幼稚園に子どもを送って、家に戻ってきたら、
私一人きりだった。
そんなことはわかりきっていたことだったけれど、
やっぱり全然わかっていなかった。
外出するとき、水筒と飴とタオルを用意しなくて
いいことに、違和感を抱いてしまう。
一人で外出しても、絶えずなにか忘れ物をしている
ような、そんな落ち着かない自分には、まだまだ
慣れそうにない。
順調に成長している我が子の姿が、とても眩しく感じる。
そして無条件に嬉しい。
でもやっぱり心のどこかでは寂しくてしかたがない
自分が、懸命に踏み止まっているのを感じている。
幼稚園くらいでこんな様子じゃ、子どもたちが本当に
この家から巣立って行ってしまったら、いかほどの
衝撃を受けるのだろうか。
ショックで寝込むのかな?(激痩せのおまけがついて
くれたら嬉しいな♪)
私の心に、義母のことがふと浮かんだ。
彼女もこんな気持ちだったのだろうか…
そして、その気持ちの処理のしかたをただ知らなかった
だけなのだろうか…
そう考えると、これまでの自分は、わかったようなことを
口にしていても、人の心に寄り添うこともできなかった
たいそう未熟な人間だったという結論に、自然と行きついた。
子どもの成長、万歳!
寂しい私も、万歳!
なぜだか今日はそんな気分なのだ。
今日は午後からかなりの時間をかけて、「悪意」をテーマにしたブログを書いていましたが、手が滑ってキーがF12を押してしまい(よくあることですが)、いつもはそれでもなんてことはありませんが、今日はなぜかこの画面も全て消えてしまい、この2~3時間の苦労が水の泡となりました。。
書いちゃいけなかったのかなぁ。
赤裸々すぎたのかなぁ。
自分では比較的よく書けたと思っていたので、余計にショックで、こうして未練がましくまたタイピングしています。
一つだけ書きたいのですが、私はこれまで「悪」というものを知ることに対して、やはり恐怖心があったのだということがわかりました。
君子危うきに近寄らず。
どこかでそんなふうに感じていました。
「悪気はなかった」と弁解する人が、これまでの私は大嫌いでした。
悪気がない?そんな言い訳が通用すると思っているの?
悪意に満ちた人に限って、「悪気がない」という言葉を
隠れ蓑のように使っているじゃないか!
と、怒り心頭でした。
しかし、自分の中にある悪意を認めないという「私は悪くない。悪いのは自分以外の誰かだ」という思考回路は、確実にこの私自身の中にも存在していたわけです。
だからこそ、他人の口を借りて発せられる
「悪気がなかった」
という言葉に過剰なほど反応していたのだとわかりました。
正直、私はデビル、サタン、ルシファーなどの違いさえもよくわかりません。
宗教によって呼び名が少し違うとか、位が違うとか、そういう問題なのでしょうか?
後で調べてみることにしますが、やはりこういうことを考えるたびに、自分の見識の狭さにガッカリしてしまいます。
先月、東京サロンでSBMを受けてきました。
インストラクターとしてきちんと活動するためには、まず自分自身のメンテナンスも必要だと感じたので、1か月に1回を目標に通うことにしました。
これまでは下の子どもが在宅だったので、外出もままなりませんでしたが、ようやく自分に時間をかけることができるようになってきました。
トリートメントはオーナー夫人にお願いしました。
私と同時期にお勉強を始めた方とは思えないほど、素晴らしい施術能力をお持ちなのです。
まずはフェイシャルから入っていただいたのですが、始まった途端、額にものすごい光を感じました。
ボディーのトリートメントに入ったら、自分の体からよくないものがビリビリでてくるのがハッキリわかりました。
そして間もなく、まるで全身が光の繭に包まれてしまったかのような快感!!!
私の文章力では表現できないような素晴らしい感覚です。
(日常生きていて、ああいう感覚に到達できることって、滅多にありません。。)
施術が終わった後も、しばらく放心状態になってしまったくらい、本当に素晴らしいトリートメントでした!
そのトリートメントの後、数日は体調がよかったのです。が、その数日後、揺れ戻しというか、自分の中の隠されていたモヤモヤが心に拡がってきました。
(例えて言うなら、金輪際見たくもない生ごみを袋に詰めて押し入れの奥にしまいこんでいたが、次第にその臭いに麻痺してしまっていたのを、正常な判断力を取り戻したことによって、その忌まわしい悪臭のを思い出し、ちゃんと処分しようと言う気持ちになったというのが、私の心情に近いと思います)
そのモヤモヤは、私のコンプレックスに由来していました。
自分はなんて無知なんだろう。
なんてバカなんだろう。
知識も教養も品性も人望も魅力もない、最低の人間だ…。
こんな人間が生きている価値ってなんだろう?
