「日本文化の逆襲Ⅰ」

―いまこそ中小零細企業は、北米に進出するべき―

 かつては、次世代の巨大市場は中国と言われ、企業は人件費の安い中国に設備投資と生産拠点を移していった。それから四半世紀経ち、当時の希望とはまったく違う結果で終わってしまった。希望があるどころか、通常の経営が出来ないほど、理不尽な法や劣悪な規制で、日本企業の多くは苦しみと戦いの中で経営を強いられた。そして、いま現在も撤退できず苦しんでいる企業がいる。多くの日本人は、中国で技術や情報を奪われ、常識では考えられないかたちで資本も取られ、残りの現金を国外に持ち出すことすらできずにいる。言わば、合法的な略奪が現在も起きている。日本国内にいると、間接的にしか知ることしかできず、ほとんどの日本人は、その実態を現実のものとして受けとめていない。そろそろ日本人は、「外貨を獲得すること」と「貿易をすること」を別けてみる時期にきている。

 話しは、1985年。プラザ合意以降、日本国内では労働賃金や資材の高騰がはじまり、中小企業は採算の合わない状況になっていった。大企業の締め付けもあり、国内での経営はさらに圧迫した。そこに、安い人件費と安い設備投資を看板に挙げていた中国に魅了され、多くの企業が新天地を求めて移転していった。国際感覚もなければカントリーリスクも知らない経営者は、文化人(大学教授・評論家)や代議士それに国の外郭団体(ジェトロなど)に先導され、言われるがまま進出した。誰しもが、明るい未来があると信じ、次世代の日本経済の将来があると思っていた。しかし、そこで待っていたのは、過酷な現実しかなかった。多くの経営者は、理不尽な社会システム(技術と資本が、合法的に略奪される社会)に泣き寝入りし、訴える場もなければ、救済するシステムも日本国家は持っていなかった。この問題は、中国だけの問題なのか考える時期に来ている。70~90年代の北米貿易体制から振り返り見直すことで、日本貿易の問題が見え。中国と同じ問題を繰り返していることに気づく。
 敗戦後の日本人は、国家観も無ければ民族観もない中で、世界に進出していった。そして、その大きな柱は拝金主義というビジネスモデルで世界市場を設計してきた。はじめは、北米から日本にお金が流れるモデルで成功し、同じようなモデルで中国に進出していった。その数年後、タイムラグはあるが、決まって米国と中国にからたかられて、日本人が損をする結末で終わっている。いつの時代も被害になるのは、中小・零細の「技術を持った企業」である。この問題は、米国や中国という各国の貿易問題として捉えるのではなく、過去の日本経済が何をしてきたのか、マクロで見なくてはいけない。敗戦後の日本は、大企業が日本経済をけん引し外貨を稼いで、日本を豊かにしてきた。しかし、90年代以降は大企業の利益を優先し、国富を豊かにする社会システムではなくなっていった。その事実を問題にすることすらせずに、日本経済は体制を変えずに、今日まで続けてきた。経団連を中心に、大企業やオールドメディアが事実を隠蔽し、間違った情報の中で日本人を操作してきた。

 60年以降の日本経済は、海外に進出するときに「為替」と「物価の安い場所・安い人件費」を中心にモデルを作ってきた。70年代から90年代前半は、北米市場を中心に大企業がマスプロデュースをして輸出し、外貨を掴んできた。当時は、円安で人件費が安い日本で生産し、北米で販売するモデルが中心であった。そのモデルは、外貨流入によって日本人の所得を上げて、日本のバブル経済につながっていった。モノを作れば作るだけ売れ、商社を先頭に大企業は潤うに潤った。それもあり、北米に多くの企業は、駐在員を置いて各地に支社を作っていった。しかし、ブラザ合意以降円高になり、90年前後からは日本の人件費が北米よりも高くなり、人件費の安いアジア進出が中心になっていった。

 そして、90年前後からの日本経済は、人件費の安い中国で生産して日本で販売する経済モデルにシフトしていった。この体制は、円が海外に出ていき国富が減る構造になってしまった。それを日本人は気づいていなかった。大企業が収益を上げたとしても、国単位でみたときに、国富がしぼんでいく構造を日本人自らの手でつくってしまった。これが、今日の日本経済正体であり、人件費が上がらないおおきな原因にもなっている。大企業が生産拠点をかえることによって、人件費を安くし日本の労働単価はそこに引きずられ、30年近く労働単価が上がっていない。「サイフォンの原理」ではないが、日本の資本が海外に流れることで、国内の人件費を上げることができず、長年に渡り給料のデフレが起きている。いま、その中国では人件費が上がり日本の賃金とは比較にならない状況になっている。水であれ金であれ、流動的なモノが高いところから低いところに流れることは真理である。

