<明治百五十年に、何が終わるのか?>第七回

積哲夫の問い

西南戦争に関心のある普通の人間にとって、西郷さんの次に興味を持つのは、陸軍少将でもあった桐野利秋という人物のはずです。ところが、今回の復活劇のなかで、桐野利秋のみたまは、すくなくとも私のところへはコンタクトがありませんでした。熊本平野を戦場とした歴史的には城東会戦というものが四月二十日にはじまりますが、この時、政府軍は約三万、薩軍は約八千の兵力だったといわれます。薩軍の本営のあった木山(今の益城町)という場所にいた司令官の桐野は、北の大津地区と南の御船地区の薩軍の後退に伴い緑川上流の浜町(今の山都町矢部)に移動します。ここで、二千十六年に起きた、熊本地震の震源が、西南戦争の真の激戦地と重なるわけです。

この後退の後、西郷と桐野の行動が一体のものではなくなっていくのですが、この辺のことについて知っていることがありますか。

 

マツリの返信

桐野さんは、剣術の達人中村半次郎の名の方が有名だと思います。維新後に改名し、桐野利秋を名乗るようになりました。小説やドラマで描かれた「人斬り半次郎」のイメージは、本人と周辺の人たちの記録に残された人物像とは大きく異なっています。軍功をあげて有名であっただけ、多くの逸話や言説が作られてきたのかもしれません。

薩軍の復活後は、西郷さんとともに北海道から樺太方面、大陸の一部をまわっていたようです。その頃は軍装でしたが、やがて戻ってきてからは平服になりました。私が知った桐野さんは、親しみやすい気のいい人、ごく普通の鹿児島のお兄さんという感じでした。

 

桐野利秋の経歴

中村信作(半次郎)は、天保九(一八三八)年鹿児島城下のとても貧しい藩士の家に生まれました。文久二(一八六二)年、島津久光が率いた藩兵の一人として上洛し、青蓮院宮付の守衛兵になりました。以後京都を中心に活動し、多くの幕末の志士と交際があったようです。

明治元(一八六八)年の戊辰戦争では、鳥羽・伏見の戦いで藩軍一番隊、ついで東海道軍先鋒の先遣をつとめました。三月の西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城談判の際は、村田新八とともに次の間に同席し、総攻撃の中止を先鋒総督府に伝えています。八月には、会津若松に向かう日光藤原口官軍の軍監を命じられ、九月二十二日の会津若松開城と城の受け取りに新政府官軍の代表としてのぞみました。儀式での振る舞いと会津側への処置は、寛大で温情に満ちたものだったと伝えられています。十一月には鹿児島へ戻り、常備隊の一番大隊長になりました。戊辰戦争の軍功として、賞典禄二百石を賜っています。

なお、慶応三(一八六七)年九月から十二月の本人の日記が残されており『京在日記』と呼ばれています。また、会津での戦報は『維新日誌』に「鎮守府日誌」としておさめられ、どちらも栗原智久編著・訳『桐野利秋日記』で読むことができます。

 

明治四(一八七一)年に御親兵が設置されると大隊長として上京し、間もなく兵部省に出仕して、士族出身者としては初めての陸軍少将、翌五年に鎮西鎮台(のちの熊本鎮台)の司令長官、六年に陸軍裁判所長を拝命しています。征韓論争の際には、副使として西郷さんに随行することを決意していたという記録もあり、政変後に辞職し鹿児島へ戻りました。

七年に私学校・賞典学校が設立されましたが、桐野さんはあまり関係せず宇都谷(うどんたに、鹿児島市本城町吉田付近)でひとり原野を開墾する生活をしています。そこでも蜂起を迫る各地の士族の訪問を受けたようですが、そのたびに時期を見るように説き彼らを抑えたといわれています。

 

十年の一月、政府船による弾薬兵器の運び出しと、それに反発した私学校徒の火薬庫襲撃を知らせる早馬の報を受けて宇都谷を離れると、もう戻ることはなく、四番大隊長として西南戦争におもむきました。緒戦は、南関に近い山鹿(熊本県山鹿市)で戦って官軍を苦しめましたが、田原坂の敗戦をうけて山鹿から撤退、以後は諸隊を率いて各地を転戦し、鹿児島城山で戦死しました。その後、桐野利秋は西南戦争の首謀者あるいは敗戦の責任者であったかのように、人々に記憶されていくことになります。

 

西南戦争と熊本

二千十六年四月十四日夜と十六日未明の二度、熊本で大きな地震が発生しました。十四日に地震の速報を伝えた映像は、熊本城天守閣が揺れて、砂煙があがる様子をとらえていました。くしくも、四月十四日は官軍が熊本鎮台(熊本城)との連絡に成功した日、十五日が入城、十六日は本営を城内に移した日でした。