そんな思いに支配されそうになり、落ち込みました。
ただし、落ち込むには落ち込んだのですが、ズドーンと突き落とされた感じは全くありませんでした。
意識の一部は光に繋がっているようで、自己嫌悪する傍ら、もう一人の自分が
なぜ自分はこうなってしまったのか?
じゃあ、自分はどうしたいのか?
ということをしきりに考え続けるのです。
数日家に引きこもりながら、朝に晩に、食事の支度の最中とか、洗濯物を干しながらとか、折々にいろんなことを考えました。
その後に今度は自分の中から
それでも、私は生きている。これからも生きる。
私は自分を信じる。未来をあきらめない。
そんな思いが湧きあがってきました。
さながらパンドラの箱のようです。
これまでの私は、どうせ自分にはできないから、やらない。
自分はバカだから、きっとできない。
と思っていました。
精神学やSBMに出会ってからは、落ちてもギリギリのところでそれを打ち消すように「大丈夫、きっとやれる」という一条の光に助けられてきました。しかしそれが私の心の中で安定供給されるにはまだ程遠い状態でもありました。
、SBMを受けると、自分の中の揺れ戻しの幅が少しずつ狭くなって、安定した状態に戻れるのが徐々に早くなるなという気がしています。
あぁ、話がすっかり逸れました。スミマセン。。
で、不勉強の話に戻りますが、それを恥じた私は先日も光文書を読ませていただいた後にこんなことを思ったのです。
この世のからくりをきちんと理解するためには、宗教や神話、そしてヨーロッパの歴史というものを少し勉強してみようかな…と。
これまでの10年、私は大好きな読書をほとんど止めていました。
本が好きなので、読みだすと止まらなくなってしまう性質故、敢えて読むことから遠ざかってきました。
でもようやく一人の時間が持てるようになったのだから、これから少しずついろんな勉強をしてみたいという意欲が湧いてきました。
もちろん、残り時間があまりないので、やりたくないことに時間を割くのではなく、自分のやりたいこと、興味のあることから始めたいと思います。
歴史や宗教の勉強は、やってみて向いてなかったら止めればいいや!
再びそういうふうに思えるようになったのは、私には大きな変化です。
だって、なにもやらないで諦めるのと、やってみて、手放すのとでは意味が違いますよね?
私を臆病にして、抑え込んでいたものの追及も、ボチボチと続けて行きたいとは思っていますが、過去に捕らわれ続けるのではなく、これからの未来のために為すべきことのために、私はこれからの時間を多く使っていきたいと思っています。
今日は記事が消えてショックでしたが、転んでもただでは起きない中年パワーも発揮してみました。
特許とか、著作権とか、私はこういうものはいずれなくなる世の中が来ると思っています。
私がオリジナルだ!
真似された!許せない!
という争いは世に絶えませんが、本当のオリジナルなんて存在するのかな?と、これは私の見解です。
文章を書くにしたって、何かにインスパイアされているはずですよね?
上から降って来たものを、自分というフィルターを通して表現しているだけです。
少なくとも私はそう考えております。
フィルターを通したという責任はあるかもしれませんが、オリジナルだと主張することが、私にはできません。
さっきの記事にしても(削除はしませんが)要は、何を書いても、自分が辿りついた答えというのは、最終知識や光文書の領域を超えた試しがありません。
というか、最終ですから、越えられませんよね?
