<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十回

積哲夫の問い

幕末から西南戦争に到る過程で、現実の戦いに日本の精神界の関与は、基本的になかったというのが、私の知るところなのですが、唯一の例外が、西南戦争時の桐野利秋に伏見稲荷の狐の一隊が協力していたという話があります。実は、眷族であったこの狐の霊体が、精神界的な話でいうと西南戦争の死者と共に、どこかに保存されていて、今回の桐野利秋の復活に合わせて、この世界に戻ってきたようなのです。このリーダーが、どうやら小狐丸と呼ばれる狐らしいのですが、伏見稲荷の参戦について、知らされていることがありますか。

 

マツリの返信

桐野さんには、逸話や伝説化した話がたくさんあります。その中のひとつに「戦場に出る時には伏見稲荷の御神体を背負っていて、その活躍は神がかりのようだった」という話があります。また、この話とあわせて「坂上田村麻呂の子孫であると称していた」とよく語られているようです。幕末の志士たちが京都で活動した範囲が、伏見稲荷神社や坂上田村麻呂ゆかりの清水寺に近い場所だったので、こんな話が人びとにおもしろがられ、伝えられてきたと思われます。

実際に桐野さんは京都との縁があった人で、文久二(一八六二)年から慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いの頃までの六年間、主に京都で活動していて、なじみになった人たちも多くいたようです。坂上田村麻呂の子孫というのはともかく、伏見稲荷との縁はもしかすると本当の話かもしれません。というのは、西南戦争で桐野隊が善戦した場所には、お稲荷さんの眷属の狐たちが残っていたからです。伏見には薩摩の屋敷がありましたし、御神体を背負うのは無理でしょうから、桐野さんが伏見稲荷の御分霊のようなものをお守りとして身に着けていた可能性はあるかもしれません。狐たちによると「維新には、伏見稲荷の御加護を受けていた本当の篤志家たちの支援があった。人とモノとお金と一緒に、情報は運ばれていくもの」だそうです。

日本の精神界で現在も進行中の「日本を護るためのハタラキ」には、狐や龍神さんのような眷属たちもたくさん参加しています。その中に『神狐隊』という狐(神狐、シンコ)の部隊があって、伏見稲荷から御分霊を受けた福井県美方郡美浜町の城山稲荷(じょうやまいなり)が人間世界の窓口になっています。この狐たちは、日本が大好きで、狐なのに人を化かすことが嫌いな正直ものばかりで、「日本をよくするために、人間と一緒に一生懸命にはたらくこと」を本分としています。

狐たちが、城山稲荷さんをとおしてあらわれたのは2016年7月初旬でした。光のエネルギーで復活したこの狐の中に、戊辰戦争のことを知っているものたちがいました。彼らは、たすきがけに手甲脚絆という当時のいでたちになって「自分たちもはたらきたい」という意志を告げたので、それが天に認められて神狐隊と名付けられました。

熊本の山鹿方面は、西南戦争で桐野さんたちの隊が善戦をしていながら田原坂での敗戦によって撤退した地域です。撤退が決まった時「自分たちは負けていない」と言って、隊士たちが非常に悔しがったという話が残っています。山鹿に残っていた狐たちは、神狐隊の登場にあわせて復活して、合流していきました。

神狐隊のリーダー格として扱われているのは、小狐丸(こぎつねまる)という白い狐です。本来は護身(守護用)の剣に宿る霊狐の系統だったと思われるのですが、謡曲「小鍛冶」に歌われ、名刀の伝説がいくつも残っています。奈良県の石上神宮と東大阪市の石切剣箭神社の所蔵刀にも、小狐丸という剣があります。

狐たちが神狐隊となってはたらいている背景には、日本が危ないという切迫した危機感があります。積さんから「日本にいる稲荷の神の眷属である狐は、古代エジプトのアヌビス神の系譜を引いている」とうかがったことがあります。だとすると、富だけでなく、知識や情報をつかさどり伝達する役割を担っていたと考えられます。人間の近くではたらく眷属である狐たちの動きは、日本で切迫している危機は私たちの身近にもあることを示しています。

幕末・維新期は、朝廷と幕府と諸藩の間で行われた情報戦の時代で、動乱や戦いはその結果として起きたという視点からたどると、江戸時代と明治の前半はひとつづきの歴史として見通すことができます。その中で西郷さんと桐野さんも活動していて、西南戦争で敗れたものの、なにかの理由があってこの時代に復活することになったところに精神界の大きなプログラムの一端があって、それがわかるような時代が始まるようです。