#41 大東亜戦争の遠因を探る ~その5~ オレンジ計画

アメリカのオレンジ計画について、#38 大東亜戦争の遠因を探る ~その2~ 排日移民法 で、稿を改めたいと書きましたが、排日移民法にいたる過程にせよ、何にせよ、近代史を「オレンジ計画」を抜きにして語ることは無意味である、と感じますので、この辺でもう少し詳しく知っておきたいと思います。

近代史を勉強していく中で、折々、オレンジ計画に触れます。
学校では習わない歴史ですが、日本近代史において重要な意味を持っていますので、流れを知っておきたいことのひとつといえるでしょう。

光文書(ヒカリモンジョ)Vol.541 神なき国とゴッドブレスなき国 」 からも引用します。

—————————–  引用 開始

中国共産党のはるか前に、この日本列島に着目し、現実の戦争という手段によって、日本国を一種の属州としたのが、アメリカ合衆国です。
ペリーの黒船以来、一貫して、アメリカは日本を自分たちの版図に組み入れようとしてきましたが、自力では成功しないことを知るや、イギリスや国民党の中国とスターリンのソ連邦と組むことで、当時の大日本帝国を打ち倒し、その領土を分割しました。
アメリカが、日本打倒のためのオレンジ計画を策定するのは、満州の利権を日本が、日本との共同で、というアメリカ側の申し出を拒否した直後とされていますが、もともと、アメリカの内部にはハワイの次は、日本という暗黙の了解があったはずです。
この歴史の流れともいえる、悪意の対日戦略に、なぜ日本があまりに安易に乗り、判断を誤り続けたのかを、人知の側でも、きちんと検証しない限り、現在の状況は変わりようがありません。

—————————–  引用ここまで

「オレンジ計画」を抜きにして近代史を語るのは無意味という話は、鈴木荘一先生が下記著書で書かれていたものでしたが、オレンジ計画についてはとても詳しく、そしてわかりやすい良い本だと思います。

   『アメリカのオレンジ計画と大正天皇』
   鈴木荘一著  かんき出版 千八百円+税

上記書籍の章扉にある短い解説文を列記しておきます。
期間の長さと、波及する幅の広さが感じられると思います。
—————————–
第一章 太平洋の遠雷
戦死者八万八千人・戦傷者三十八万人という日露戦争の傷跡に苦しむ日本に対して、アメリカの新聞は「日系移民排斥論」を、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世は「黄禍論」をぶつけて、日本を圧迫した。

第二章 オレンジ計画
オレンジ計画は、T・ルーズベルト海軍次官がハワイ併合の前年に策定した「太平洋制覇のための世紀的日本征服計画」で、甥のF・ルーズベルト大統領が「開戦の口実」を得て一九四一年に発動した。

第三章 帝国国防方針
日露戦争後、日本陸軍はロシアからの復讐戦に備えて二十五師団を要求。日本海軍はアメリカからの脅威に備え八・八艦隊を要求。山県有朋は陸海軍の協働を願い、両者の要求を「帝国国防方針」に併記。

第四章 政党政治の開幕
第二次大隈内閣は、陸軍の師団増設と海軍の増強を容認すると同時に、「統帥権」を内閣に取り込んだ。更に「日英同盟」に基づき、第一次世界大戦に参戦。財政再建を達成し、「オレンジ計画」を空洞化させた。

第五章 伊藤博文遭難と韓国併合
議会主義者の文治派で韓国併合消極論者の伊藤博文が暗殺されると、明治政権内の権力は、陸軍・警察に基盤を置く武断派で韓国併合積極論者の山県有朋に移動。山県有朋が韓国併合を断行する。

第六章 老害としての山県有朋
伊藤博文死去により、最高権力者となった山県有朋は、第二次大隈内閣を倒閣。山県有朋の外交方針を奉ずる原敬内閣・高橋是清内閣(外相内田康哉)により日英同盟が破棄され、日本は国際的孤立に陥る。

第七章 大正天皇と山県有朋の暗闘
大正天皇は明治憲法が定めた「天皇主権」に基づき第二次大隈内閣を支えたが、「元老主権」に固執する山県有朋との暗闘に破れ、引退・拝帝となる。大正天皇の英米協調主義と皇室民主化は、戦後に花開く。
—————————–

