<明治百五十年に、何が終わるのか?>第八回

積哲夫の問い

西南戦争の政府側の勝利によって、最も得をしたのは、いうまでもなく長州のグループだったわけです。とくに、山縣有朋は、これ以降、死ぬまで、陸軍内の長州閥のトップとして君臨することになります。

それとは別に、その頃の戦争は、戦う兵隊とは別に、軍夫と呼ばれる一般の民間人が、兵站、補給活動を担っていたとされています。この軍夫をコントロールしていたのは、江戸時代までは、街道の親分衆として人足などの束ねをしていた人間たちです。

こうした歴史の側面を見ていくと、明治政府と九州北部の炭鉱と西南戦争と長州人脈というのは、今の日本にも大きな残像を残していますね。これらのことについて、精神界から知らされていることがありますか。

 

マツリの返信

精神界からはこれまで、前回まで書いてきたように薩軍に関係する情報しか知らされていません。陸軍設立の過程と重なっている彼らの足跡は、山縣有朋の経歴と対比されるところが多く見られるので、そこから考察してみたいと思います。

 

王政復古から明治六年まで

慶応三(一八六七)年の末、王政復古で征夷大将軍が廃止され、明治二(一八六九)年五月の五稜郭の戦いで幕府海軍の榎本武揚が降伏したのち、七月に軍事防衛の担当機関として兵部省が設置されました。初代の兵部大輔は大村益次郎でしたが、間もなく同郷の長州反対派の襲撃によって負傷し十二月に亡くなります。後任は、同じ長州の前原一誠でしたが、翌三(一八七〇)年九月に辞職して帰郷しています。その少し前に、前年から軍制の調査のために渡欧していた山縣有朋が帰国し、兵部少輔を命じられています。前原一誠が辞職したのは、山縣有朋と対立したためだといわれています。

この間、西郷さん、篠原さん、村田さん、桐野さんは鹿児島で藩政や藩の常備隊にたずさわっていて、中央政府には出仕していません。

四(一八七一)年二月、天皇の御衛兵として薩摩・長州・土佐の三藩の士族からなる御親兵が編成されることになり、四月には鹿児島藩主島津忠義とともに、西郷さんと常備隊も上京します。御親兵約一万人の武力を背景に、七月十四日に廃藩置県が断行されました。

廃藩置県によって、知藩事(旧藩主)は免職となり東京に居住することを命じられ、各藩の城郭と兵器は兵部省の管轄になり、藩兵も解散を命じられました。つまり、新政府が御親兵として直轄の軍事力をもつようになった一方で、各地の武士の棟梁たちが独自に軍事力を組織することが禁じられました。

廃藩置県の日に、山縣有朋は兵部大輔に昇任しています。七月二十八日に桐野さんは陸軍少将、篠原さんは陸軍大佐、八月一日に村田さんは宮内大丞を命じられています。

八月に四鎮台(東京・大阪・熊本・仙台)が設置され、この時に熊本城は鎮西鎮台になりました。なお、鹿児島城には鎮西鎮台の第二分営が置かれたので、西郷さん、桐野さん、篠原さんは鹿児島へ戻ってからも、西南戦争の開戦後まで陸軍に身分を留め置かれていたのではないかとも考えられます。

五(一八七二)年二月に兵部省が廃止されて陸軍省・海軍省になり、山縣が陸軍大輔につきます。桐野さんは、鎮西鎮台(のち熊本鎮台)の司令長官として赴任します。三月には御親兵が廃止されて近衛兵になり、山縣は陸軍中将と近衛都督の兼務も命じられています。七月には山城屋事件で山縣が近衛都督を辞任、西郷さんは近衛都督と陸軍元帥を命じられ、九月には篠原さんが陸軍少将になります。

山城屋事件とは、明治四~五年にかけて発覚した、貿易商による官金借り入れ流用事件です。長州の奇兵隊で山縣の部下だった野村三千三(のちの山城屋和助)は、維新後に横浜で生糸の商いからはじめて輸入貿易も手掛けるようになり、新政府の御用商人となります。兵部省(のち陸軍省)から借り入れた官金を事業資金にして、多額の利益を上げました。また山城屋は、陸軍省関係者に金を貸していたといわれています。

やがて生糸の相場が暴落して山城屋は損失を生じ、またフランスで大豪遊していたことが外務省に伝えられて嫌疑が強まり、司法卿だった江藤新平のもとで調査が進められました。桐野さんはじめ薩摩出身者が多かった近衛兵の間でも、山縣への激しい非難が起こり、山縣は近衛都督を辞任します。その後、西郷さんが近衛都督と陸軍元帥についたのは、陸軍省内と近衛兵をしずめるためでした。

