることが絶対的な前提なので、基本的には中小零細企業で「ものづくり」をしていくという発想がない。国土が広いこともあり、配送コストや企画を統一にすることによって、大量生産を主眼にした開発や生産に力点が置かれ、数をこなすモデルが第一にある。販売店も「Safe Way」「Whole Foods」「Costco」「Walmart」など代表されるように、どこも大型店で駐車場を完備した大量消費のモデルで設計されている。消費者も車で行き大量購入するので、日本のように少量を毎日購入する生活スタイルにはなっていない。そして商品は、全国ほぼ同じもので、大量生産でつくられている。セレブで有名な「Whole Foods」は、オーガニックを専門に扱っている店だが、はじめから大量消費の物流システムから成り立っている。日本にいると、有機食品は大量に消費出来ないので、取引量も限られた数でしか仕入れができない。しかし、北米のモデルは、大量仕入れと大量販売をするシステムからなっているので、オーガニックの商品であろうが普通の商品であろうが、前提はそこからスタートをしている。地域密着型の中小規模の店舗はほとんどなく、地方の特産品やご当地グルメの商品はほとんどない。
 それは、建築系の量販店「Home Depot」にいたっても同じ構造になっている。生産工程から、物流にいたるまですべてが単純なシステムになっているので、どこに行っても同じ品ぞろえでしかない。社会構造そのものが、生産者主導の消費社会になっているので、西海岸で売っているモノも東海岸で売っているモノも、ほとんど変わらない。それは、ショッピングモールにいたるまで構造は同じになっている。北米どこに行っても、大企業の店舗しか入っていない。それだけ、大手の独占の中で店が作られているのか。選ぶ楽しみもなければ、大手の企画の商品の中からしか選ぶことができない。



 大量生産をするもう1つの理由がある。それは、生産する側も多民族からなっているので、いろいろな人種が働きやすくする合理的なシステムなっている。企画を単純化して、どの民族も理解できるマニュアルにしてある。手作業の作業を極力減らし、オートメイション化された機械で製造することで、品質の均一性を保ち、大量生産できるシステムを作っている。大量仕入れをしてコストを抑え、初期投資に重きをおき、ランニングコストを抑えるモデルは、食品にはじまり日用品・建築資材にいたるまで、すべてのモノが単純な統一規格にされている。はじめから、複雑な加工や高い技術を求めない生産ラインになっている。消費する側も、いろんな国から来ている多民族社会なので、食品も日用雑貨品も誰でも使えるモノで、複雑なモノを必要としていない。すべてにおいて、平たいモノ社会から出来ている。商品の個性や特殊性を取っ払い「大量消費の製品を作ること」に特化して、日本のようなきめ細かな差別化をしないモノ社会になっている。
 歴史がないということは、凹凸や個性を主体としたモノを作ることがない。いろんな言葉を使って多文化社会に見えるが、実は合理性と均一性という経済重視の平均値で社会構成ができている。そして、オリジナルの言語を持っていない社会は、自然発生的な文化を持つことはできにくい。共通言語を英語にしているが、伝達機能と社会を合理的にまわすコミュニケーションツールなので、日本のように言語基盤から生まれる自然発生的な文化はそこにはない。国として全体がまとまるときは、星条旗やメイプルリーフ旗に対してであって、地域文化や歴史から国がまとまることはない。(文化や民族の歴史がないことは、国家の弱さにもつながる。)北米の共通している価値観は,「ビジネス」として成功した人間に対しての尊敬は非常に強く、マネーをどれだけ稼げたのかが、社会から認められる要素の中心になっている。
 
 実は、この原点から日本人が北米とどう向き合っていくか、多人種と日本人の気質の違いを知ることで、本当の意味でのグローバル社会で生きていく方法を見いだせる。大量生産と大量消費の柱になっている社会は、すべてが大雑把なモノ社会になっている。日本のように、文化の奥行さと歴史の中から生まれた生活の知恵(文明)から「モノ作り社会」で成り立っていない。そして、もう1つの北米の特徴は、民族によって既得権益がはっきりしていことである。これは、日本から見ると、なかなか理解できない民族間の熾烈な縄張り争いがある。戦前の先人たちは、敏感に民族間の「間」を読むことができていた。しかし、敗戦後の日本は「民族」という概念を捨ててしまい。憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」民族間の隔たりをないものとして国づくりをしてきた。日本人が、民族の空間デザインが出来ない背景は、憲法にはじまる教育からきている。
 民族を単純に区分して話すことはできないが、大きな概略で触れたい。ユダヤ人は、人口が少ないうえに国を追われてきた過去があるので、どのように民族を守るか現実的にとらえている。彼らが既得権益として着眼したのが、金融とエンターテイメント(ハリウッド・音楽業界)である。数が少なくても、発言権と権威を強くする最大の方法を、情報操作と金融業界で北米に絶大な力で支配してきた。ヨーロッパの民族の中でも特殊な人種である。他の白人社会と相いれないユダヤ村を作り、他人種とは大きな隔たりをつくっている。アングロサクソンは、政界とメディアと不動産を牛耳り、自分たちが社会を回していると本当に信じている。イタリア人は、マフィアのアンダーマネーを上手く使い、レストランとイタリア食品の卸し業を中心にイタリアン・コミュニティーを作ってきた。中国人は、中華街を作り自分たちの社会で完結できる社会システムを作って、白人社会に対抗してきた。日本から見ているほど、民族と国家の関係は単純ではない。(民族によって<ユダヤ人やイスラム教徒>は、国境をまたにかけて生活をしているので、国という単位で一括りにはできない。日本のように、国と民族がほぼ1つという国体はない。)