オレンジ計画とは、そもそも、アメリカの「カラープラン」のひとつで、対日はオレンジですが、ドイツはブラック、イギリスはレッド、メキシコはグリーン、ソ連はパープル、フランスはゴールドなどいくつかのカラープランがありました。しかし、それら諸国のほとんどは帝国主義国家です。アメリカは、それら諸国との国家間の戦争計画をはじめ、安全保障に直結した重要テーマを抱えており、対日の場合とは状況が少し異なっていたと思います。対日計画はアメリカが帝国主義を拡大するため、太平洋を制覇するにあたっての戦争計画でした。
したがって、アメリカに余裕のあるときに発動すればよいことでもあり、何度もの練り直しと長期にわたる研究が行われていました。

そもそもアメリカが日本を軍事的影響下に置きたいと考え始めたのは、「米墨戦争」に勝って、「カリフォルニア」を獲得し、「太平洋岸」に達した一八四六年(弘化三年)ころのことだったといいます。
一八五二年、遠征を命じられたペリーは、来日前に「沖縄占領」計画を、アメリカ政府から承認されていました。小笠原諸島にも上陸しています。

ペリーの恫喝に屈した幕府は、一八五四年(安政元年)日米和親条約を締結しました。
その後、一八六一年にアメリカ国内において南北戦争を始め、一八六五年に南軍が降伏して戦争が終わるまで、アメリカの対外進出は停滞します。
南北戦争が終わると拡大膨張を再開し、一八六七年にはロシアからアラスカを買収しました。
一八九八年には米西戦争を起こし、キューバを保護国に、フィリピン、プエルトリコ、グアムを領有、海外に殖民地を持つ国となったのです。そして同年、ハワイ併合を断行します。

オレンジ計画は、その前年の一八九七年に「一九世紀的な日本征服計画として・・・」マッキンレー大統領の海軍次官であったセオドア・ルーズベルトにより策定されたのです。日本では明治三十年、日露戦争開戦の七年前でした。

何の罪もない平和国家日本を軍事的に征服するため「オレンジ計画」をスタートさせた動機は、
  「『ハワイ併合』に際し、日本が『ハワイ人の独立運動』を軍事支援して、
   日米戦争となる事態」に備える
というものでした。
そうした情勢を予期したからこそ、日本は「ハワイ併合問題」では、アメリカとの衝突を避け、素直に引き下がったのでした。
ハワイ王国の悲話については、別途改めます。

さて、セオドア・ルーズベルトが策定した「オレンジ計画」は、元海軍大学二代校長のマハン大佐に指南を受けたものでしたが、その後、海軍の研究スタッフにより、精度の高いものに増補・改訂されていきます。

「ハワイ併合問題」で日本がアメリカとの軍事衝突を回避し、素直に引き下がったため、対日戦争計画である「オレンジ計画」は、最大の難問に直面します。
それは、「アメリカが日本に攻撃する大義名分がない」ということでした。

セオドア・ルーズベルトは、一九〇一年、大統領に就任すると、強い海軍の構築を目指し、海軍の整備に全精力を傾けていきます。

柔道茶帯取得者で忠臣蔵を読み、武士道に関心を寄せる「大の親日家であった」ともいわれる一方で、「アングロ・サクソン至上主義者」としてのセオドア・ルーズベルトは、まったく別の顔を持っていました。
「アングロ・サクソンの偉大な文明」で後進国、後進民族を統治するのは文明の波及として人類にとって望ましく、インディアンやハワイ原住民、フィリピン人を支配するのも「文明の進歩」という意味で当然であると考え、疑問に思ったことはないと述べ「自分の考えは帝国主義者としての民主主義だ」と語っているそうです。(『アメリカのオレンジ計画と大正天皇』P.六八−六九)

太平洋への進出を計画しつつも、警戒心の強いリアリスト(現実主義者)であるアメリカは、ロシアの強大な軍事力を認め、ロシア、ドイツ、フランスを警戒しつつ、自国より強い国や軍隊とは戦わない姿勢を堅持していました。

