<明治百五十年に、何が終わるのか?>第三回

積哲夫の問い

西南戦争に参加して果てた薩軍のなかで、西郷隆盛を別とすると霊的ヒエラルキーがきわめて高いミタマが、私には篠原国幹と村田新八という人物であったと認識されました。篠原国幹は歴史上有名な戦いとなった田原坂の近くで、戦死するのですが、明治六年の四月に千葉県にあった大和田原という地名の広大な入会地で近衛兵の演習があり、それを観覧した明治天皇が、演習の終った五月に、この演習を指揮した当時の陸軍少将だった篠原国幹に習え、という意味を込めて習志野と天皇自らが名付けたという伝説の人物です。復活した後の篠原国幹の動きについて知っていることがありますか。

 

マツリの返信

篠原国幹(しのはらくにもと)と村田新八(むらたしんぱち)は「日本人が真に世界に誇るべきふたりの人物」として、私はその復活にかかわった精神界の存在から教えられました。篠原国幹は「ひのもとが生んだ最高のもののふ」、村田新八は「明治日本の最高の知性」であったとも伝えられています。

ですが、歴史の教科書に彼らの名前は出てきませんし、残された資料も限られているため、どのような人物であったのかよく知られていないようです。

まず篠原さんの簡単な経歴から記します。ふたりの経歴をたどると、その人となりとともに、明治初期の日本がどうやって作られていったのかが浮かび上がってきます。

 

 

篠原国幹の経歴

 

篠原冬一郎(国幹)は、天保七(千八百三十六)年鹿児島藩士の父のもとに生まれました。藩校の造士館に学んで句読師となり、示現流の剣術も学んだ文武両道の人です。

寺田屋事件に連座して謹慎処分を受けますが、その後は薩英戦争や戊辰の役に薩摩藩軍の一員として参加しました。戊辰の役では、薩摩藩軍小銃三番隊長として、鳥羽伏見、上野黒門口、白河、会津若松城の戦いに参加して、賞典禄八石を得ました。

しかし、明治新政府への任官を断って帰郷し、明治二年からは鹿児島常備隊大隊長をつとめていました。

 

明治四年に御親兵が設置されると、その大隊長として近衛局に出仕します。五年に陸軍少将、六年には近衛局長官となりました。

明治天皇が、見事な指揮とその立ち居振る舞いに感銘を受けて「習志野」という地名をつけたのは、この頃のことです。当時の篠原さんの日記の写しがご子孫のもとに残されていて、財団法人西郷南洲顕彰会発行の『敬天愛人』第七号に「篠原国幹日記写」として掲載されています。そこには、

 

(五月十三日の午後十二時に宮内卿のお使いがあり)

御前ヨリ御呼出ニ付、出頭候処、過日下総国千葉郡平野ヘ為野営 御出馬ノ場所ヲ、御親筆ニテ習志原(ナラシノハラ)ト御名付、以来調練場ヘ被定置旨、御沙汰拝承候事

 

とその時のことが記されています。

 

同じ年には、近衛局参謀局長の下命もあったと帝国陸軍の資料に見られますが、それを拝命することなく、いわゆる「征韓論論争」で下野した西郷さんに従って鹿児島へ戻りました。

翌七年に、西郷さんたちと鹿児島で私学校を設立します。私学校は、銃隊学校と砲隊学校からなり、篠原さんは旧近衛兵約五~六百人を収容する銃隊学校の監督になりました。

なお鹿児島へ戻ってからも、西南戦争勃発後の明治十年二月二十五日に官位を褫奪(ちだつ)されるまで、陸軍大将であった西郷さん、同じく陸軍少将であった桐野さんとともに、陸軍にその身分が留め置かれていました。

 

西南戦争では、薩軍の一番大隊長をつとめ、北から南下してくる官軍の主力を阻止するため玉名方面(熊本県玉名市付近)で戦闘の指揮をとることになります。

西南戦争で最も有名なのは、三月四日から二十日まで激闘が続いた田原坂の戦い(熊本市北区植木町)ですが、そこから西に向かった先に吉次峠があります。峠からは周囲がよく見渡せ、鎮台が置かれた熊本城方面や有明海を望むことができます。峠一帯の地形は険しく入りくんでおり、両軍による塹壕戦が行われたことが見てとれます。

 

その吉次峠で、三月四日に官軍兵の狙撃を受け、篠原国幹は戦死します。四十二歳でした。

篠原さんは、部下の後ろからではなく自らが先頭に立ち、かけ声ではなく身振りによって指揮をしていたといいます。その特徴を知っていた官軍の指揮官が姿を見つけて、部下に狙いを定めさせたと伝えられています。今その地には「篠原国幹戦死の地」の碑が立てられています。

要衝だった吉次峠での両軍の攻防は、三月初めから約ひと月続きました。篠原さんを緒戦で失ったことは、薩軍側にとって大きな痛手だったと思われます。その戦死について人が問うた時、村田新八は笑って「天命尽きたり」と語り他に言葉はなかったと、熊本隊第一小隊軍監として西南戦争に参加した古閑俊雄の『戦袍日記』には記されています。

 

 

復活後の篠原国幹

 

私が復活した篠原さんの存在をはじめて認識できたのは、神武天皇伝承をもつある神社でした。口数が少なく、礼儀正しい人でした。居ずまいが正しく、周囲の空気までピリッと張りつめて緊張が満ちるような感じでした。

篠原さんの日記の写しが残されていることを知ったのは、それから数か月後のことです。職務とそれに関する出来事だけが、几帳面につづられていました。

一度だけ、私のイメージの中に、馬に乗った軍装の様子であらわれたことがあります。独特の威厳と風格があって大変立派でした。「一切の私心なく」という言葉を、体現したような姿でした。

 

復活後の篠原さんの動きを、私は詳しく知っているわけではありません。

とても不思議なことですが、復活した薩軍のみたまの集団は、すぐに自分たちが置かれている状況を理解し、まるで生前に果たせなかった西南戦争とその目的を完遂させるかのように、熊本から小倉、大坂、東京へと進行し、さらに海外へと渡って行ったようです。この過程で、一寸法師のように小さな人の形をしていた姿は、光のたまに変わっていきました。

この時、主に指導者としてはたらいていたのは、西郷さんというより、篠原さんと村田さんでした。このような振る舞いをしたたましいを、私はほかに知りません。死後のたましいに、それだけの行動ができるという想定もしていませんでした。彼らの気高い志とたましいのあり方が可能にしたことなのではないかと、受信者としてお伝えしておきます。

 

現在進行中の、日本人が失っていた誇りをとり戻していくひとつの物語の中で、この篠原さんのはたらきと、人間性、真のもののふとしての精神性が、大きな柱としての役割を担っているのは確かなことです。

西南戦争の薩軍は、過去の歴史の中では天皇に弓を引き賊軍として追われた立場です。しかし、真に国を憂い、天皇また市井のひとびとを思った気持ちと、力尽きるまで戦い抜いたその姿は、護国の精神そのものであったことを、明治から昭和の戦争を学んで、現代を生きている私たちは理解することができます。

 

日本に特有の存在である、ミコトの領域からは「篠原国幹はミコトの御剣を持っていた最後の人物だ」と伝えられています。一般には、天皇所有の剣のことを御剣(ぎょけん)といいます。ミツルギのことですが、スメラミコトの護り刀としての意味も持ちます。

明治天皇と習志野の逸話も、そのひとつのあらわれであったように私には感じられます。