その先にある「最初知識」は、きっとこれからの全く新しい世代の方が、ものすごく先の世に記すことになるかもしませんが、私には見当もつかない内容です。
さっき書いた長文が、今になって猛烈恥ずかしくなったので、言い訳アップ。
前回の光文書(Vol.281)に「ヒトラーの予言」という言葉を見つけた後、以前私が訪れていたヒトラーについて書かれたサイトをもう一度アクセスしてみました。
そのページの内容は2~3回読んでいたのですが、改めて読み返すとほとんど頭の中から記憶が抜け落ちていたことに気づきました。
それでも「東方の巨大な実験場」という言葉はずっと残っていて、その言葉を初めて目にした時、あるビジョンが私の頭のなかに浮かんだことを思い出しました。
腰のあたりまで伸ばした、明るい茶色の長い髪。眉の上でパツンと切りそろえられた前髪。ネグリジェのような、裾がヒラヒラした膝上丈のドレス。内股の細く長い脚に、二ーソックス。腕にはフワフワしたくまのぬいぐるみを抱えて、射るような眼差しと、濃いチーク、半開きの口にはピンクの口紅。
その彼女は決して幼子であるわけではなく、20歳は超えているだろう大人の女性です。
20歳を超えた、いわゆる成人女性が前述したような姿で公衆の面前に現れたとき、性別や年代そして時代背景によって評価は大きく異なると思いますが、現代の日本においてはその姿を、「かわいい」「おしゃれ」と感じる大人が、少なからず存在しているわけです。
それから去年、ある遊園地へ家族で出かけた時、偶然にもその日がコスプレのイベントデイに当たっており、いろんなキャラクターの格好をまねた若い人たちがそこかしこを闊歩しておりました。
この方たちの大半は、どう見ても未成年ではないような方たちでした。第一衣装が物凄く凝っていて、これを製作するのにいったいいくら費用がかかるのだろうか?と、悲しい大人の性なのか、貧乏性なのか、そんなことばかり考えてしまいました。
子どもたちはといえば、大喜びで仮面ライダー(一般のコスプレライダーです!)と一緒に写真を撮ってもらっていました。
東方の実験場という彼(?)の予言は、果たしてこの日本という極東の島国に本当に存在する結果となったわけです。
*
昨日の光文書では「スライヴ」について書かれていました。
少し前にネットで騒がれていたことを思い出しました。
私は映画を見たいとは思いませんでしたが、その内容を文字起こししてくださった方のサイトで、映画の内容だけを読ませていただいておりました。
ネット上ではいろんな方が、この世の中のからくりを暴露したり、そのからくりをわかりやすく説明した動画などをたくさんアップしていらっしゃいます。
もちろん全ての内容を鵜呑みにしたり、その内容に感化されて怒りに飲まれてしまうことは、また別の問題構造に乗っかってしまっているだけだということは、光文書にもありましたが、意外にそういった罠もネット上には多く存在しているように感じています。
精神学に出会う前、こういった陰謀論の端っこにかじりついていた私は、これまで自分の中心基準にあったと思い込んでいた価値観そのものが、実は巧みに刷り込まれたものであったことに気づいてしまいました。まぁそれまではよかったのですが、同時に、言いようのない怒りを覚えたことも確かです。
イルミなんとかやら、なんとかソーメンやら、なんとかチャイルド。あぁ、もういい加減にして!というモヤモヤでいっぱいでした。
今思えば、そういう仕組みにまんまと騙されていた自分自身に怒っていたのかもしれませんね。
自分は悪くない。悪いのは私以外の誰かだ!という、お決まりのアレです。
そうやって私が怒りにまかせて悪の組織をどれだけ罵ったとしても、結局のところ社会に影響力もなければ、資産も全くない私一個人ではこの世の仕組みを何一つ変えることはできないし、お手上げ状態です。
あぁ、やっぱり自分は所詮ゴイムに過ぎないのだろうか?
いっそのこと、このまま騙され続けていた方が幸せなんだろうか?どうせゴイムのままなら、少しでも待遇のいいゴイムを目指すべきだろうか・・などなど。(←まぁ、これもあちら側の思うつぼな思考回路なわけですが)
そういう時期にリンクするように、私は精神学に出会いました。
でもつい最近まで、そういった世の中の仕組みと、その現実で暮らしている自分と、精神学で学んだことが、どうしても自分のなかでしっくりきていませんでした。
精神学は実学ですから、学んだことを自分の暮らしの中に生かすことができなければ、それは本当に学んだことにはならないだろうということがわかっていたからです。
*
これまで、自分は、そしてこの国は、この世界は、ずっとずっと騙されてきたんだ!ということだけはようやくわかりました。
しかしそれでも尚、私の中にある種の疑問がくすぶり続けておりました?
それは
「一体、なんのために彼らはそういうことをするんだろう?」
と。
「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」という言葉があるように、どんなに権力や富を集中させても、人間の寿命は100年もありませんし、1度の食事に100人前を平らげることはできません。百件の邸宅を所有しても、たった一つの部屋でしか眠ることができません。
なぜ彼ら(?)はこの地球を支配したいのだろうか??
なんのために??
何年もかかって(!)ようやく、もしかしたらこれがその答えに近いかな…と感じるようになりましたが、これまでの自分の中にある常識という範疇からはあまりにもかけ離れたものだったので、容易に受け入れることができませんでした。
頭でわかっていても、なんいかがしっくりこないのです。
しかし、「あぁ、やっぱりそういうものは確かに存在しているんだ」というような考えに至るきっかけとなったのが、前述したヒトラーの予言をまとめたページだったのです。
*
蛇足ですが、今回もう一度読み直してみると、そこに記述されている「神人」という言葉に目が止まりました。
「これってもしかして…」
なんていう想像をしてしまいました^^
*
話は戻りますが、東方の巨大な実験場にいる、永遠の未成年者集団について、以前の私は、コスプレをする若者や、かわいくておしゃれなものが大好きという若い人たちを指すのだと漠然と考えておりましたが、今となっては少し違っていたように思います。
日本の「かわいい文化」というものは、海外の若者たちにも受け入れられ、拡がりを見せているというような記事をネットで何回か目にしたことがあったからです。
ですから、可愛いものが好まれるのはけっして日本だけではないのだと思います。
日本のアニメのキャラクターは世界で大人気だということは、現在多くの日本人にとっては既知の情報です。
我が家の子どもたちに時々海外のアニメを見せますが、正直あまりウケません。内容的には面白くても、そのキャラクターのファンになるということがないのです。
2~3歳の子どもの大半は「アンパンマン」のキャラには飛びつきますが、リチャードスキャリーのハックルにはのめり込まないのです。(第一、私の感覚では、海外アニメのほとんどのキャラは顔が怖いのです。。)
私だって、おまけで何かが貰えるなら、確実に、スポンジボブよりもバイキンマンを選びます!