日露戦争(~一九〇五年)が日本の勝利で終わると、強大なロシアが破れたことを喜び、セオドア・ルーズベルト大統領は日露講和を調停しました。
戦勝国日本は、ポーツマス条約によって、満州の長春から旅順までを走る鉄道などの権益を得、南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立します。満鉄は鉄道事業のみならず、炭鉱、製鉄、電力、港湾、倉庫などの関連事業を行い、軍事・経済ともに日本の満州経営の柱となっていきます。
そこに目をつけたのが、アメリカの鉄道王ハリマンでした。そして日本に満州の鉄道事業の共同経営を持ちかけます。
明治の元勲・井上馨はこの申し出にピンと来て、北方の対ロシア対策もあり、アメリカという協力者を受け入れることが得策であると考え、伊藤博文も、桂太郎首相も賛同し、十月に「桂・ハリマン仮条約」が予備協定として結ばれました。渋沢栄一など財界人も賛成の意を示しています。
そこにポーツマス条約をようやくまとめた外相小村寿太郎が帰国し、強硬な反対論を繰り広げ、仮条約を強引に破棄させてしまいました。ハリマンは一方的条約破棄に激怒し、それはアメリカを怒らせたも同然でした。

アメリカは有色人種である日本が、アメリカを退け「シナ大陸に進出し独占するつもりである」と思い込んでしまいます。アジアに領土を広げたいアメリカとしては、日本を疎ましく思い始めます。当時、広州湾はフランスが、山東半島はドイツが、揚子江はイギリスがおさえていました。ところがロシアがおさえていた遼東半島に突如日本が入ってしまったのです。
我慢ならないアメリカは、日本がアジアの盟主になる前にいかにすべきかの戦略を練り直します。

セオドア・ルーズベルト大統領は、「日露戦争で疲弊した日本は、財政をどう立て直すか、満州で得た利権をどう具体化するかに精一杯で余力がない」と判断し、対日戦争を「無制限経済戦争」と位置づけ、厳しい封鎖・港や船の破壊・通商上の極端な孤立により、日本を「完全な窮乏と疲弊」に追い込むことをその後の基本方針とします。
そして「一九〇六年版オレンジ計画」では、「戦略原則」を勇猛な陸軍との戦いでなく、日本海軍を海戦で破り制海権を奪うこと、海戦で破ることで陸軍を「立ち枯れ」にすべきと定めたのです。

この原則は、その後変わることなく大東亜戦争で実践されます。
アメリカが設計した対日戦争の基本理念は「日本人を『徹底的に抹殺する悲惨な結末』を迎えるまで、アメリカは手を緩めず、断固として戦い、日本を『無条件降伏』に追い込む」というものでした。
そのために鍵となるのは、南北戦争の戦訓を踏まえ、「日本の通商を完全に孤立させること」であるとし、「二年間の『完全封鎖』で日本の備蓄を枯渇させ、日本の息の根を止める『完全封鎖』」を行うことにしたのです。さらに「沖縄占領」が「日本の包囲」と「日本の通商の完全な孤立」のために計画されました。

日露戦争終戦の翌々年、一九〇七年(明治四〇年)アメリカ西海岸で激しい排日運動が起きます。
歴史家の間でも、昭和天皇もご指摘になっている、「日露戦争直後の、この日本人排斥運動が日米関係に影を落とし、太平洋戦争の遠因となった」とする有力な説があります。
サンフランシスコ日本人学童隔離問題を発端として、日本人移民の制限に踏み切るのですが、当時アメリカの新聞は「対日戦争の脅威」を書きたて、アメリカ人の中に不安の種をばら撒いていました。
日米間の感情的対立はもちろん深まり、実際にもかなり酷い「ホラ話」が多くあったのは事実ですが、当時、セオドア・ルーズベルト大統領は「いまはまだ、開戦のときではない、海軍の装備をもう少し充実させてからにすべき」と判断し、日本側に移民の自主規制を要請、一九〇八年二月、覚書による「日米紳士協定」が締結され、一件落着となります。

