歴史から抹消してしまった国防と国益 Ⅴ
―情報に踊らされ、亡国に向かう民族―

 日本の政治が、亡国に突き進もうとしている状況に、まったく理解できないでいます。今回の緊急事態宣言にしても、科学的・医療から見ても整合性にそぐわない政策を出し、自治そのものが崩壊に向かっています。日本政治は、いったい何を主軸にして自治をしているのか政治家自身も理解していないと見ています。必要以上に庶民の生活に規制をかけて大量の失業者を出し、どこに向かおうとしているか。政治決定だけが突如として現れ、おかしな政治になっています。オリンピックの無観客観戦の決定プロセスを見ても、いったい誰が決めて、どのようなプロセスでされたのか、ほとんどの人が知らないまま決まってしまいました。そして、多くの人は無観客試合をしたことで東京都に莫大な負債が残ることを知りません。いま日本の政治の闇は、顔の見えない独裁政治になり闇ですべてが決まっていくという恐ろしいことが起きています。政治家やメディアは、あれだけ税金の無駄使いを批判しながら、今回の件に関しては何も批判をしないというおかしな現状になっています。先日の都議会選では、無観客を推進する党、何の成果も出さない政党を支持するという不思議な選挙になってしまいました。舛添前知事や猪瀬前知事のときには、あれだけお金と政治の問題に切り込んだメディアは、今回に関しては何も言わないという奇怪な社会空間になっています。そして、敗戦後作り上げてきた大衆政治が民族の存続に繋がる政治だったのか、コロナ対策と絡めて見る必要があると思っています。

