<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十三回

積哲夫の問い

私の知るところでは、西郷隆盛の「みたま」、または「たましい」は、その他の薩軍の兵士たちの霊が光の存在に変わり、次の時代の活動をはじめるのを見届けると、光の領域に上がることなく、たぶん、自らの意志でどこかに去りました。それは、自分の罪の再認識のためでもありましょうが、何か、し残したことがあるためなのかもしれないと私は考えています。平成三十年末に、今上陛下がその座を去ることが決まっています。私の印象では、この平成三十年末をもって、明治百五十年の区切りが精神界において何らかのかたちでなされ、日本列島上にあるはずの時空の一貫性が回復されるのでは、という期待があります。そこにいま行方がわからない西郷の「みたま」の役割があるとしたら、それは何なのでしょうか。これに関して、精神界からの伝達がありますか。

 

マツリの返信

残念ですが「西郷隆盛のみたまの役割」について、今の時点では精神界からの情報はありません。「西郷隆盛を知るには、島津斉彬を知らなければ…」というヒントのようなものをもらいましたので、島津斉彬と西郷さんのことを書いてみたいと思います。島津斉彬は、幕末に三百諸藩一の名君といわれ、西郷さんが生涯ただ一人の主として、仰ぎ仕えた人です。

島津家二十八代当主、鹿児島藩十一代藩主の島津斉彬(なりあきら)は、文化六(一八〇九)年九月に斉興(なりおき、十代藩主)と正室周子(かねこ)の長子邦丸(くにまる)として、江戸の芝藩邸で生まれました。母の周子は才女として知られ、三人の子には乳母をつけず自らの手で育てるなど、賢母として名高い人でした。斉彬は幼い頃から賢く、書や絵画、武道にもすぐれ、曽祖父の重豪(しげひで、八代藩主)に大変かわいがられて育ちました。重豪の娘の茂姫(しげひめ、広大院)は、十一代将軍徳川家斉の御台所で、重豪は将軍の義父として幕府政治にも影響力を持っていました。幕府への世子(跡継ぎ)の届けは、文化九(一八一二)年邦丸四歳の時に出されました。斉彬と改名したのは、文政七(一八二四)年十一月です。

斉彬は若い頃から「外様の大大名であるのが惜しい、小大名なら老中にして国政をまかせられるのに」とうわさされたそうです。世子の立場で、藩政や国政の改革にも積極的に参加していましたが、父の斉興がなかなか隠居をせず、異母弟の久光との後継問題もあって、嘉永四(一八五一)年二月に藩主になった時には斉彬は四十三歳になっていました。

安政元(一八五四)年、西郷さんが二十六歳の時参勤交代の随員に加えられ、四月に江戸で斉彬から「庭方役」を命じられました。これから斉彬が亡くなるまでの四年間、西郷さんは斉彬の下で諸事に奔走しました。この四年間が、西郷さんにとってもっとも幸せな時期だったかも知れません。安政三(一八五六)年十二月の十三代将軍徳川家定と篤姫(のちの天璋院)の婚儀でのお輿入れ道具の調達、将軍後継問題での諸藩や大奥への周旋などで、西郷さんは斉彬の意を受けて各方面への使者をつとめ、その中で広い人脈を得ました。家定と篤姫の結婚で、斉彬は将軍の義父となりました。なお、斉彬の隠密役をつとめていた他の人物がいたことがわかっていますので、庭方役と隠密役は別の職になります。

婚儀から約一年半後の安政五(一八五八)年七月六日に徳川家定が亡くなり、十六日には斉彬が帰国していた鹿児島で急死しました。西郷さんは、斉彬の命を受けてひと月ほど前に鹿児島を出発し、畿内の情勢をさぐるために京都にいました。死の知らせを聞いて、帰藩して殉死することを考えていた西郷さんに、主の志を継ぐようにと諫めたのが清水寺成就院の僧で、近衛家の祈祷僧をしていた月照(げっしょう)でした。近衛家と島津家は、鎌倉時代から縁のある間柄です。

九月に入ると幕府の取り締まりが厳しくなり(安政の大獄)、近衛家から月照の保護を依頼された西郷さんは、ともに鹿児島へ向かいました。幕府から追われている月照の身を藩は受け入れず、船で日向へと向かうように命を受けます。これは暗に、月照の殺害を命じたものでした。途中で、月照と西郷さんは海へ身を投げました。引き上げられましたが、月照は死亡し西郷さんは蘇生しました。藩は二人とも死亡したと幕府へ届けを出し、西郷さんは改名して奄美大島で潜居することになります。この時に、菊池源吾と名乗るようになりました。奄美大島では約三年間暮らしました。

斉彬の死後、遺言によって久光の子の茂久(もちひさ、のちの忠義)が十二代藩主になりました。久光は、あくまでも藩主の父という立場で、藩政や国事に関与することになります。西郷さんは、文久二(一八六二)年二月に鹿児島へ呼び戻され、この時に大島三右衛門(三助とも)と改名しました。ほどなく久光の命に背いたとして六月に徳之島、さらに沖永良部島へ流罪になります。この時、村田新八も喜界島へ流されています。元治元(一八六四)年二月に再び鹿児島に呼び戻されてからの活動が、多くの人が知る英雄西郷隆盛の話です。

このように斉彬が藩主になったこと、そのわずか七年後に急死したことが、西郷さんの人生の大きな転機になりました。主の死のあと月照と海に身を投げた時に、西郷さんも一度死んでいたようです。島津斉彬が「西郷という人間は難しいので、自分でなければつかうことができない」と語ったといいますが、そのとおりで一筋縄ではいかない人なので、名実ともに大きな斉彬の器によってまもられ進む道をしめさなければ、西郷さんをよくいかすことは難しかったと考えられます。とはいえ、個人のたましいの物語なので、精神界のルールにしたがって人間心での詮索は慎みたいと思います。

*島津斉彬の経歴は、『島津斉彬』芳即正著、『島津斉彬』綱淵謙錠著を参考にしました