#54  いま、言葉のちからを考える ~その3 

日本では、母国語である日本語が軽視され、ないがしろにされ続けているという感覚が私にはあります。
この感覚は、古文漢文が好きだった乙女の頃からすでに持っていたものでした。
小学校教員になりたいと思ったのは、「二十四の瞳」にあこがれただけでなく、日本語が大好きなためでもあり、志望はもちろん「国語」専攻でした。
卒業当時の時代背景が、公務員希望者の激増した年で、国立大学では教員養成課程志望者が例年の倍以上になっていて、高校前半まで延々遊び呆けていた私は、一年間の一念発起では追いつかず、教員になることはありませんでした。
今思うと、日教組が大暴れしていたその時代、正義を追及したい私にとっては、教員にならなくて良かったのだと感じています。

古文に接していると、現代語にはない響きによって感性が揺さぶられ、音を通して、日常を離れた感覚がそのまま入ってくることがあります。
振り返ってみると、こういう部分も含めた国語愛に促されて、源氏物語原書講読のような集いにも進んで参加しているのかもしれません。

古の方々が残された文章も、現代まで持ちこたえているものには、それだけの力があります。
物語としての構成はもちろんですが、言葉の使い方にも品格のあるものとそうでないものとの差は、歴然として存在しているように感じます。

日本人の生活にはあちらこちらに「やまとことば」がおさまっています。そう感じたのは、「やまとことば」に関する本を知人からいただいたのがきっかけでした。「やまとことば」というと、古典にしか見られない言葉のように感じられるかもしれませんが、そんなことはないのです。

私の育つ過程では、周りに「やまとことば」をふんだんに使う大人たちがいました。それで耳に馴染んでいたのは確かなことだと思いますが、もっと勉強しておけばよかった、と今になってよく思います。
また、受験勉強を通して仕方なく覚えた漢字や熟語、故事ことわざなども、後になって非常に役に立ったことが多くありました。

私が本好きになったのは、読み聞かせを聞く楽しさや、もともとの好奇心旺盛な性格に加えて、知ることが楽しくてやめられなくなった、という経緯もありますが、漢字を読む力や、辞書を引くことの習慣づけなどの上に、親しみが成り立ってきたようにも思えます。

今に限ったことではありませんが、子供たちの中には、国語力がないために、口頭で問われれば問題に答えられるのに、問題の意味を読み取れないために解答ができない、という子供もいます。国語力がつけば、簡単に解決する問題です。

小中学校時代の「国語」というのは、その後の人生を左右しかねない基礎的な力を蓄えることのできる時間だと思うと、義務教育期間の重要性をあらためて感じます。

創造性や思考力を高めるためにも、国語にもっと力を入れて、国民全体の国語力の向上を図ることが大切なのではないでしょうか。

国歌「君が代」を歌えない子供たちがいる、と聞いています。
古文漢文の学習機会も減り、ほとんどの子供たちは、ほんのわずかな時間しか触れないまま社会人となっていきます。
昔の唱歌にも、美しい日本語表現がたくさんありましたが、今の「音楽」教科書からはだいぶ消えています。
現在の文科省による教育指導方針が続けば、美しい文語も次第に消えていき、使うことができないばかりか、読みこなせなくなります。

光文書(ヒカリモンジョ)Vol.583 言の葉は言の刃に」にあるように「言の葉」を「言の刃」としてみれば、精神性次第で切れ味も変化するということなのかもしれません。

日本の故事ことわざに「馬鹿とはさみは使いよう」という言葉がありますが、使う側の力量が問われるのは当然です。
研ぎ方次第でもあり、それはメンテナンス次第ともいえ、使いようによって刃物は容易に凶器になります。

刃物であれば、「鉄は熱いうちに打て」といわれるように、鋼の製作工程がまず肝心ですが、母国語の獲得も、生育過程において言語体系が個々の内側にできあがるまでに、丹精こめて錬成を重ねていくことが大切だといえるのではないでしょうか。