 先進国のほとんどは、脱コロナ政策に向かって経済の立て直しや国民のメンタル(安心・安全とうい心の問題)のケアーに政治の舵を切りはじめました。最初の段階として、視覚から入るスポーツ観戦やコンサート開催などを通常化に戻し、「コロナ恐怖」からの意識改革をはじめました。大衆が、マスクをせずに観戦ができるという映像を全国に流し、不安払拭と通常生活が出来ることを官民が一体となって安心キャンペーンをはじめました。北米のメジャーリーグやヨーロッパのサッカーリーグは、普通に観客を入れてマスクなしで観戦をして、大衆が楽しんでいる姿を全世界に流しはじめました。日本だけが、不安を煽るような報道をして、いまだに恐怖心を植え付けていることばかりをしています。
 なぜ、東京五輪で有観客を推奨するのか。今回の五輪は、世界に対して日本の国力と感染対策の成果を見せる絶好の機会でした。2021年は、世界の秩序が大きく変わり歴史的な分岐点になる新しい時代の始まりだと思っています。多くの日本人は、目の前の生活やコロナの感染ばかりに気を取られていますが、世界の人はこれからの時代の不安と不信の中で、何を人生観の柱にするのか迷走をしています。国レベルでは、景気回復と通常生活復帰を掲げた民族生存競争に移りつつあります。国際世界は、水面下で自国のマネーによる負債(1年半、まともの経済活動が出来ず財政で補っていた部分)をどこに押し付けて、国を立て直していくのかという国家存亡のプロジェクトが密かにはじまっています。今回、欧州やアメリカが対中政策を明確にしたのは、その1つでもあります。日本国だけが、大きな全容がつかめずいまだに都政対国政や与党対野党という、内ゲバのような歪な政治構造を作っています。
 この1年半、日本での武漢熱対応は失敗の繰り返しでした。毎回、言ってきましたが日本は世界に比べて武漢熱による感染症被害はほとんどなかったと言っていいほどの状況でした。しかし、無作為に行動規制をして飲食や旅行の自由を奪い、自らの手で国を貶めることばかりをして、経済の低迷と民族の分断化をしてしまいました。コロナ発症後の日本の政治は、日本独自の研究データや分析をするのではなく、欧州や北米に追随をして欧米政策をやり、日本の現状とはまったく整合性の合わない政策を続けてきました。それにより、国内を分断(他府県からの人を受け入れない空気)し国力の弱体化を自らの手で作ってしまいました。これは、国家として体を成していない現状を自らの手で作ってしまい国益を損ねてきました。そして、知識人の多くはその意味を解らずに、政権批判とリベラル思想を掲げて歪な民主主義の作り上げてしまいました。
 「この東京五輪で、なぜ有観客にこだわるのか。」
 それは、世界に日本の国力(軍事力なしで国力があること)を見せる唯一の機会であり、感染症対策で上手くいった国であることを明確にする場であると同時に、その舞台が経済力も軍事力も度外視した平和の祭典という奇跡に近い状況を見せてアピールできたはずだからです。この1年半混沌とした社会に夢や希望が持てずに、迷走をして闇の中を走り続けたのが各国の現状です。そのときに、日本という国がアメリカや中国とは違った国づくりをして、覇権ではなく庶民が作る国家であることを示す大きな大舞台になったと思っています。このコロナ禍でもわかるように、文明大国と言われていたほとんどの国は、感染症で庶民生活が出来なくなり、国家として公衆衛生機能が出来ない事態に追い込まれました。日本は、公衆衛生においても世界にない高度なインフラシステムを持っていることを証明しました。そして、経済においても先進国の中では、さほど経済活動を止めないで切り抜けた国家です。(本来は、緊急事態宣言をしなければ国内が内需で沸いた経済政策も打つことが出来きました。)その大きな柱は、国家権力によって作られたものではなく、民間ベースの民度の高さによって作られた生活インフラでもあり、日本人の英知でもあります。その公衆衛生と民間経済を世界に示せば、Japanモデル(社会のあり方)が世界の中心になって、東京五輪後の世界秩序が変わるきっかけになりました。その大きな時代の流れを、都政の安易な決定によって千載一遇の機会を失ってしまいました。
 日本の政治は、ポピュリズム(大衆迎合)の中で動いてメディアが騒ぐことによって、政治が舵を切れない状態になっています。大衆迎合の怖さは何か? すべて過去に生活が向いていることです。武漢熱(コロナ禍)でもわかるように、世界は収束に向かっていても日本の大衆の恐怖心がぬぐい切れなければ、過去に引きずられて現状を変えることが出来ない政治しかできません。3ヶ月先や半年先の未来を描けない政治は、すでに政治ではなく大衆迎合です。敗戦後の日本は、民主主義はみんなの意見を取り入れながら、みんなで決めるという「得体のしれない全体主義」できました。しかし、その全体主義を中心に、未来を描ける人は何人いるのでしょうか? 大衆の殆どは、過去の恐怖や現状(前例主義)のことしか見えず、半年後や1年後の世界を創造する力はありません。政治というのは、未来を作り出すグランドデザインが仕事であり、10年後20年後の日本の姿を描き、法の整備を中心とした社会インフラを作るダイナニズムの仕事が政治家であります。
 いまの日本の政治家は、大衆に迎合することを政治として、過去に向かって仕事をすることと自分の当選のことしか考えないことが政治になっています。その政治は、全体主義を柱にして誰も結果責任を取らず、整合性にそぐわないことをしても許されてしまう国を作っています。それが、大衆政治の正体でもあります。後世に負債を負わし、いまの政治家は何一つ失うことはありません。現代の民主主義の怖さは、責任転嫁と成果を出さなくても問われない政治をしていることです。それは、都政によって証明されました。

 

