生きることは、よく旅に例えられるけれど、
そのことを考える度に、私はいつもバックパッカーを連想する。
それぞれが、それぞれの地図を持ち、それぞれのペースで、それぞれの時間の流れの中を旅する、バックパッカーたち---。

この宇宙は137億年前にできた、らしい。
私が少しだけかじった数秘の知識によると
「1」は、自立、個性
「3」は、表現、喜び、創造性
「7」は、智慧、知性、独りあること
というエネルギーを表している。(他にもあるけどネ。笑)
なんとも、バックパッカーにふさわしい数字ではないか。

手元の地図はおぼろで切れ切れ、読み方もよく分からないけれど、それを頼りにこの場所へとやって来たわけで。
これは、私が旅の途中に立ち寄った、ここでの滞在日誌、旅日記。
果たして何が起るやら・・・。


  • 2012年02月21日

    ものごとの順番


     昨日、福島原発の事故直後から官邸に入り 原子力専門アドバイザーとして事故収束のために5ヶ月間はたらかれた方のお話を聞く機会がありました。「根拠のない楽観的空気」が広がっていることへの懸念から 話は始まり、脱原発を実現しようが 原発を推進しようが 廃棄物処理の問題は国民一人一人が担う負の遺産であること、いま問われていることの本質は 技術的なことではなく 一人一人の理性的な判断であること などを語られました。その後の 司会者とのやり取りでは 更に根源的な問いへと向かい、最終的には 個々人の目覚めと自立がなければ解決しない というメッセージが 聴衆ひとりひとりに そしてその場にいない日本国民に 手渡されました。

     結論 よりも その結論に至るプロセスが大事なのだ と。

     仮に 政府がいま脱原発を決定し そのような政策を進めたとしても、本質的な問題は解決しない。感情的に選択したものは それが正しい選択であったとしても 同じような状況に陥れば いともたやすく 感情的にひっくり返るだろう と。


     原発を容認する人も 原発を卒業したい人も 私を含め その意識の中には 「目の前に突きつけられた現実と負の遺産について考え続けること」から逃げたい という気持ちが見え隠れしています。また、封印されている(とされる)フリー・エネルギーの登場を待ち望むその心の奥にも 同じものが隠れているように感じます。
     その認識に基づいて 昨日の話を思い返したとき、仮にどんなに素晴らしい技術があったとしても また 素晴らしい知が用意されていたとしても、日本国民としてやるべきこと 学ぶべきことをしない限り それらは開示されないのではないだろうか 仮に開示されたとしても普及しないのではないか と思うです。
     目的地が見えていたとしても 結論が見えていたとしても、そこへ至る道筋 プロセスは スキップできないのではないだろうか と。少なくとも、自身の小宇宙での体験に基づき 私はそう感じています。


     映画『医(いや)す者として』の最後の場面は 故・若月俊一さんの「医の民主化は 医療の分野だけではできないんです。地域が民主化されなくて どうして医療だけ民主化できるでしょう」という言葉で 締めくくられています。

     日本での消費者運動の草分け的存在であった女性が目指していたのは、「誰にも文句の言えない社会」でした。

     

     誰かが 素晴らしい人が現われて ユートピアをつくってくれるわけではない。私たちひとりひとりが この社会に この世界に 責任がある。という当たり前のことを 今 わたしたちは 学んでいるのかもしれません。
     そして「こんな私」に「できない」「かえることなどできない」という重しを外し、「この私」が「できる」「かえることができる」ものがあることに 気づいていく プロセスなのかもしれません。
     それは 誰かにそう言われたから ではなく、環境からの刺激はあるにせよ 種が自然に芽吹くように 自らの内側から おのづから芽生えてくる意識であり気づきなのだと思います。

     そして そこから初めて 人が自ら学んでゆくことをサポートする“本当の教育”が 始まるような気がしています。

     

     

     

    Posted by: belleza
    belleza さんのコメント:

    園児たちが やりたいことを見つけ それを実現するための方法を調べ(*大人の協力はあるでしょうが) 「やりたいこと」を実現する… という方針で運営されている 幼稚園のことを、少し前に聞きました。それはお寺が経営している園で 特に なんとか教育法に基づいているわけでは ないようでした。そのことを教えてくれた友人と 人生のスタートからこんなふうに育った子ども達が 大人になった時がとても楽しみだね と話したものでした。
    でもきっと そういう育まれ方をしなかった私たちも 自分でそうやって自身を育ててゆくことができるし、それは いつからでも 始めることができるのだと思います。