すみません、話がまたズレてしまいました。
アニメの話はまた機会がありましたら稿を改めます。
*
永遠の未成年者集団というのは、決して若者だけを指すわけではないということに気づくの遅杉でした。
むしろ年齢的には若者とは言い難い世代の中にこの「永遠の未成年者」が数多く存在しているのだと感じるようになりました。
またそこには「二極化」の予言も書かれていましたが、まさに恐ろしくらい、その内容が的中している現在です。
その恐ろしいほどの精度で未来を的中させる「あいつ」と、この世の中を支配しているラスボスも、なんとなく一緒なのか?という風に感じていますが、まぁ、それはまた追々調べてみたいと思います。
*
幼い子どもたちは折に触れ、「ねぇ、ママ。あれはどうしてなの?これはどうしてなの?」と、思考回路が詰まり気味の私を鍛えるかのように、どうしてなの?攻撃をしかけてきます。
その都度、わかることは(私の解釈で)説明し、ある時は「どうしてなんだろうね。ママにもわからないや」とさじを投げたり、「大きくなったらあなたがいっぱい勉強して調べて、どうしてなのかママに教えてね!」と激励(うまくかわす?)したり。。
今尚我が家でもその「どうして攻撃」は継続中なのです。
ところが困ったことに、
「ママ。お空の雲はどこからくるの?」とか「川の水はどこにいっちゃうの?」なんていう質問から、上の子供は最近「ママ、世の中ってどうして悪いことをする人がいるの?」とか、「どうして不公平なの?」とか「なんで飢えている人がいるの?」などなど、「ドキ!」っとするようなものに変化しております。
とりあえずは時間が許す限り、自分の本当の気持ちを子どもに話すようにしておりますが、最後に必ず
「あ、これね、学校で先生やお友達に言わないほうがいいよ!」
と付け加えています^^;
子どもは慣れたもんで
「わかってるよ!先生が○○ですって言ったら、信じていることにするよ!」
などと、処世術を身につけております(苦笑)
なぜ?どうして?という問いは、人間の基本的な欲求の一つなのだと、子どもたちの姿を見るにつけ、そなんことを感じます。
その問いかけから生きることの全てが始まるのだとも思います。
ですから、考えることを止め、知ることを(無意識であっても)拒否した人間は、その真ん中を乗っ取られてしまうなんてたやすいことなのですよね。
考えない人間=ゴイムこそ、まさに「あいつ」好み、ど真ん中なんでしょうね。
昨日までの大風から一転、今日は春らしい麗らかなお天気です。
4並びの今日は、すみれの節句ですね。
我が家のパンジーも大輪の花を咲かせています。
沈丁花のいい香りがあちらこちらから漂ってきます。
どんなに辛く悲しいことが起こっても、季節はだまって巡って
きます。枯れ枝が芽吹き、あちらこちらに花が咲く。
その自然の姿に触れるだけで、自分も前を向いて歩いていこう
というささやかな希望を持つことができるのは、やはり春なのです。
4月に入った途端に、私の気分も一気に「新年度モード」になって
きました。
今年の桜は開花が遅れているようです。この分だと、入学式や
入園式に、桜の下で写真が撮れそうですが、これが異常気象の
予告のようなものだとしたら、あまり嬉しくないですね。
今日は朝から上空を絶え間なく飛行機やヘリが飛んでいます。
また何かあったのかなぁ…などと、少し気になっています。
*
4月に入ってから毎日ミシンに向かっています。
子どもたちの入園と入学が重なるので、今回は作る量も倍です。
喜ぶべきことなのでしょうが、お裁縫が苦手な私にとっては
ちょっとした試練の春でもあります。
100%手作りでないといけないという決まりは、もちろんありません。
特に小学校になれば、サイズさえ合っていれば「なんでもいい」
という雰囲気です。
裁縫が苦手ならば、別に既製品にしてもいいわけです。
苦手なくせに、下手なくせに、それでも私は子どもたちに
手作りの品をもたせてやりたいと思ってしまうのです。これは
私の欲ですから、苦手でも自分で成し遂げるしかありません。
縫い目が曲がっていたり、取っ手の位置が少しズレていたりと、
とても人様にお見せできるような代物ではありませんが、
「世界でただ一つ、この子だけのバッグ」に、私の知らない
世界を広げていく子どもたちをどうかお守り下さいという
祈りに似た気持ちを込めて、これから続きを頑張ろうと思います。
*
先日、福島に住む友人から現地の近況を綴ったメールを貰いました。
胸にズシリと響くような重みを感じました。
私が住む東京だって汚染地域だと思っています。でも、やはり違っていました。
なによりも、暮らしている人々の気持ちに大きな違いがあると感じました。
放射能という言葉がタブーであり続け、その問題から目をそらし続ける限り、
問題は解決しないということを、私を含めた多くの人々がそれを自覚しない限り、
東北の人々の苦しみは消えることがないのでしょうか?