 私は、北米は屋台国家として見ています。日本の祭りどきに、神社に屋台を出して商売するように、各民族の既得権益(お金を稼ぐツールである屋台)で商売をしているのが北米(アメリカ・カナダとする)の国体です。民族の既得権益をどのように守り、他民族に取られないようにするのか。一国の中で、熾烈に縄張り争いとマネーの奪い合いをして、共存しているのが実態の姿です。北米の法律(アメリカとカナダと限定する)は、「マネーの権利(既得権)がどこにあるのか」ここから社会の構造がはじまっている。

 第二次大戦以降は、北米の日系社会は壊滅においやられてしまった。それには、いくつかの理由がある。一番大きいのは、民族としての誇りを捨てたことである。そのなかで、どのように日系村をつくり民族として復活していくのか。それは、「技術と勤労という精神」を武器にして他民族と戦うことだと思っています。いま、日本人自身が忘れている「繊細」「器用」「勤勉」という、本来の自分たちの精神を能力にすることによって、日本人の力を蘇らすことだと思っています。北米の最大の欠如している社会構造は、凹凸のモノや奥行きのある文化やサービスが少ないことです。日本は、長い歴史の中から作り上げた文化と文明があります。これこそが、日本人の既得権益であり他民族と肩を並べて堂々と勝負できるツールだと思っています。長い年月を経て出来上がった、モノ作り文化と職人文化は世界を圧倒させる力を持っています。これは、争い事から生まれた文化でなく日本の精神性から生まれた文化です。

 いまだからこそ、グランドデザインをして海外に進出していくべきである。単一商品や職人一人が海外に進出しても、投資額と時間が膨大になり個人では太刀打ちできない。戦略的に技術とサービスをどのように海外に進出していくのか? 闇雲に進出しても、カントリーリスクや民族間の縄張り争いにのみ込まれて、根付く前に淘汰されてしまう。こんにちの日本は、世界中で技術と資本を取られ、たかられている現実がある。「カネになる木」は、敏感に察知して奪うというのは、他人種の常套手段である。世界の常識は、人のモノを奪う罪よりも、取られる側の責任こそ大きい。世界は、性善説でなっていないことに気づくべきである。いまの日本人は、防御しながら前に進むことが苦手になってしまったように思う。