言葉を獲得していく過程というのは、多くを環境に依存しています。
日本語の素晴らしさを知れば、子供たちにとっては、どれだけ面白く興味深いワンダーランドが広がるか、計り知れないものがあります。
小さい頃からの環境次第で、語彙の豊富さや、たくさんの漢字、音や韻などのリズム、素養となる部分で、かなりの違いが出るはずです。
できるだけ、子供たちにとって国語に対する興味が湧いてくるような環境を、幼い頃から整えていきたいものと思います。

言語環境という点でみると、もともとが多言語の国に育てば、幼児時代から一度に多言語を獲得していきます。
それはそれで良いのですが、日本に生まれた私たちには日本語という、ほかに類のない、すべてを受容できる言葉が与えられています。
知れば知るほど優秀な、このような言語を活かさない手はない、と私は考えます。

葛飾北斎に感動した欧州の有名な画家たちが、日本から美術を学びに留学してくる学生たちに向かって、「日本という羨むほどすばらしい環境に生まれているのに、なぜそれを学ばずに留学してくるのか不思議だ」と述べたといわれていますが、まさに、それと似たことが、言語、日本語の世界でも起きているように思います。

ところが、文科省の方針はというと、二〇二〇年度の小学三年生から、「外国語活動」が開始されることになりました。

—————————– 進研ゼミ HP よりHPより 小学講座 
http://sho.benesse.co.jp/cp/new1/kaikaku/  

いまの年長さんが、これから歩む道 

二〇一八年度 小学校入学

グループ活動や話し合いによる授業が増加
グループ活動や話し合いを通して解決法を考える授業など、より主体的な参加を求める授業が増えます。

二〇二〇年度 小学3年生

「外国語活動」がスタート
新しい学習指導要領のもと、英語を使ったコミュニケーションを重視した「外国語活動」が始まります。

二〇二二年度 小学5年生

「英語」が正式な教科に
五年生から正式な「教科」として英語がスタート。成績がつくように。

二〇二七年度 高校入試

知識を使いこなす力が問われる
単に知識の量を問うだけではなく、教科を超えて、「自分で考える力」や「学んだことを生かす力」も重視されるように

二〇三〇年度 大学入試

思考・判断・表現力を問う新制度にセンター試験に代わる「大学入学共通テスト」を受験。記述式問題が導入され、英語は4技能(読む、聞く、書く、話す)で評価されます。

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「ゆとり教育」の導入で、平均的基礎学力が落ちた結果となった世代がありました。
ある意味、文科省の方針による犠牲者たちです。

ようやく失敗であったと文科省が認め、「ゆとり教育」は取りやめになりました。
今度は第二弾、これで、また基礎学力が落ちるのではないかと私は危惧しています。

日本の場合は特に、母国語で感性を研ぎ澄ませることを優先したほうが有利なことは、精神文化的な意味合いだけにとどまりません。
発明や発見においてもそうで、物を考えるときのことを考えればわかります。
何かを考えるときには、言葉を使って考えるからです。

日本語は論理に向かないなどといわれることがありますが、その見方が間違っていることは、自然科学部門の国別で日本は第二位のノーベル賞受賞者数となっていることをみてもわかります。

世界の論文を読み、世界に向けて発信する段階で、英語を読み書きすることはあっても、受賞者たちが実験を重ねたり、論理を展開する間、頭の中で考えるときには、日本語を使っているはずです。

鈴木孝夫先生(慶應義塾大学名誉教授)のお話でも、母国語でないと、真の力が十分に発揮できにくいため、どうしても二番手になってしまうこと、その点で日本人は非常に恵まれているという内容のことがありました。 武田邦彦先生(中部大学教授)が、『ナポレオンと東條英機』で書かれていたように、日本では海外の論文を日本語に次々翻訳していますから、高等教育も母国語だけで受けられるという恵まれた環境が作られています。

鈴木先生からたくさんの興味深いお話を伺っていますので、詳しくは次回以降でご紹介していきます。

まずは理科系のジャーナリストが書かれたご本を参考まで。

   『日本語の科学が世界を変える』
   松尾義之著   筑摩書房 筑摩選書  千五百円+税

とても論理的で読みやすく、勉強になります。

平成三十年二月九日

阿部 幸子

協力 ツチダクミコ

協力 白澤 秀樹