ブログを書き始めてから、私の頭の中で「Earth Song」がずっとリピートしています。
昨年のことでした。
自分の左足首に違和感を抱きました。
最初は、自分が太ったせいだろうと思っていましたが、
どう見ても、左足首の方が太いのです。
ある時触ってみたら、くるぶしのあたりにかなり
大きい腫瘍みたいなプヨプヨするしこりのような
ものを見つけました。
「水がたまっているのかな?」と思いました。
お医者さんに行った方がいいのかなぁと思いつつも、
医者嫌いの私はなかなか腰があがりませんでした。
しばらくして家人にもその話をすると、くるぶしの
ところを見て
「何これ!すごいことになってるじゃん!!」
と驚かれました。もちろん、即受診を勧められましたが、
家人から勧められると尚更行きたい気持ちになれません。
(ま、頑固なんですね、私)
その時、SEKI Consecrated Oil(黒)が目にとまり
ました。
大瓶を購入していたのですが、もったいなくてあまり
使っていませんでした。(頑固な上にケチ?)
そこで私は実験をしてみようと思いついたのです。
このオイルをくるぶしに塗って見る。しばらくしても
変化がなければ、そのときこそは腹を括って受診しようと
覚悟しました。
前置きが長かったので、結果を言いますと、その腫瘍の
ような水のようなプヨプヨしたものは、1か月もしないうちに
きれいさっぱり消えてしまいました。
そのプヨプヨは少なくても直径4センチくらいはあったので、
かなり大きかったと思います。
プヨプヨに気づいてから数カ月はほったらかしにしていたので、
一時的な症状ではありません。
家族では家人と一番上の子どもがそれを触って「何これ!!」
と驚いていたので、私の気のせいでもありません。
で、結果、プヨプヨは本当になくなってしまいました。
今も左足首にはその面影もありません。
(ま、残念ながら足首は太いままですけれどね)
30ml全部塗りこむつもりで実験に入りましたが、30mlどころか、
10mlも使っていないと思います。
*
それで、話は飛びますが、その後、今度は首の付け根の左横に
また腫瘍のような玉状のしこりを発見してしまいました。
それで、現在また黒SEKI OILで実験しています。
まだ始めたばかりなので、途中経過ですが、最初は体の中に
埋もれて固かったのが、オイルを塗りだしたら、しこりの全体
をつまんで確認できるようになりました。
(でも大きさはさほど変化ナシです)
くるぶしの時、直感的に「SEKI OILで治るのでは?」と
思いましたので、今回も治るような気がしています。
(病は気から?)
*
でも、私の気の持ちようとか、大げさな表現ではなく、実験
についてはありのままの事実を書いております。
(ま、いい加減なことを書いてもメリットがないどころか、
私の信用問題に関わりますから)
私は日用品でも食べ物でも、人に勧める時は(でも、あまり
勧めるのは得意ではありませんが)必ず自分が納得して
自腹でリピートしている時に限ります。
いただき物で、ちょっとおいしかったから・・・とか、試供品
をもらったらよかったから・・・というような段階では絶対に
オススメはしません。
それから、あまりオススメ自体をしないので、ちょっといいかな
くらいのレベルでも、やっぱりオススメはできません。
「これがないと、困る!!」レベルの商品で、初めてオススメ
する価値があると、頑固な私はそう思っています。
義理とか、つきあいとかで「提灯持ち」のようなことをするのは
私の信念に反しますから、これからも絶対にしません。
まぁ、本当にいいものなら、宣伝するまでもなく、必ず世の中に
受け入れられると信じています。
そして、本当にいいものなら、人は必ず自分のお金で購入したい
と思うはずです。
ですから、例えばお進物などをお届けした後に
「この前の○○、ありがとう!すごくおいしかった。あれから
私も注文しちゃった!!」と言われると、かなり嬉しいです^^
こういう頑固な性格だから腫瘍ができちゃうのかもしれませんが、
転んでもタダでは起きません!!人生とっくに折り返しています
から!