 一例であるが、「和包丁がどのように世界進出したか」を知ることで、日本人の民族としての弱点が見えてくる。近年は、和包丁が海外でうけいれられ、伝統文化が世界に出て行った成功例として取り上げているが、本当に日本人の利益になっているか? テレビ番組やニュースでは、大成功の1例として伝えているが、実状はすごく疑問である。物流という観点から見れば、10年前よりは和包丁が売れているのは事実です。しかし、国益というレベルで見ると、現状はそうではありません。
 この話しをする前に、日本の包丁業界の30年を振り返りながら話そうと思います。そもそも、日本の和包丁離れは20数年前からおきていました。家庭でも中国産の安い包丁を使い、包丁に興味を示さない時代をむかえました。若い世代は、調理をするにも調理ハサミを使い。コンビニやスーパーなどに行けば、簡単にお惣菜が安価で購入できる時代背景から、包丁を持たない世代がどんどん増えていきました。料理をしないければ、包丁に興味も示しません。それは、プロの業界でも同じ現象になり、料理学校で包丁は揃えるが、プロに成っていい包丁を新調する若い人はでない状況がずっと続いていました。その結果、包丁業界は若者の包丁離れが深刻になり斜陽産業に追い込まれました。そこに、2008年のリーマンショックが起こり、景気低迷と包丁離れがさらに起こり、退職や廃業する職人さんたちが多くでました。先行き不透明であるのと高齢という理由から。
 それから、しばらく和包丁が売れない時期が続きました。メーカーによっては、国の補助金で経営をつないだ企業もありました。包丁業界は、日本の景気回復を待ち望み、回復によって包丁の物流が始まると誰もが信じていました。しかし、実態は全く違うものでした。2011年前後から和包丁は、国内需要が伸び悩む中、海外でバカ売れする時代が到来しました。それも自然発生的なかたちで、日本の包丁業界が自ら起こした波でなく、海外の人たちによって日本の包丁の良さを見出され和包丁ブームに繋がっていきました。この大きな波が来る前に、数人の日本人は海外で和包丁を販売していましたが、そこが大きな起爆剤になったわけではありません。その後は、外国人サプライヤーによって包丁市場は目茶目茶にされていきました。どのような、物流になっているのかを具体的にみると。
 まずは、各国のサプライヤーから商社に、和包丁の物流依頼が入ります。現地のサプライヤーは、他人種(アメリカ人や中国人 etc.)で、ほとんどが日本人ではない。商社は、職人から安価な価格で仕入れて、各国に、落下傘のようにバラマキ、販売をしました。もう1つのパターンは、外国人が直接地方のメーカーに買い付けに来て、よく理解しないまま取引をしているパターンです。ほとんどの製造元は、どのように販売し(ネット販売か店舗販売か卸し業で売っているのか、まったく理解していない。)、いくらで小売りにしているかも、まったく関知せず取引をしていきました。メーカーによっては、どこの街で販売されて、どのような物流になっているのか、まったく知るよしもなしに海外に輸出だけをしてきた。これは、恐ろしいことで問題が現地で起これば、PL法が適用されて輸入元に責任が取れなければ、製造元にその責任はいく。その認識もなければ、危機管理がまったくなっていない。それに、現地での注文が止まれば、商社やサプライヤーはメーカーとの取引を打ち切られ、それで終えてしまう。売れている理由もわからなければ、取引が止まってしまったことに対して理由を探ることも出来ない。もし、製造元が現地での調査やブランディングをしていれば、他の方法で将来方向をつけることだって出来る。商社依存や外国人サプライヤーの物流は、現地の生の声を正確に聞くことができない。それに、外国人に販売権を握られると、日本サイドの発言権がなくなる。 
 これもひとつの例だが、取引量が少ないうえに卸値を安価で契約され、製造元の希望価格よりも安く販売されている現状(貿易にもかかわらず、日本の価格より安く売っているモノもある。)に何も対処ができない。
他人種に販売権が持たれ、製造元がクレームを上げても主導権は輸入元にあり製造元は何も出来ない。さらに恐ろしいことは、契約期間中に製造元が他社に販売をかえるものならば、契約違反で訴えられて法外の賠償を請求させられる。いまだに日本の製造元は、アンフェア―な取引をしいられ、海外において自社のブランドを守っていない。日本のメーカーの弱点は、英語で話されたりすると内弁慶になり外国のお客に必要以上に媚びる傾向がある。その意識から脱却して、外国人だろうが毅然たる態度で公平な取引をするべきである。(これは、包丁業界の話しだけでなく、他の製品もこのような物流になっている。追々に、他の業界の話しもしていきます。)
 和包丁は、日本の文化であり日本人のれっきとした既得権である。それを外国人に販売権を渡すということは、和包丁の文化を手放すことにつながり、民族を弱体させている要因にもなっている。本来は、輸出入から現地の販売・メンテナンスをすべて日本人でするシステムを作るべきである。卸値で販売することは、本来の利益の半分にしかならず。利益が一番大きい権利を、他人種に持っていかれている現状になっている。日本の包丁業界は、2008年の不景気においては国の国策(伝統文化を絶やさないという理由から包丁業界を支援してきた。)として、税金で包丁業界を堅持してきた。国内需要であれば、日本人に還元され税金投与も理解できるが、近年はほとんど販売が海外である。なんのために税金で、海外の人たちに還元して、外国人に利益を渡しているのか。マクロ経済から見直すと同時に、官民のあり方をゼロベースで考え直す時期に来ている。

 そろそろ日本人は、自分たちのモノ作り文化に対して誇りを持つべきである。それに、製造元が自社で海外でのブランディングとグランドデザインをして、商社や外国人に依存するのではなく日本人の手で海外に進出するべきである。現地調査から販売促進をするシステムをつくることで、日本人の雇用と給料のデフレを止めることにもなる。そして、これからの市場を国内の1億2000万から北米の3億という市場に移し需要拡大すべきである。国内需要は、円熟した社会でモノが売れる社会ではない。60~90年の高度成長期やバブル期は、モノの消費で経済成長と幸福度が一致する社会構造になっていたが、その到来はない。しかし、北米に市場に移すことで、日本の斜陽産業になっていたモノ作り文化が復活することができる。そして、北米は世界につながるアンテナショップの役割を持っている。「世界につながる」という点から見れば、日本から発信するのと北米発信からは影響力は全く違う。多民族国家である利点は、世界に発信する力は日本の比ではない。コストから考えても浸透する時間を考えても、断然に低コストで浸透する時間も早い。
 北米は、モノの価値観に対して大きな変革期に来ています。画一的なモノから、凹凸のモノや奥行きのあるモノを求めています。日本が長い歴史の中で作ってきた文化が、北米で理解できる土壌が出来つつあります。そのことに、日本人は気づくべきである。