#37 大東亜戦争の遠因を探る ~その1~ 昭和天皇と「よもの海」 

昭和天皇は、今上陛下もそうですが、誰よりも「国民が受け入れ、決めた憲法は、守らなければならない」とお考えであられたことが、今になってみるとよくわかります。
今般、ご譲位に関して憲法をどうするか、という話題がありますが、それも、「国民が決めてほしい」、「私はそれに従う」というご姿勢の現れです。

「天皇制」という言葉は、共産党用語なので、私はできるだけ使いたくありません。
「皇室制度」という言葉を使いたいと思います。
そして女性宮家には反対します。
皇位継承問題がおありなら、旧宮家を復活させることを考えてもらいたいものだと思います。

日本には、二千年を超える建国以来の歴史、古事記、日本書紀の時代からでさえ千三百年以上にわたる歴史があります。
そして、記紀などの記録において、後の改ざんは行っておりません。
国の宝として、記紀もずっと保管されてきました。

この長い歴史の中で、日本は島国ということもあり、近代まで戦(いくさ)は内乱以外多くありませんでしたが、海外との戦において二回負けています。
一度目は「白村江(はくすきのえ)の戦い」、そして二度目が大東亜戦争です。

白村江の戦いに敗れて、「壬申の乱」が起こり、「記紀」が作られました。
私は、「壬申の乱」は危機的であった時代、天武天皇による日本国建て直しの一連の出来事だと認識しています。

日本書紀は、対外的な意味をも明確にして当時の世界に通用させるべく、漢文で書かれています。
古事記は、国内に向けて「音」の表記をまじえ、代々宮家を中心に伝えられてきました。
江戸時代に本居宣長が焦点を当てるまでは、日本書紀のほうが取り上げられることが多かったようです。
しかしここで、日本のとるべきスタンスをはき違えてしまいました。

通り過ぎた歴史の警告に学ぶことのないまま、韓国併合に踏み切り、満州国の大アジア主義につながる時代を経て現在があります。
歴史に学ばず起きたさまざまなことには、今になって考えれば、大きな意味があるとわかりますが、明るい歴史ではありません。
むしろ、夜明け前のもっとも深い闇の時代を経てきたのだと思います。

いま、という時代は、その闇を抜けるのか、それとも、このまま闇に消えてゆくのかを選択する時代だと思います。
今回の選挙もそうですが、ひとつひとつのステップを踏んで、どちらに向かうのか、ということです。

ここで、先の大戦、大東亜戦争を過ごされたお二人の天皇陛下が、どのようにお考えになられたのかを振り返ってみたいと思います。
そこを通して、見えてくるものがあるのではないか、と思っています。
まずは、開戦前に戻ってみましょう。

昭和天皇が大東亜戦争の前に、御前会議において、明治天皇の御製(詠まれた和歌)

  よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさはぐらむ
  (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)

を書写された紙を取り出され、二回お読み上げになり、
 「朕は常にこの御製を拝誦して、故大帝の平和愛好のご精神を紹述せんと努めて居るものである」
と仰せられたことがあったそうです。開戦の年、昭和十六年九月六日のことでした。

「君臨すれども統治せず」という、英国流立憲君主制の原則を堅持していらしたので、政府と統帥部が一致して決定した国策に対して、お気持ちが反対であったとしても反対しないという大原則を貫く姿勢でいらっしゃいましたが、御製の読み上げによって、お心を表された機会でした。

このお言葉は陸軍を震撼させ、東条英機陸軍大臣は「聖慮は平和にあらせられるぞ」と叫び、杉山元参謀総長は蒼ざめた顔面を小刻みにけいれんさせていたそうです。しかし、天皇の平和意図は実現されませんでした。

この、「よもの海」は、むしろ海外で有名になった御製で、大正八年刊の『明治両陛下聖徳記 修養宝鑑』(末松謙澄著)などには、セオドア・ルーズヴェルト大統領がこの和歌に感動してポーツマス会議の開催を斡旋したという逸話が出てくるそうです。