今日は皆さんに、昔アポロに乗った爺さんの話…
ではなくて、ちょっとしたお詫びをお伝えしたいと思います。
今年に入って、私は自分のブログ内容を簡素化し、文章短めにしますとお約束しましたが、日に日に掟破りな自分が加速しているのを感じておりました。
「犬のしっぽ」というブログをお書きになっている梶川さんという方の文章は、恐ろしく短くて、でも毎回「う~ん」と唸らされるようなものばかりです。
私には絶対に書けない文章。
それが短文であります。
もしかしたら和歌でも嗜めば、多少はマシになるかもしれませんが、あいにく今のところそのようなジャンルへの興味は一切ございません。
というわけで、いつもいつも撤回の多い、意志薄弱な私ではありますが、とりあえずこれからも柔軟な心をもって臨機応変に対応して参りたいと存じます(爆!)
芸のない私故、これからも芸のない自分を貫きます。
というのも、先日高倉健さんのインタビュー記事を某所で目にしたことが、きっかけになって今日は記事をアップしました。
>自分には、芸がないのだと思います。
中略
>芸がないことを、恥とは思っていません。むしろ、芸がないところで飯を食ってきたことは、自分自身のひそかな矜持(きょうじ)になっています。
さすがです。一つの道を長く極めた人だからこその言葉でしょうか。私も今歩んでいる道をとことんまで進み、いつかはその足跡にいくらかの誇りを感じられるようになりたいと思いました。
スミマセン。昨日のコメントを一度非公開にさせていただきます。
ホムペは作成途中でして、これからかなりの手直しを入れる予定です。
きちんと仕上がりましたら、ご報告いたしますm(__)m
先日、ちょっとしたきっかけがあり、「方丈記」を読んでみました。
昔々、古典の時間に習った覚えのある「方丈記」。
冒頭の「ゆく川の流れは絶えずして…」という箇所はあまりにも有名ですが、私の心の中にもその文章がずっと残り続けていて、この頃では、その箇所が頭に浮かんでくることがたびたびあり、いつか読み返してみたいと思っていたのです。
かなりの歳月を経て読み返した「方丈記」は、とても面白かった…というか、面白すぎました!
さすがに何世紀にもわたって読み継がれているだけのことはあります。
ちなみに昔の私は古典はあまり好きではなく、授業も退屈でしかたなかったという記憶しかありません。
でも、どうしてか、この方丈記の一文は頭の中から離れなかったのです。
*
話はスコーンと変わりますが、先日真ん中の子どもが卒園を迎えました。
そこで園長先生がお話された言葉に、私は思わず涙が出そうになってしまうほど感動しました。
その中には、聖句について触れたお話がありました。
「子どもたちは入園してからたくさんの聖句を覚えました。でもきっと少しずつ忘れてしまうでしょう。しかし何十年も経ったある日、突然この聖句を思いだす日が来るはずです。」
と、上記の内容は私の意訳ですが、そのようなお話をされていらっしゃいました。
その時に私の心にはふと「方丈記」の一文が頭に浮かびました。
その昔、退屈でしかたなかった授業です。作品の意味も価値もよくわからないまま、なんとなく暗記させられた文章でした。
そして歳月は流れ、古典作品なんか全く読む機会のない生活を続け、こうして家族を持って10年以上経ったある日、その作品と思いがけない再会を果たし、突然にそのよさがしみじみ胸にしみることは、確かにあるんだという経験をしていたからだったのでしょうか。
園長先生の言葉が、ことさら心に響いたのは…。
*
「子供だまし」という言葉がありますが、はやり私はこの言葉が好きにはなれません。
お子さま向けとかお子さま用などという商品やサービスにひどく落胆し続けていたことがありました。「子どもだからって、バカにするなよ!」という思いを胸に抱き続けながら、早く大きくなりたいということばかり考えていた子ども時代を過ごしてしまったような気がします。
むしろ幼いうちほど、優れたもの、本物に触れることが大切だと、この頃になってようやく自分の子ども時代を思い出すことができました。
本物と言われるもの、優れた美しさを持つものは、とても高価なものが多いです。弱肉強食の経済社会においては、本物により多く触れるためには、より多くの金銭を持つことがその近道になっています。
ですから私は、本当に優れたもの、美しいものがこの世の中にあふれた時、美しさが特別ではなく、ありふれたときに、それが本当の「御国」が訪れたサインだということを、今から自分の心にメモしておこうと思います。
「方丈記」については、また別の話として続きを書きたいと思っています。
この3月4月と、卒園、入学、入園と続けてイベントがある我が家、慌ただしい春の予感を感じております。
ようやく、これで本当に1人きりの時間が毎日確保されます。
いつも小さな子どもが私のまわりをチョロチョロ走り回っていた日々も、もう終わりが近づいております。