―武漢熱の認識の違いが、社会に大きく影響をしている―

 なぜ、世界は回復傾向に向かっているのに、日本だけコロナに引きずられている社会になっているのか? ひとつには、政治家・医療従事者・メディアが欧州や北米とは違う価値観で見ているからです。武漢熱の一番の特徴は、高齢者が重篤化しやすく死亡者数が多いということです。それに加えて疾患を持っている人が、感染しやすく重篤化と死亡率が高くなるという特徴をもっています。逆に年齢が若ければ、重篤化しにくいという側面も持ち10~20代には、ほとんど害がないことも判明しました。その基本を踏まえたうえで、欧州や北米の感染対策ははじまりました。そして、被害が大きかったところは老人ホームや病院などで、それらの施設の公衆衛生と疫病対策を徹底的にしました。そのプログラムは、軍事プロジェクトに類似するような上からのトップダウン(国がガイドラインを引いて、地方に任せる。日本のように、地方自治だけに任せない。)での指揮系統でされていました。
 次に、優先順位に挙げたのが医療崩壊でした。感染症拡大が続けば、一般治療業務が出来ず庶民の不安につながり、医療から国が壊れていくことの懸念がありました。国家危機のプロジェクトとして、官と民が一体となって取り組みをはじめました。そもそもロックダウンをした背景は、感染拡大の抑止・公衆衛生の健全化・医療崩壊を防ぐという3セットが、官民の一体となった政策のひとつでした。 
 国策の中に、「民族・国家」生存のプライオリティが一番にあり、自由権よりも生存権を優位にした国の政策が明確にありました。国家が内部から崩壊する危険があれば、経済や個人の自由を制限して、生存権を優先する国家プロジェクトが政治の柱になります。通常時の100%の生活環境(自由権)を保障するのではなく、何を捨てて何を残すのか? そこから、官民の行動がはじまっていました。
 そして、欧州・北米社会はワクチン接種をすることで、感染の抑止になり国内からの崩壊が無くなったとして、政治は次の段階にステージにはいりました。先進国の殆どは、高齢者のワクチン接種率が半数を超えたことによって、感染拡大の恐れがないとみて通常社会に戻しているというのが、大きな流れになっています。そこには、「ゼロ・コロナ」という言葉を発する政治家もいなければ、医療従事者や学者もいません。日本のコロナ対応を見ていて不思議に思うのは、武漢熱を100%排除するという趣旨から入っているように思います。そして、メディアも「ゼロ・コロナ」を提唱する人たちを露出させ、世論形成を作り間違った認識を日本人に植え付けていきました。世界は、柔軟な発想と軍事オプションを絡めながら、官民が一体となって国家の存亡を第一のプライオリティとして、「ゼロ・コロナ」にするのではなく「治療と完治」というオプションを入れながら自治をしてきました。これが、北米や欧州の今回のコロナ対策の全容です。いま、なぜ日本よりも感染状態が酷かった国が、日本よりも早くスポーツ観戦やコンサートの通常化をしているのか? それは、高齢者が感染に巻き込まれるリスクが減ったので、通常社会に戻しても国難にならないというのが先進国の判断であります。

 