「一九〇七年版オレンジ計画」では、「アメリカ艦隊に太平洋を巡航させ、日米開戦にならないよう、日本を威嚇する」ということが盛り込まれます。

日本征服を目指す「オレンジ計画」にとって、目の上のたんこぶは「日英同盟」でした。
アメリカ艦隊は、日本艦隊と交戦する場合、スエズ運河とインド洋はイギリスが支配していたので、パナマ運河・太平洋ルートを選定することになります。
太平洋ルートを選ぶ場合、カリフォルニアとハワイの重要性が一段と再認識されることとなりました。
一九〇八年、「真珠湾の基地化」を決め、一九一一年、真珠湾に大型艦船用の水路が浚渫され、ハワイは要塞化されていきます。

「一九一一年版オレンジ計画」は、対日戦争の大義名分として「日本は、現在の緩やかな経済的進出から、最終的には公然たる侵略に移るだろう、そうなれば(アメリカとしては)門戸開放を確保するため、対日戦争が必要となる」という一方的な大義名分を作り出していました。
その基本戦略としては「まず最初にアメリカが日本を経済的に封じ込める、そして、『経済封鎖』に苦しみぬいた日本が、苦し紛れに暴れだすのを待ち・・・」そして「制海権を握り、日本の通商路を破断し、日本の息の根を止めるべき」と定め、時間をかけてそのシナリオに追い込んでいきました。
一九一一年版では、三段階ある行程の最後に最大決戦場としての沖縄を占領することが海軍当局者の一致した見解となり、ペリーから九十余年かけての実現に向かうことになります。

「一九一四年版オレンジ計画」では、日本の現状について、「一九一四年(大正三年)まで、日本は太平洋諸島に軍事的関心を抱いたことはなく、日本がミクロネシアに求めたのは『平和な通商』だった」と正直に述べ、対日攻撃の「大義名分」がないことを率直に認めています。そこでアメリカは「黄禍論」により日本を侮辱し、激昂させ、挑発したうえ、「日本が生存を図る道」を狭めて追い込み、日米開戦への道筋をつけていたのです。
一九一三年(大正二年)のアメリカでは、新聞雑誌に「排日記事」があふれていました。
セオドア・ルーズベルトが策定した「オレンジ計画」の指南役、マハン大佐は退役していましたが、日本を「英米共通の敵」とすべく、「黄禍=排日論」を力説し、日本人移民についての論文を、ロンドン・タイムズに寄稿しています。

一九一三年一月、カリフォルニア州議会に「第一次排日土地法(第一次外国人土地法)」が提出され、五月に成立、八月から施行されました。日系移民のうち、農地取得準備中の農業従事者たちは大打撃を受けました。

「一九一四年版オレンジ計画」を、日本征服を目指す実践的軍事計画へバージョンアップしたのは、セオドア・ルーズベルトの甥、フランクリン・ルーズベルトでした。当時海軍次官の二年目だったそうです。
こうしたアメリカの外交・軍事を組み合わせた高等戦略を見破って「挑発に乗ってはならない」と警鐘を鳴らす日本人は、やがて同じ日本人から白眼視される窮状に陥ります。

ピンチに追い込まれた日本でしたが、一九一四年七月第一次世界大戦が勃発します。イギリスは八月、ドイツに宣戦布告、主戦場は大西洋であったものの、東洋でドイツ東洋艦隊が太平洋・インド洋で暴れ回りイギリス領の香港やイギリス領の島々が奪われることを懸念したイギリスは、同盟国日本に要請、日本海軍は協力しドイツ艦隊を追い立てていきます。その後も、イギリスの要請に応えてオーストラリアからアデン間の航路警戒とマラッカ海峡の警備、オーストラリア・ニュージーランド周辺海域の警戒、モーリシャス方面警備、インド洋警戒、オーストラリア~コロンボ間の船舶護衛、地中海における兵員輸送船の護衛など、常に任務を遂行しました。
一九一七年五月、イギリス国王ジョージ五世からも日本海軍軍人の活躍に対し深く感動し満足していると、感謝の意を表明されています。
その後、戦死者、戦病死者計七十八名を出しましたが、今もマルタ島カルカーラの丘に眠っています。