 ここから、バンクーバーでの話しを記します。一昔前まで、人件費が安いと言われていた中国では、日本人が思っている以上に、中国の人件費は上がっている。(中国という国を、一国で見ない方がいい。都市部は、地方を奴隷化しているので、都市部にお金が集中する構造になっている。日本国内にいると、その中国の社会構造を理解することは出来ない。中国人の平均収入は、全体のパイが大きいので平均値は落ちてしまう。しかし、都市部には1億5千万人~2億人と言われている人が高収入を得ている。日本の都市部と過疎地の比ではない所得格差が生まれ、日本人が想像する国という概念を越えている。日本の総人口と同じ数の富裕層が、突如隣国に出来たと思った方がいい。)
 先日、バンクーバーで中国人のお客さん(大連出身者で年に数回帰国している)と話したときに、中国の都市部では外食のメニューの価格は高く、日本国内のすし価格(銀座・京都などの高級すし店は除く)では、食べることができないと話していた。毎年、自国に帰り日本にも立ち寄ってバンクーバーにもどるのだが。日本のメニューの安さに驚くと同時に、日本人の人件費の安さにも驚いていた。中国の都市部の料理人は、時給800~1000円では働いていない。
 その彼が私に「いまの日本は、どうなっているの?」と不思議そうに疑問をぶつけてきた。私は答えずにいると。彼は、「日本でレストランビジネスを購入したい」と冗談交じりで話していたが、半分は本音だったと思う。日本で安い人件費と安い材料費で、中国人をターゲットにしたビジネスをすれば、大きなビジネスになることは、彼は確信していた。どれだけ日本の人件費が安くなっているか、日本国内のほとんどの人は理解していない。
 年配の人たちは、「貧乏な中国人」とか「中国は発展途上の国」だから応援してあげるべきだ。と思っている人がいまだにいるが、それは昔の中国で、いまはまったく違う。中国の富裕層は、日本の総人口より多いとされている。そんな彼らは、海外で高級住宅地を買い、高級車を乗り回して異質な経済圏を作っている。その波は、このバンクーバーでも起きていて、日本で観光客の爆買いと騒がれていた4~5年前、ここでは高級住宅地や高級マンションの不動産を買いあさり、バンクーバーそのものが異質な町になってしまった。

