<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十六回

精神界の物語「西南戦争紀伝」

<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十五回から、まもなく一年になります。久しぶりに、西南戦争の情報が届きました。西南戦争と、死から復活した薩軍の物語は「西南戦争紀伝」と名付けられて精神界に存在し、今もまだ進行しています。精神界のルールでは、物語は読み終えられなければ、終わりを迎えることはありません。「西南戦争紀伝」はようやく終わりが見えてきたようです。そこには、生きている人間には考えもおよばない物語があります。これまで人間が作ってきた『過去の結果として現在と未来が存在するのが歴史』という常識が壊れてしまう展開が起きています。

歴史に「もしも」はありません。けれど、死んで霊というものになっても、生前と同じように自分の信じたことに忠実に、役割を果たすために、はたらきつづけている人が存在します。精神界から「彼らが果たそうとしている役割は、今の日本、これからの日本にとって、とても重要な意味を持っていることを知ってほしい」という伝達がありましたので、<明治百五十年に、何が終わるのか?>のつづきとして、記すことにしました。

明治十(一八七七)年四月十五日、西南戦争で薩軍は、熊本城にあった陸軍の熊本鎮台の攻略に失敗しました。薩軍の失敗は、熊本城攻略にこだわって北九州の小倉に早く進軍しなかったことだと、後世ずっと指摘されてきました。

<明治百五十年に、何が終わるのか?>の第六、七、九回では、薩軍が熊本鎮台の攻略に失敗してからの退却の経緯を、前後の歴史との関連で考察してみました。西南戦争で薩軍が進んだルートを地図上に引いてみると、九州の島の真ん中に8の字を描いたような不思議な図形になります。勝機と進路を失って追い詰められていく様子が、明治から昭和期の日本軍が迷走して敗戦にいたるまでの型のようにも見えます。

二千十八年になって、精神界から届いた「西南戦争紀伝」の物語では、後世の指摘のとおり、やはり西郷隆盛と薩軍が取るべきだった道は「熊本城は攻略せず小倉」になっています。そして「小倉から大阪、東京を一気にめざすのが唯一の道」です。このことは、死から復活して光の軍になった、薩軍のなかでも精鋭だった少数の人たちが迷うことなく小倉・大阪・東京と進んで行ったことからも分かります。

ここまでは、光文書やこれまでの<明治百五十年…>で、すでに記録されていることです。

 

精神界の「西南戦争紀伝」には、もうひとつの物語として『東京へ進み、西郷隆盛は陸軍大将としてすみやかに全陸軍へ号令を発する』というシナリオが記されていました。もしかするとこれが、ただ一人の陸軍大将としてその時西郷さんが、本当は果たすべき役割だったかも知れないのです。

精神界にこの「明治十年の日本の陸軍大将、西郷隆盛の役割」というシナリオが存在していることを知った時は、納得したものの、公開することは考えていませんでした。けれどしばらくしてから、これまであまり存在が感じられなかった官軍側だった人たちが「西郷隆盛陸軍大将の号令」というものに好意的な反応を示していて、霊としての存在の様子に変化が見られたことと、そこに薩軍の一部の人たち、特に三番大隊長の永山弥一郎のはたらきかけがあることと、精神界の意図がはたらいていることがわかったので、公開することにしました。

この「西南戦争紀伝」のシナリオと、霊界の存在の反応がしめしているのは、国内での不要な争いによって優秀な人材が失われることを防ぎ、そして意思の統一がはかられ、国の財産をまもるための道です。

永山弥一郎は、西南戦争で兵を起こすことを最後まで望んでいなかった人物です。大激戦地の御船で戦い、官軍が熊本城に入城する直前の四月十二日に自害しています。そして、いちばん最初に西南戦争の戦跡へ案内してくれた存在でもあります。永山は信じるところがあって、なにかの役割を果たすために霊界に残っているようです。「西南戦争紀伝」のはじまりと終わりを見届けようとしているのかも知れません。

明治百五十年目になって、西郷さんが頼りにしていたのはまず二番大隊長だった村田新八、次に一番大隊長だった篠原国幹だったこともよく知られるようになりました。現実の世界と精神界の物語は、多層・複層に配置されて複雑に展開しています。

彼らの志は消えることなく、存在の場は精神界にうつされて「西南戦争紀伝」という物語になりました。そこには、はじめてしまった物語をきちんと結ぶまでが役割であることを知っていたたましいが存在しています。現実の世界では果たされなかった、本来用意されていたものを伝えることがそのひとつの目的であるとするならば、考えつづけてきたひとびとが正しいと分かる解答が、精神界のどこかに用意されている可能性が出てきます。