陸軍省が貸し下げていた官金の総額は約六十五万円といわれ、返済ができなくなった山城屋和助は、五年の十一月二九日に関係書類を燃やした上、陸軍省内で自殺したために真相は不明となりました。なお十一月二十八日には、全国徴兵の詔勅(徴兵告諭)が発せられています。

六(一八七三)年一月に徴兵令が布告され、鎮台が名古屋と広島にもおかれて全国六鎮台になりました。依然、山縣への非難と長州勢と薩摩勢の対立は続いていて、四月に篠原さんは近衛局長官、桐野さんは陸軍裁判所長を命じられ、一方の山縣は陸軍大輔を辞任したものの、六月には陸軍卿となって陸軍省のトップにつきます。この間、五月に西郷さんは陸軍大将を命じられています。

征韓論争で西郷さんたちが官職を辞し、鹿児島へ帰るのはこの年の秋です。西郷さんは維新後まもなくから政商を嫌い、豪奢な生活をするようになった政府関係者を批判していました。山城屋事件での薩長の対立も、征韓論争に影響したといわれています。

山縣有朋は、このあと近衛都督と参謀局長を命じられます。そして、西南戦争では参謀として官軍を指揮しました。明治十一年頃、政府内で最も高給を得ていたのが役職を兼務していた山縣で、その額は月給で千七百円でした。

 

親分衆と軍夫たち

戦時には、軍需品や食糧を運搬したり、戦場で傷病者を運んだり死者を弔ったりするために多くの軍夫が必要になります。その人手集めや取りまとめの仕事は、親分衆が請け負っていました。この時代の有名な親分には、江戸の新門辰五郎、駿府の清水次郎長、京都の大垣屋清八などがいます。彼らはアウトローな人たちですが、ご公儀とは近い関係にあって、日ごろは土木工事や物資の調達、警備や取り締まりなどのお役目をつとめており、豊富な資金力と動員力を持っていました。

京都で会津藩の御用をつとめていたのが大垣屋清八で、その子分のひとりが会津小鉄です。会津小鉄は戊辰戦争に子分を動員し、戦死した会津藩士の弔いをするとともに、遺品を会津まで届けています。西南戦争後には、官軍の軍夫の用立てをした藤田組が賃銭の支払いで不正をしたとして軍夫たちとトラブルになった時、間に入って話をまとめています。

藤田組は、長州の萩出身の藤田伝三郎が軍靴の販売からはじめた会社です。のちに土木建設業や鉱業も手掛けるようになります。なお、西南戦争での官軍の軍夫賃銭は、延べ約二千三五万人分で一三〇六万円、戦費総額の三分の一を占めました。藤田伝三郎の甥は立憲政友会の久原房之助で、久原の義兄は鮎川義介です。

 

西南戦争と福岡

西南戦争の前後には、旧福岡藩士の中にも挙兵の動きがありましたが、薩軍との合流には失敗しました。彼らは、頭山満、平岡浩太郎らを中心に、明治十二(一八七九)年向陽社を設立、二年後に玄洋社と改称します。平岡の甥の内田洋平は、明治三十四(一九〇一)年に黒龍会を創立しました。朝鮮半島や満州に日本が進出する中で、玄洋社と黒龍会は表と裏でさまざまな活動を行っています。その主な活動資金は、筑豊地方の炭鉱の収益から出ていました。当時の福岡と山口の政財界は、強い結びつきがありました。

日清・日露の戦争によって、門司港と下関は大陸への玄関口として発展しました。そしてこの地域は、孫文と一九一一(明治四四)年十月の辛亥革命を経済的に支援するひとつの拠点となりました。

現実に開戦してしまった後の情報からは「西南戦争で薩軍が勝っていたら」というシナリオは考えにくいのですが、もし西南戦争が起きていなければ…、もしちがう形ではじまっていたら…、もし薩軍があのような負け方をしていなければ…、という方向から考えてみると、結果的に歴史はちがっていたはずで、玄洋社と黒龍会も生まれていなかったかも知れません。

大日本帝国が違う運命を選ぶことができる可能性があった分岐点は、このようにいくつかあったと考えられます。歴史に「もしも」はありませんが、ちがう可能性があったかもしれない、どうやったら別の選択肢を選ぶことができただろうかと考えてみることは、同じ歴史を繰り返さないために必要なことだと思います。