嬉しいような寂しいような、ちょっと今の段階では「本当に一人」という実感が湧きません。
どこかへ出かけたいなと思っても、これまではまず「子どもたちをどうやって連れて行こう」という問題をクリアしなければなりませんでした。
電車の中で騒がないように、着いた先でご迷惑をかけないように、服を汚してしまったら、途中で寝てしまったら、喉が乾いたら、怪我をしたら、雨が降ったら…などと、あらゆるトラブルを想定した準備を重ねると、マザーバッグはいつもパンパンでした。
そんな私もようやく小ぶりの可愛いバッグにお財布一つでお出かけできるようになるのです。
*
この頃、また少し子どもたちと自分自身のことについて考えるようになりました。
いつまでも「ママ、ママ」とまとわりついてくれるわけではないし、子どもたちは自分の好きな道を自分で選んで進むようになる日がもうそこまで近づいているんだ…と、頭ではわかっていました。
子どもは授かったのではなく、預かったのだと、これまで自分に言い聞かせて、子どもの生き方を邪魔するような母親だけには決してなるまいと心に誓っていたはずなのに…。
私は「親の愛」とか「母の愛」とかいう言葉の中に、自分の人間的な拙い欲を巧みに織り交ぜて、子どもたちの将来を無意識に支配し始めていたんだということに、つい最近気づかせていただきました。
子どもたちが生まれてきてくれた時「元気でいてくれたら、もうそれだけで十分だよね」と、夫と話し合っていたことなどすっかり忘れて、「ここがダメ、あれがダメ」と、子どもにダメ出しばかりをしておりました。
人として、よりよい人生を生きるために、私は精神学を学びました。今も学びの最中ですが、その学びから今現在得たことの一つに「どんな人間でも、精神学を学べば、必ずその人が生まれ持った本来の魂のプログラムを思い出すことができ、その役割を全うして生を終えるという『幸せ』を掴むことができるのだ」という結論があります。
当然我が子の本当の幸せを願うなら、その子どもの本来の魂の目的を果たすべくサポートするのが親の役割だと理解できるはずです。
それなのに、私は、一人勝手な、私の古い幸せ観を子どもたちに押し付けようとしておりました。
母親として、子どもたちを全力で受け入れよう。そういうふうに、これまで生きてきたというように思い込んでおりました。
でも実際は子どもたちが生きる道を妨害しようとしていたのだということに気づきました。
私は自分自身に問いかけました。
子どもたちに、一体どのように彼らの生涯を全うしてほしいのかということを。
そしてそれは考えるまでもなく、答えは決まっておりました。
私は一つ腹を括りました。
そして、彼らが私の元へ生まれ降りてくれた瞬間の気持ちをもう一度思い返しました。
彼らが私の元から飛び立っていくその日その時まで、彼らが羽ばたける力をなくさないように、全力でサポートしていこうと決めました。
*
この春、子どもたちの一つの成長の区切りにあたるこの時期にそのような思いに至ることができたのも、もしかすると自然の流れの一つなのかもしれません。
思い悩んでいると感じているのは私一人だけで、本当のプログラムは滞ることなく絶えず静かに流れつづけているのかもしれません。
今年の春は、我が家にとっても特別なものになるような予感がしています。
最近週末になると、家人と私と、どちらからともなく「明日どうする?」ということを言いだすのが常となってきました。
明日というのは、子どもたちを含めた家族全員での、土曜か日曜の過ごし方を指します。
去年からずっと、家人の休みが週1日しかない状況が続いており、大抵は子どもがらみの用事であっという間に1日が終わる…ということの繰り返しでした。
今年に入り、休みは少ないものの、マツリヌシとSBMの講習が終了したため、去年よりもちょっぴり家族ででかける余裕が持てるようになりました。
そこで、どこかへ出かけようかという話になるのですが、行先に毎回苦労しています。
8歳から3歳までの子どもがもれなく楽しめる場所って、私には公園か、ショッピングモールくらいしか思いつきません。
それで、週末はそのどちらかで過ごすわけですが、この頃では子どもたちに公園ブームが来ているようで、一年で一番寒い季節にも関わらず、公園遊びを余儀なくされております。
先々週は池袋、先週は小金井、今週は上野に行きました。
上記した場所のエネルギーをちょっと想像しただけで、残念ながら私には好ましい感じが一切しません。
毎日せせこましい場所で暮らしているせいか、子どもたちは広い空間に出ると、大はしゃぎです。
昨日も動物園や不忍池で遊べて、大満足の様子でした。
一方私と家人は、帰宅するなり「ごめん、少しだけ休ませて!」
と子どもたちに懇願しながら、ちょっとゴロリ。小1時間ほど寝てしまいました。
なんたる脆弱な浄化力!と夫婦揃って浄化力の低さに情けなくなりました。