 話しを貿易に戻します。90年前後から、北米ではなにが起きたのか? 大企業のアジアに経済基盤を移すことによって、北米から多くの日本企業が撤退をしていった。そして、各地域で日系社会の低迷につながり日系村は空洞になってしまった。
 バンクーバーの例で話すと、バブル当時80~90年代は、駐在員を中心とする日本人が急激に増えて1つの日本村(日系社会)を作っていた。海外に企業が進出することによって、駐在員の生活に付随する不動産、車(販売・修理)、日本食レストランや雑貨屋がいくつもでき、日本人の雇用を生んでいた。そして、日本人経営する店も多かった。日系の経済圏(日本村)は、特需で沸いていた。(バンクーバーの一番の繁華街では、日本人で溢れ「石を投げれば、必ず日本人にあたる」と言われた時代があった。)その経済圏は、日本人を定職・定住させ現地で十分な生活ができた。そして、多くの人が移住して移民になった。その当時は、日本で仕事をするよりか収入はよかった。それに輪をかけて、留学生や観光客も多く来ていたので、学校・旅行業界も沸いていた。しかし、観光客が途絶え駐在員の撤退は、2000年代前後から急激に進み日系社会は疲弊していった。それに加え、留学生の激減も起こり、あっという間に日系村は無くなってしまった。現地で仕事をしていた日本人は職がなくなり、撤退をする人たちが後を絶たなかった。はりぼてのように出来た村は、一瞬に消えてしまい空洞化した経済圏は韓国人と中国人に取って代わった。
 敗戦後の日本は、大企業を中心にした産業構造で日本社会が成り立っていた。その構造は、海外にも及び大企業のキャッシュフローで日系村の存続も左右されていた。バブル時代は、大企業の傘下で日系社会は社会構造をつくり、拝金主義を主体とした日本村だった。しかし、これからは違う形での北米進出の時代が始まったとみています。戦前、北米に渡った日系一世や二世たちは、はりぼてのような日系社会は作ってこなかった。世代が変わっても続き、文化や日本の習慣を大切にした。確固たる日系社会を作っていた。その名残は、「リトル東京」や「日系街」という町である。そんな日系街が、北米各地に存在していた。しかし、残念なことにいまはほとんど無くなってしまった。
 もう一度、日系一世や二世が作っていた社会システムを見習う時期に来ている。彼らは、グローバル社会という言葉が出来る前に、何十年にもわたり他人種と共存し生活基盤を作ってきた。そこに、日本人の英知が隠されていると思う。先人は、十分な資金があるわけでもなく、語学が卓越していたわけでもない状況で生活をしてきた。人種差別と異文化の戦いは、いま以上に過酷で想像を絶する苦難と貧困の生活があったことは間違いない。過去の一世や二世が作ってきた英知が、いまの日本人に大きなヒントを与えてくれる。バンクーバーの歴史書を見ると、日本人の勤労と技術の高さを書いたものが多くあります。(漁師を題材にしたものの中に、日本人が勤労であり漁の技術が高いことで、白人の職業を守る規制や法律ができるぐらいに、日本人の勤労は脅威だった。そして、日本人を働かせないルールを作って、白人の縄張りを守ってきた歴史がある。)ここからひも解くと、苦難や苦境から実利に変えていく不思議な力があった。他人種を迫害するのではなく、仕事で圧倒させ彼らの社会に浸透していく突破力は、他人種は持っていない。私は、その力を「勤労と技術」だとみています。日本人は、独特の空間デザインと労働実利を作ることができる民族だと思っています。その勤労と技術は、敗戦後の日本もそれを受け継いでいる。トヨタにしろ、ソニーにしろ、圧倒的な技術力で北米を魅了してきた。それは、大企業というかたちに変えて、いまも続いている。しかし、これからの北米進出は、個人技術を中心にした事業に戻すことにあると思っている。大企業のマスプロデュースから、個人技術や職人技術のダイナシティを主体とした産業構造に変わっていく。

 その兆しは出ている。10年前北米の人は、和包丁に興味もなく誰も関心を持たなかった。私は、日本の伝統品をブランディングし、そこにこだわり商いをしてきた。はじめは、お客が立ち寄っても金額の高さに驚き引き返すお客が何人もいた。それが2年経ち、少しずつ世の中の状況が変わってきた。食文化と道具というものを組み合わせて、紹介することにより日本の包丁文化が、じわじわとバンクーバー庶民の中に入っていった。実は、ここに大きな可能性を秘めていると思っている。いままで、日本人が軽視していた伝統工芸品や技術の世界が、外国人によって注目されてきている。海外では、道具はモノであり実用性だけがもとめられ、お役目が終わればゴミになってしまう状況があった。しかし、日本のモノはどこか洗練されたデザインと神秘性と質実剛健を持ち合わせていることに、海外の人は興味を示してきている。かつて日本人は、世代が変わってもモノを引き継いで使っていた。「桐のたんす直し」や「金継ぎ」や「漆器塗」は、職人が直し子や孫に引き継ぎ何十年にもわたり、歴史を受け継いで使っていた。日本人が、古いとしていた文化を外国の人はとても注目をしはじめている。
 北欧の家具メーカーである「IKEA」は、電気スタンドを行燈型にして10年前から販売している。和紙に似せた外枠を厚紙で囲いながら、円柱・角柱にしてライトを入れ電気スタンドになっているが。紙を介することで、光が温かくなり直接的な強い光でないことに、多くの人は魅了されて購入している。日本の行燈を知って買っているかは定かではないが、北米の人を魅了するデザインであることは間違いない。
 日本の伝統品を広めるときに、単体だけを販売してもなかなか売れない現実がある。なぜかと考えたときに、日本のモノは文化の1部であり、単体だけで売ろうとしても異文化の人には理解できない。包丁を例にすれば、包丁という単体の販売は道具の販売にしかならず、安いか高いかの価格基準でしか評価されなかった。しかし、日本の食文化を紹介することで、和包丁の構造・作る行程・職人の技術がユーザーの心の中に入っていったときに、価格の判断基準から文化という価値観に移り、価格基準で人は判断しなくなる。和包丁は、歴史・伝統技術・食文化に移り、モノからアートの世界に変わっていく。(そして、砥石を使うことで永遠に命が宿るという神秘性に気持ちが移っていく。)いままでのような、単体の販売から文化を付随するだけで、日本の伝統文化はいろんなものに化ける。
 実は、ここに日本の将来のモノづくりの姿があるような気がしている。日本は、「もったいない」という独特の言葉を持っている。外国の人と仕事をしていると、その言葉を持っていないことに気づく。その言葉を持っていないがゆえ、食べモノを粗末にして捨ててしまう行為や道具に対してのこだわりもないので、用途がおわれば廃棄してしまう。これらの行為は、「もったいない」という、発想がないところから来ている。そんな彼らに、日本人の根底の「モノ文化」を理解できるわけがない。しかし、時代はおもしろいもので「エコ」「リサイクル」という言葉が、「もったいない」という概念に類似していることに気づき始めている。環境問題や大量消費社会に疑問を持ち、社会を変えたいと思っている北米人が増えている。その北米のほとんどが、知識人やセレブといわれる人たちで、アカデミックな人(学術的に権威がある人。医師。弁護士など)や富裕層(日常生活のために仕事をしていない人。セミリタイアしている人)の人たちから、意識が変わってきている。そんな彼らに、日本の伝統文化は「エコ」「リサイクル」という言葉の前から、日本は「もったいない」という発想から日本の文化は始まっていることを話すと、彼らは日本の歴史と日本人に畏敬をもって興味を示す。