当時、鎮台の籠城はすでに限界の状態にあり、官軍は十五日入城を期して作戦をすすめました。南からの衝背軍が十三日前後の御船の戦いで勝利し、敗れた薩軍は熊本から撤退して本営を木山(上益城郡益城町)に移動しています。十二日には、この方面の司令官だった薩軍三番大隊長の永山弥一郎が敵に包囲される中で自害しています。

熊本から撤退するにあたり、桐野さんは殿(しんがり、軍の最後尾)をつとめています。食料や軍需品を残さず収拾し、その巧みさを官軍側も嘆賞したといいます。一方でこの頃から死を覚悟した様子が戦地の中で見られたため、周りが自重するように抑えていた様子も伝えられています。

鎮台攻略には失敗しましたが、依然薩軍は周辺の各所に展開し機会をうかがっていました。そして二十日から二十一日にかけて、熊本城東側の健軍(熊本市東区)保田窪(熊本市中央区)と、その周辺をぐるりと取り囲む大津(菊池郡大津町)、御船(上益城郡御船町)、木山でのちに城東会戦とよばれる戦いが行われました。中でも熊本入城後に薩軍が失地回復していた御船には、官軍の精鋭と狙撃隊が配置され、新たに編成されていた薩軍の死者が数百人に及び、その血で御船川が赤く染まったと語り継がれています。

なお、復活した薩軍の人たちの中で私がはじめて認識できるようになり、戦跡への最初の道案内をしてくれたのは、永山弥一郎でした。そのことからも、御船が西南戦争の勝敗を分けた場所だったことがわかります。御船での二度の大敗が、薩軍のその後に大きく影響していくことになります。

薩軍の本営は浜町(上益城郡山都町)へ移動して、人吉を拠点とする長期戦を計画するようになり、九州中央山地の険しい道を人吉へ向かう進路を取りました。薩軍は、西郷さんや村田新八が属する本営と、桐野さんたちが属する別動隊にわかれ、それぞれ別のルートで人吉を目指し、桐野さんの一団が先に人吉へ入っています。このあと、人吉からさらに退却することになる宮崎方面へも桐野さんが先行し、西郷札の発行をするなど現地での手配などをすすめていた記録が残っています。

なお西郷さんは、薩軍の中でも精鋭をそろえた部隊によって厳しく保護され、正確な所在地はわからないようになっていました。決戦が近づくと前日までには次の拠点へ移動を済ませ、前線からは離れた場所にありました。滞在先で、時々趣味の狩りをしていたという記録が残っています。当初から、諸隊を率いて作戦に当たっていた桐野さんは、ほとんど別の場所で行動していました。やがて敗戦に向かうにつれて、二人の行動が近くなっていったと考えられます。

 

敗軍の将

明治二十二(一八八九)年の西郷さんより遅れて、大正五(一九一六)年四月に桐野さん、篠原さん、村田さんも官位の追贈を受け、賊軍の名誉は回復されました。この時、西南戦争で薩軍の兵站の責任者をつとめ城山で戦死した桂久武、開戦時の鹿児島県令で戦後処刑された大山綱良、佐賀の乱で処刑された江藤新平と島義勇、萩の乱で処刑された前原一誠と奥平謙輔も追贈を受けています。しかし今も多くの人の記憶の中では、彼らや薩軍は賊のままであり続けています。

戦争、特に敗戦では誰かがその責任を問われ、責めを負うことを要求されます。西南戦争の記録をたどれば、彼ひとりの作戦による戦いではなかったとよく分かるのですが、人びとは桐野さんに敗戦の責任を求めたのではないでしょうか。西郷さんの存在が偉大であったことで、その傾向が強くなった面もあるかも知れません。また桐野さん自身も、多くの人を死なせた責任や罪は自認していたと思います。

 

征韓論と西南戦争のイメージに強い影響を与えてきたのは、黒龍会による『西南記伝』です。『西南記伝』は、明治四十二~四十四(一九〇九~一九一一)年にかけて、四十三(一九一〇)年の韓国併合の時期に出版されました。

『西南記伝』は、当時の政府が行った「日韓併合」に対して黒龍会が主張した「日韓合邦」の根拠や正統性を、征韓論議で下野し明治新政府と戦って敗れた西郷さんにおくという不自然な形で、全六巻が構成されています。

薩軍のみたまが二千十三年に復活したことと、今年に入って朝鮮半島の情勢が緊迫していること、明治の末に黒龍会によって『西南記伝』が出版され多くの人の歴史イメージを作ってきたこととは、精神世界のエネルギーが相互に関連していることが認められます。

桐野利秋の足跡を追っていくと、日本国内の戦いと世界の情勢は多重に相互反映していることがわかって、より幅広い視野から西南戦争を理解することにもつながっていくように感じます。

*桐野利秋(中村半次郎)の経歴は、『桐野利秋日記』栗原智久編著・訳(PHP研究所、二〇〇四年)を参考にしました。