―力の分散から、力の終結―

 敗戦後の日本は、国難のときに国益ベースで動けない仕組みになっています。神戸の震災の時もそうでしたが、国が意思を持って国民を守るシステムを持っていません。そこには、国政と地方自治の統治機構の仕組みに問題があり、国が国家権力を使ってトップダウン(軍がするような上から下にする指揮系統)でのガイドラインを作ることが出来ない仕組みがあります。具体的には、国立病院と公立病院(地方自治体の公営)の指示系統が分断化されて、1つのガイドラインを作るのに時間がかかり、難しい構造になっています。さらに、公衆衛生は市区町村レベルでの保健所が担当することによって、都道府県管轄にある病院との連携が取りづらい仕組みになっています。そろそろ、無駄な統治機構を解体して作り変えて、次世代にあった仕組みに作り変える時期だと気付くべきです。
 それに加えて、私立病院は日本医師会が束ねる病院であり、国家政策のトップダウンで医療機関の一部になることはありませんでした。日本の大きな闇は、既得権益団体が国益とかみ合わずに国力を弱めている構造になっていることです。日本は、世界の中でダントツ病院数は多く、庶民が気軽に病院に通えるシステムを持っている希少な国家です。にもかかわらず、今回はなぜその医療インフラが機能しなかったのか? そこは、公共インフラの問題と日本医師会や看護師協会という既得団体が、国からのトップダウンでの指揮に従うシステムになっていませんでした。そして、その団体のトップが私的利益を追求して、国策とは違う医療業務を行って、国益につながる体制ではありませんでした。
 さらに注目をしたいのは、敗戦後作り上げてきた地方分権のシステムです。地方の首長を含めて、地方議会は国益という概念がない政治家が地方政治に携わり出鱈目な政治をしてきました。日本の弱点は、国家の危機になると国レベルでの指揮系統が明確にできず、公務員ですら有事の対応ができない仕組みがあることです。
 北米と日本を比較していて感じたことは、日本は国家レベルになると、すべてがバラバラに動いて力の分散化をして解決することも出来ないというおかしな国家に見えることです。今回でも、官の縦割り行政や官民が1つになりコロナ対応にあたれば、日本の医療機関は一瞬にして解決できたと思っています。その証拠にワクチン接種をみても、はじめは公の場所でしか打てなかったものが、職域接種や日本医師会の傘下で打てるようになったとたんに、あっという間に普及率が上がりました。今回のコロナ政策ではっきり言えることは、医療機関の二分化された状態でコロナ対応にあたったことです。(これを逆の意味で捉えると、統治機関がバラバラで二分化した医療機関でありながらも、日本の公衆衛生は、世界に負けない医療体制だったことは間違いありません。どれだけ日本医療インフラの層が厚いかが理解できます。)今回は、日本での武漢熱はさほど害がありませんでしたが、北米や欧州のように大量の重篤者や死亡者が出た場合、日本はもっとパニックになっていたと思います。それに加えて、新型コロナ感染症対策分科会の尾身会長や日本医師会の会長が、その事態になったときに解決できる策をもっていたかはすごく疑問であります。
 いまだに日本の感染対策は、メディアが作る加工情報(半分は真実で、半分はメディアが作る虚構社会)と政権批判をする情報に踊らされて、実体社会とはかけはれた政策ばかりが出てくるというおかしなものになっています。
 大手メディアが、東京医師会や尾身会長を批判したところはあっただろうか? そして、都政の感染対策を批判したメディアがあっただろうか? 力の分散化をするのではなく、力の終結をしていれば感染対策は、日本にとっては大きな問題にならなかったのではないでしょうか。
 これを突き詰めていけば、東京五輪の有・無観客の問題にも繋がっていきます。国際レベルでの開催決定は、4~5カ月前に決めることが常識であります。なぜ、半年前に政治を預かる者や見識者や医療関係者は英知を集結して国益につながる策を出さなかったのか? それは、日本の英知をどのように使うか試された場でもありました。いまも、日本には大きなチャンスが眠っています。いまからでも閉会式は、有観客にして五輪を締めくくるべきだと思っています。

 

―蛇足ながら、Vancouverの現在の状況です―

 メディアは、ワクチン接種をした意味はどこにあるのかを、北米並みに報道をするべきだと思っています。いまだに、感染者数ばかりを取り上げて、大きな事件であるかのような報道をしていますが、交通事故を毎日報道して車が危険だと報道をするのか? 日本のメディアのおかしなところは、重篤者か軽度の感染者かを明確にしないことです。そして、年齢による感染者の比率を明確にしないことです。すでに、カナダやアメリカでは感染者数を大きく取り上げて報道はしていません。むしろ、焦点は規制をどのように段階的に解除をしていくのかが、大きなトピックになっています。9月には、アメリカとカナダの国境を開ける準備に入っています。両国民の関心は、いつ庶民生活を正常化にするのか、そこに関心があります。官民一体となって、国益(庶民の生活安定・通常生活の復興)をどうするかの政策に舵を切って世界は動いています。


 この写真は、Vancouverの繁華街の様子です。段階的に規制を緩和しているので、レストランも通常運転に成りつつあります。Step3(前回に説明あり)になり、従業員はマスクをしていますが、客として入った場合にはマスクなしで飲食をしている状況です。半年前までは、街は閑散としていましたが、いまはコロナ前の状態に戻りつつあります。 
 日本の緊急事態宣言は、世界の大きな流とは違っていることに日本人は気づくべきです。過剰に恐怖心を煽るような報道や国家規制をして、民間経済の圧迫をすることが日本の国益にはつながってはいません。カナダの方が重篤な状態だったにも関わらず、規制緩和は日本よりか緩めている実態を多くの日本人は知らなくてはいけないと思います。メディア報道を見ていても、恐怖を煽るような情報ばかり流して日本人を萎縮させ情報による洗脳をしているようにすら映ります。いま、日本人に必要なのはコロナ恐怖からの潜在意識からの脱却です。今風の言葉で言えば、昔のデータをアンインストールして新たなデータを再インストールすることが、日本人が一番にしなくてはいけないことだと思います。