第一次世界大戦における日本海軍の行動を総括し、大戦終了後、イギリス議会からも、外相からも、深い感謝が表明されました。

日本は第一次世界大戦で連合国側に立って、参戦したことにより、「オレンジ計画」の魔手から逃れたものの、大戦終了後は再び責め苛まれます。

そして一九一九年四月のパリ講和会議で「人種差別撤廃」を提案したものの、実現には至りませんでした。
賛成十一票に対し、アメリカ、イギリスなどの反対七票でしたが、議長であったアメリカ大統領ウィルソンが議長職権により却下したのです。

一九二〇年(大正九年)「日本人学童隔離法案」がカリフォルニア州議会をあっさり通過します。
さらにこの年、第二次排日土地法が成立しました。日本人の三年未満の借地も、アメリカで生まれた日系二世の土地取得も禁止されます。

こうした中で、一九二一年十一月、高橋是清内閣(外相・内田康哉)がワシントン会議で日英に米仏を加えた四カ国条約を成立させたことにより、「オレンジ計画」の障害となっていた日英同盟は破棄されます。
このあたりに関しては、イギリス嫌いで黄色人種連合で戦うことを希望していた山県有朋の老害が激しく露出した結果といえそうです。
『アメリカのオレンジ計画と大正天皇』 の「第六章 老害としての山県有朋 」は大変読み応えがありました。
イギリス側には日英同盟継続の意志があったようでしたが、山県有朋の意向に従う原敬内閣は、継続に熱意を示しませんでした。

歴史に「もしも」は禁物ですが、このとき、大隈内閣と加藤高明外相の体制が続いていれば、大東亜戦争は回避されていたかもしれません。

排日土地法の成立から二年後の一九二二年(大正十一年)、アメリカの最高裁は「白人とアフリカ土着人、およびその子孫」だけがアメリカに帰化できるという判決を出します。つまり、黄色人種である日本人には帰化権がないとされ、さらに既にその時点でアメリカ国民として暮らしている移民の帰化権まで剥奪しました。

「一九二三年版オレンジ計画」は、一九二一年に日英同盟も破棄され、急ぐ必要もないまま、一九二二年「ワシントン海軍軍縮条約」により、「米英日の戦艦等主力艦比率は五対五対三」と定められます。

排日政策も集大成として、一九二四年(大正十三年)にいわゆる「絶対的排日移民法」を成立させました。これは連邦法であったため、国家として日本人移民を拒否するという表明となります。

この排日移民法の成立が、大東亜戦争の遠因になったと昭和天皇はお考えであったことが、『昭和天皇独白録』に書かれています。

これで、対日戦争工定表の「第三段階作戦」を具体化し、細部の詰めを残してオレンジ計画はほぼ完成となります。
しかし、「黄禍論」だけでは内外への説得力に欠け、オレンジ計画は休眠期間に入ります。

そんななか、時代は昭和に移り行き、日本は中国との間で次々と争いごとが起きていきます。

アメリカでは、十三年の空白の後、フランクリン・ルーズベルト大統領が就任、「一九三六年版オレンジ計画」を策定します。

アメリカ海軍ではオレンジ計画に対し、一九一七年ごろに「古典的帝国主義の遺物」に過ぎないと指摘されていましたが、一九三七年、アメリカ陸軍の中でも、オレンジ計画に対する懐疑の念が生じていきます。極端な攻撃性がアメリカの安全保障と両立せず、「『アメリカ精神の真髄』に反する」ということで「日本への無制限攻撃」を主張する声は消えていきます。

日本では、一九三七年(昭和十二年)七月、近衛内閣成立後一カ月で盧溝橋事件が、同月二十九日には通州事件が起きます。
このころからアメリカでは、『タイム』、『ライフ』の発行者ヘンリー・ルースとともに宋美齢が反日キャンペーンを行い、排日と対中支援に奔走、暗躍しました。

一九三九年(昭和十四年)一月、平沼麒一郎内閣に交代、日中戦争の解決策がつかめないまま、「日独伊三国同盟論」をめぐり、親ドイツの陸軍と、親英米の海軍が対立します。

一九三九年七月、フランクリン・ルーズベルト大統領は日本に「日米通商条約破棄(発効は一九四〇年一月二十六日)」を一方的に通告しました。ドイツはソ連と「独ソ不可侵条約」を締結、こうして、「日独伊三国同盟」の話は立ち消えになり、八月に平沼内閣が退陣、数日後ドイツはポーランドに進攻し「第二次世界大戦」が始まります。後継の阿部信行内閣は、「大戦不介入、中立維持の方針」ともっぱらシナ事変の解決にまい進することを表明します。

