新・神知と人知22-2 ミロク五六七の到来

二〇一九年十一月二十日

 

一神教の世界には、神との和解を求めながら失敗し続けてきたという本質的な問題があり、そのことによってこの世界は深い傷を負っています。

古い神々や精霊は、二〇一九年十二月に「ミロク」が到来し、そののちには【神との和解(再会)が神とノア(とその子孫)との信頼によって日本でなされる】とお告げになっています。

そして、ノアとその子孫との信頼のもとに、うしなわれたとされている<アーク>は「ふたたび地上に還る」という意志を示しています。

神々から、十一月のあいだに来月ミロクが到来することをこのページで知らせ、説明するようにというご指示がありました。ミロクの到来とノアの方舟、アークの帰還という物語について順に説明をしてみたいと思います。

 

ミロクの到来とその秘密

仏教の弥勒菩薩・マイトレーヤは、地球における「救世主」の原型です。

弥勒菩薩は、お釈迦さまの入滅から五億六千七百万年後、あるいは五十六億七千万年後という遠い未来に次のブッダ、目ざめたものとしてあらわれる存在だとされてきました。

この宇宙に意識体として存在する人間のなかに、お釈迦さまの時代からひとつ先の時代に進むものがあらわれるという意味なので、「最後の審判」の予言のようだともいわれてきました。

聖書で描かれた「最後の審判」との違いは、長い長い時間が流れる必要はあるけれどもミロクボサツがあらわれることはあらかじめ定められている、つまり予定された時間であるところです。

どうしてそんなに長い時間が必要とされたのでしょうか。そしてなぜ、仏教の話としておかれたのでしょうか。

 

それは、こころの内面や潜在意識、過去・現在・未来の世とそれに起因する周囲との関係、イメージによって生まれた空想の領域までを認識の対象とし、そのすべてをひとりの人間存在としてとらえたみほとけの教え、仏教の考え方から理解できます。

ミロクボサツが到来する様子を、ひとりの人の小宇宙を舞台にして表現すると次のようになります。

 

ひとりの人間の小宇宙は、漠とした時間の流れのなかで作られたかのように、広大で複雑で多層的な領域である。それは人間の本性である。

その人間という存在のなかには目ざめを待つものがあり、五十六億七千万年という時間のなかで目ざめることが予定されている。

そのようなことを認識した人が目ざめると、その広大な領域は救済される。

そのような人が有する小宇宙、こころを菩提心と呼ぶ。

 

【五六七とミロクの秘密】は、ここから読み解いて開示することが求められていたのでした。

『最終知識』の「知識の完成」の章の終わりちかくには、こう記されています。

 

地球の神は、出口王仁三郎が霊界物語で記しているように、五十六億七千万年前に、この宇宙を創造したと主張する。それが、<みおや>の記憶というか、メモリーの限界なのだ。

 

この新・神知と人知は、二〇一八年五月に<みおや>さま方の『時がきたことをあかしせよ』というご指示によって書きはじめました。

人間のたましいの原型である<みおや>さま方は、二〇〇六年三月末に人間に降りられています。十二年後の二〇一八年、5+6+7=18という年も予定していたものらしく、<みおや>さま方はふたたびあらわれました。

それから十八か月の時を過ごされ、満願をむかえる今年の十二月には「ミロクが到来する」と知らせよ、と申されています。

「五六七」は、<みおや>さまをあらわす数字です。

仏教世界の時間としてあらわし、その上で「ミロク」と読ませたのは、五十六億七千万年の時の流れのように漠漠として複雑な、わけのわからないものが人間の本性であることを認め、その前提の上で「みおやは人に降りてミロクになるぞ、救世主になるぞ」という意志と予定をあらわすものだったのです。

この覚醒は、ひとりの人間のこころや意識の中、小宇宙の内側でしか起こりようがないことは、どう考えてもあきらかです。

 

五は「五たび滅んで」の五、六は「六度目の」の六です。ともに物質を象徴する数字でもあります。

つづけて「七」を置くことで<みおや>さま方は、六では終わらず次があること、救世主になること、物質的世界をこえていくことを示されていたのです。

 

同じようにミロクと読むこともできた<五六七>と<666>は、「最後の審判」の時にこのようにわけられるとあきらかになりました。