平和愛好のご精神を示すものとして、木戸幸一内大臣[木戸孝允(きど たかよし)・ 志士時代は桂小五郎(かつら こごろう)の養子の木戸孝正(同墓)の子]にご相談をされてのお歌選びであったと思われますが、解釈の部分で陸軍の一部が容認されているととらえ、戦争に向かおうとする軍を抑止することは、かなわなかったのでした。
本来であれば、間違えようのない御製を選ぶべきであったといえるかもしれませんが、それがおそらく昭和五十年の米国ご訪問後の記者会見におけるご発言「文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから・・・」につながるのではないか、と私は思います。

参考図書があります。

   『昭和天皇「よもの海」の謎』
   平山周吉著 新潮社 新潮選書  千四百円+税

上記書籍によると、この御前会議の参加者は、昭和天皇のほか十五名(近衛首相、東条陸相など内閣から七名、統帥部から四名、枢密院一名、事務方幹事役三名)でした。この中の、杉山参謀総長による会議直後のメモと、近衛手記において、どちらも会議終了後の記憶をたどったものですが、第四句が「波風」でなく「あだ波」になっていました。

明治天皇の御製が詠まれた状況が、日露戦争開戦前だったのか、開戦後であったのか、によって、読みとり方も異なるということで、結局陸軍においては、戦争を回避する外交努力は続けるが、「戦争もやむなし」であるという方向へと変わってしまいました。

昭和天皇の身近には、この「よもの海」をアメリカに紹介することにかかわった二人の人物がいたといいます。
おひとりは竹下勇海軍大将。「東宮御学問所(とうぐうおがくもんじょ)」(生徒数六名 初代校長 乃木希典)の評議員で、皇太子時代の欧州巡遊に随行しています(当時・海軍中将)。
もうひとかたは歌人で、昭和十六年当時、御歌所寄人(おうたどころよりうど)で宮中歌会始の点者(選者)でもあった千葉胤明(ちば たねあき)でした。千葉胤明は御歌所において『明治天皇御製』編纂を主任し、のちに『明治天皇御製謹話(昭和十三年刊)』を出版しました。平和ご愛好のご精神を述べられています。
昭和初期、軍人の必携と言われていた佐々木信綱による『明治天皇御集謹解』においては、単に平和ご愛好ということだけでなく、「日露戦争開戦は明治天皇のご意志ではないけれど、戦争もやむをえない」という解釈がありました。

このあたりのことを含め、上記の本に詳しく書かれていますが、「日米戦うべからず」と断言されていた山本五十六海軍大将は、ふるさと越後長岡の同窓会で、こちらも明治天皇御製である「よもの海」を引用されて、

  仇波の しづまりはてて 四方の海 のどかにならむ 世をいのるかな

を読み上げ、「この御製の精神が実現するように、あらゆる手段を尽くして絶対に戦争の不幸を避けなければならない」と断言されたそうです。ご自身の意見というだけでなく、昭和天皇のお気持ちを代弁されていたのでしょう。

こうした「御製」や「和歌」の読み取りは、通常の文章よりもさらに精神性が問われるものと思います。
詠む側ももちろんですが、受け取り手のレベルが低いと、読み取れません。

教育に関して、英語を小学校に入れるという話が検討されているようですが、それ以前に日本語の充実、漢字教育や古典について、もう少し何とかならないものでしょうか。

日本人は、読み書きも複雑なことを考えるときにも、日本語を使います。
日本語こそが大事ですから、まず鍛えるべきは日本語の能力です。

終戦のときの御製があります。

   身はいかに なるともいくさ とどめけり ただたふれゆく 民をおもひて

   爆撃に たふれゆく民の 上をおもひ いくさとめけり 身はいかならむとも

御製はおおみこころを表したもの、精神性の高さが現れ、ほんとうに素晴らしいと、あらためて思います。

その、平和愛好のご精神であった昭和天皇は、わずか四十四歳で連合国軍最高指令長官であったマッカーサー元帥と直接一対一でお会いになり、「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」とお話になりました。

そして、ご自身はどうなろうとも、「ほかの者たちに責任はないので許してほしい、国民が生活に困らぬように連合国から援助をお願いしたい」とお話したそうです。マッカーサー元帥はこの国最高の紳士であると感動され、その後、天皇陛下を東京裁判にといった話は立ち消え、皇室制度は守られて現在に至ります。

後に昭和天皇は、「自分の意を貫いたのは二.二六事件と太平洋戦争の終戦のときだけだった」と語られています。

平成二十九年十月十三日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