日本もアメリカも、軍部では日米戦争は避けたかった記録があります。
「オレンジ計画」に消極的になったアメリカ海軍を叱咤し「対日戦争=太平洋戦争」を積極的に推進したのは、第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトでした。
日本海軍を刺激するため、太平洋艦隊を「西海岸」から「真珠湾」へ前進させ、「真珠湾」を母港とするよう厳命を下したのです。
リチャードソン大将は「外交による和解こそ正しいやり方である」と進言し、大統領のやり方を信頼できないと直言しましたが、「大将から少将に降格、さらに合衆国艦隊司令長官兼太平洋艦隊司令長官を解任」が答えでした。
戦争終結後、リチャードソンは、「フランクリン・ルーズベルト大統領こそ、アメリカを太平洋戦争に誘い込んだ張本人である」と告発しています。

『WAR PLAN ORANGE,THE U.S.STRATEGY TO DEFEAT JAPAN, 1897-1945』 の著者EDWARD S MILLER は、オレンジ計画と太平洋戦争との相関関係について、以下のように述べています。(『アメリカのオレンジ計画と大正天皇』 P.一五一-一五二 より )

—————————– 引用 開始

アメリカの戦争計画官により一九〇六年以降確立された戦争目的は、日本を完膚なきまで打ちのめし、日本に「無条件降伏」を強要し「アメリカの意志」を押し付けることだった。「オレンジ計画」に内在する攻撃的な衝動は、「長い戦争の末に日本包囲を完成し決定的に勝利すること」を目指して生き続けていた。
アメリカの潜水艦や航空機による日本商船への無差別攻撃は、「人道と文明のルールに反する」と禁止されていたが、アメリカは対日戦争において封印を破り、一九四一年十二月七日「発見即撃沈!」を下命。日本封鎖計画は飛躍的に強化された。
太平洋戦争中、八百万トンの日本商船が撃沈されたが、潜水艦によるもの六十%、航空機によるもの三十%、その他十%である。これについてアメリカ戦略爆撃調査団は「海上輸送に関する攻撃は、日本経済と日本陸海軍の補給体制を崩壊させた最も決定的なものである」と述べている。
そして日本艦隊は、「オレンジ計画」が予想したとおり、レイテ海戦で滅ぼされた。
日本の完全敗北が目前となった一九四五年二月、統合参謀本部の計画官たちは「誇り高き日本にとって無条件降伏は有り得ない言葉だ」と当惑し、フランクリンルーズベルト大統領に、「日本の抵抗力を破壊するとの弱めた修正表現を提案した。しかし、フランクリン・ルーズベルト大統領は「無条件降伏」の表現の緩和を拒否、アメリカ世論も「無条件降伏」という過酷な言葉を容認した。このとき既に日本は、「占領され、軍備を解かれ、国外領土のすべてを奪われ、日本の指導者たちは辞任させられ告訴される」ことが決まっていた。「オレンジ計画」に内在する攻撃的な衝動が、アメリカ国民の間に、遺伝子レベルで組み込まれていたのである。

—————————– 引用 ここまで

ペリーの「沖縄占領」計画承認から九十年余り、「オレンジ計画」のスタートから五十年近い年月をかけて、アメリカは日本を無条件降伏に追い込みました。
日本がポツダム宣言を受諾したのは昭和二十年八月十四日午後十時ごろでした。受諾を中立国であるスイス、スエーデンを通じて連合国に通知し降伏して戦争が終わりました。
一九四五年九月二日、戦艦ミズーリ艦上で日本降伏文書調印式が行われ、日本は「降伏文書」をもってポツダム宣言を受諾しました。調印文書の第一項には、七月二十六日に連合国を代表してアメリカ、イギリス、中国が日本に出したポツダムに於ける宣言に基づき、と書かれています。

平成二十九年十一月十日

阿部 幸子

協力 ツチダクミコ