 日本の伝統工芸のモノ作りは、自然と一体の中から生まれているので、自然環境や人に対して害になるものを作ってこなかった。人造でありながら、人工を超越したモノ作りが職人世界にはある。日本の職人文化は、いまこそ世界に出て行く時期だと思っている。世界は、マスプロデュースの社会に限界を感じ、オーダーメイドや自分しか所有できないモノ(ダイバーシティ)に、価値観がかわってきている。北米の人々は、それらを求めても希望を満たしてくれる人がいない。その心の隙間を埋めてくれるのは、日本の職人の「匠の世界」だと見ている。

 敗戦後、日本の職人は肉体労働と低賃金という「ブルーカラー」の枠に分類され、職業差別の中で存在してきた。大企業の下請けとして「大量生産」のコマの一部でしかなかった。そこに、職人をしばりつけ、本来の技術を売ることが出来ずにきた。若者もその仕事に興味も示さず、後継者を作ることすら出来ない時代が長く続いた。高度成長期の日本は、「ホワイトカラー」と「ブルーカラー」という職業にわけ、差別と賃金格差をつけてきた。結果、「ホワイトカラー」を知的産業として、優位な仕事として位置付けてきた。しかし、その社会構造もITの進化によって、既存の職業そのものが淘汰される時代をむかえている。ここ数年で、日本全体が社会イノベーション(職業の大編成)をすることは間違いない。仕事も組織から個人に移り、労働コストを抑え時間短縮の仕事に産業構造は移っていく。次世代の仕事のかたちは、生産とデザインが出来る人材が、仕事につける時代になる。一人で何役もこなし、多岐にわたり仕事ができ、そこにクオリティーとクリエイティブが求められてくる。そんな時代がはじまろうとしている。
 国内情勢からみても、職人文化を見直す時期に来ている。本来、職人は知的産業(デザイナー・プログラマー)「ホワイトカラー」であり、生産業(熟練工 技術者)「ブルーカラー」が一体になった仕事で、一人で二役の職業である。現地のあるモノで作り、問題が起きても現場で解決すると手段を持っている。自分の経験と決断のもとに、仕事が形成されている。会社組織であれば、会議や上司の許可を踏んで段階的に業務にあたるので、時間と労力がそこに加わる。それが、次世代には合わなくなって来ている。
 昭和・平成は、日本の伝統文化を軽視して大量生産・大量消費を主体とした社会構造によって、職人文化を自らの手でつぶし、職人を斜陽産業に追い込んでいった。もう一度、技術と伝統を取り戻し、それを武器にして世界に進出する時代にきている。世界をターゲットにしたビジネスモデルにして、日本の技術と文化を高価格で売る時代に来ている。いままでの貿易とは違う形で、外貨獲得の方法がここにある。