しかし、街に出ると、イライラや絶望や焦りや、そういうエネルギーが満ちているのを、この頃では以前よりもかなり強く感じます。
問題なのは、そのエネルギーに触れた時、自分を見失わないでいられる精神力(浄化力)、必要以上に感化されない精神力(浄化力)が、まだまだ私たちには足りていないということです。
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また話は飛びますが、この頃では、人の悪口を言うとか、協調性がないとか、そういう行為というのは、ある種まだ救いようがあるのではないかとさえ感ことが時々あります。
満面に笑みをたたえ、紳士淑女の面持ちで、息を吐くように嘘をつくという人間が、この世の中にはたくさん存在しているのだということを、最近身を以って感じる機会があり、世間知らず(無知)で脆弱(低浄化力)な自分の姿に衝撃を受けておりました。
私自身が「嘘つき鏡」を欲している以上、毎日覗きこむ鏡の中には、善意で無垢な自分の姿しか見ることはできません。
毎日嘘つき鏡の中に映った都合のいい自分を、本当の自分だと思いこんで生きてきたのに、街に出てショーウィンドウに映った自分の姿は、無知で傲慢で怠惰で、それはまるで悪魔のような表情であるということに気づいてしまい、ショックを受けている…というような状態です。
カフカの「変身」的な衝撃!(でも、「変身」の中身の意味は未だ持ってハッキリ理解できていません。20数年前に、1回しか読んだことありません(爆))
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昨日訪れた上野の公園内にある動物園へと続く通りは、ちょっと異様な光景でした。
通りの真ん中は、若いカップル、家族連れ、初老のご夫婦、外国人観光客など、楽しそうに会話する人々が目につく中、その道沿いの両端には、路上生活者と思われるような、虚ろな面持ちの人々がずらりと並んで座り込んでいる、という映像が、その時の私の目に、とてもスローに、でもハッキリと映りこみ、同時に「リュールレアリズム」という言葉が浮かんできました。
(私自身はシュールレアリズムという言葉は知っていましたが、意味は全然理解していません。ですから、この光景にこの言葉がふさわしいのかどうかもわかりません)
弁天堂に立ち寄って、この地の人たちに光あるようお守りくださいと祈ってみました。
善人ぶるわけではないけれど、そう祈らずにはいられない心境でした。
弁天堂は改修中でした。その前に立ち寄った旧岩崎邸も和館が改装中でした。
最近私が行く場所、行きたい場所は、改修中のところばかりです。
岩崎邸で絶対に見たかったミントン社のタイルですが、なんとここも撮影禁止!
エントランスのタイルの上には、それを保護する台がかぶせられていました。タイルは、透明な部分から見ることができましたが、なにかの幼虫の死骸だらけで、同伴した一番上の子どもが「ヒーーーーーっ!」と叫ぶほど、ホラーな光景でした。
素晴らしい遺産であることは間違いないはずなのに、全体的に管理の杜撰さだけが目につき、とても残念でした。
マントルピースにタイルが施されていたり、本物の金唐皮紙、パネルヒーターにまで装飾が施され、まさに贅を尽くした芸術品が盛りだくさんの洋館でした。
ただ、一番インパクトが強かったのは、やはりあのエントランスの幼虫だったことが残念ではありますが。。。
動物園でパンダを見ました!
実は子どもの頃、(あまり記憶にはありませんが)日本にやってきたパンダを見るために、大行列に並んで、父に肩車してもらって一瞬だけチラリとパンダを見たことがあります。(でも記憶にありませんが)
あれからずいぶん時間が経って、再び我が子とパンダを見ることができて、ちょっと感激しました。
動物園って必要?これは私が子どもの頃からずっと疑問に思っていたことです。大昔とは違う。図鑑だってDVDだってある。その気になれば飛行機に乗って海外にだって行ける。
それなのに、まだ動物園って必要ですか?
私は子どもの頃から動物園に行くたびに悲しくて、楽しかった思い出よりも、言葉にできないモヤモヤした気持ちの方が強かったことを、今でもハッキリ記憶しています。
上野動物園の猿山の柵の最上段には「電気柵」が設置されていました。
痛みと恐怖で、動物が逃げないように支配する。この世の中を象徴しているように思えて、心が痛みました。
私の安っぽいセンチメンタルはどうでもいいのですが、極寒の地に暮らす生き物や、灼熱の乾燥した大地に暮らす生き物を無理矢理日本に連れて来て、檻に囲って、死ぬまで閉じ込めるなんて、そんな施設が本当に必要なんでしょうか??
誤字脱字修正しましたm(__)m
やたら長いだけで、結局言いたいことがイミフメイ。
これがすずしろの文章の「特徴」です。
オリジナル!(爆)