    2012年02月21日 12:32
  • 2012年02月19日

    めざめ

     

    「アジアは解放されました」

     

    入れられていた檻の 扉は開いているのに
    これまでの調教のせいで
    外に出ようとしない
    のが 今の日本の状態です


    とは
    今日 会った方の弁

     

    わたしたち ひとりひとり にも 当てはまるような気がします

     

    「ひとは 神からも悪魔からも 解放されました」

     

    ということを
    伝えられ続けているのですから

     

     

     

     

    Posted by: belleza
  • 2012年02月19日

    おてんきゆき

     

    2012年2月19日 日の曜日 午の刻
    湘南の地にて

     

         春のような

         あたたかい 日差しのなか

         花びらのような白い雪が

         たくさん

         たくさん

         舞っています

     


    今日は 雨水

     

     

     

    Posted by: belleza
    belleza さんのコメント:

    これから 東京では あるイベントが行われます。(私は参加しませんが。)
    その準備段階でもたれた会合は 民主主義の学校 のようだったと聞きました。
    いろいろなものが 自発的に統合されてゆくプロセスの始まり…。昨日参加したイベントでも 感じたことです。その帰り道 目にしたビルの名前も まるで符牒のようで…(笑)。いよいよ なのかも しれません。

    2012年02月19日 11:23
  • 2012年02月15日

    フラット・ランド


    もしも わたしたちが2次元世界の住人だとして
    その世界で 3次元のものと出逢ったとしたら…


    たとえば 2次元世界を 3次元の球体が通過していくと仮定します

    それは はじめ 点 として2次元世界に現われ
    次第に 小さな円から大きな円へと 移ってゆきます
    やがて ある極点に至ると 円は縮小し始め
    最後には 点 になって いつのまにか 消えてしまいます

    ただし 2次元世界に円として現われる ということも
    3次元世界からの視点ですから
    2次元世界において認識されるものは
    場所によって 点であったり 長さの異なる線であったり するのでしょう
    そして そのすべての現実は正しくて すべての現実は真実そのものを捉えていない ということになります

    私にはこの関係が
    この世の 可視なるもの(*この4次元=3次元空間+1次元時間)と 不可視のもの(*意識と物質を包括する宇宙全体)の関係に 似ているように思えるのでした


    もしも そうであるならば
    精神界と呼ばれた 意識領域のある層からの情報が 部分的であることも
    同じエネルギーであってもその認識が人によって異なることも
    部分を足し合わせても 全体にならない ということも
    しかしその部分から全体を包括的に理解することができる ということも
    そしてまた この宇宙の 驚異的な多義性や効率性 についても
    説明できるような気がします


    もしかしたら わたしたち自身も
    そんな風に存在しているのかも しれません

     

     

     

    【コメント】(2012/02/15)

    flatの語源は ラテン語のflare=to blow(吹く) とか。
    http://home.alc.co.jp/db/owa/etm_sch?unum=2743&rnum=180&stg=2

    ただ これは flatそのものの語源として記されていないので もしかしたら違うのかもしれません。

     


    【コメント】(2012/02/17)

    幾何学に縁の深いと思われる方が 「地球の(or地球で理解されている)幾何学と 宇宙の幾何学は 違う」と言っていたことを 思い出しました。

     

     

     

     

    Posted by: belleza
  • 2012年02月15日

    ま (わたしの場合)

     

    妬み という 感情/エネルギー/意識 の 奥に

    かなしみ と おそれ が ありました

    恐怖 という 感情/エネルギー/意識 の 奥に

    かなしみ と いたみ が ありました


       それを
       切り離された かなしみ や おそれ や いたみ と
       表現する人たちもいます


    を かなしみ おそれ いたむ その意識(あるいは変換装置)が

    マ を 魔 に していました

    マ は 真 であり シン


    そこには

    シンの創造と歓びが あります

     

     

     

     

     


    【コメント】(2012/02/17)

    違和感 という 言葉。
    それは あまり好ましくない状況 として認識していたのですが
    違和 とは 違いを和する とも理解できます。
    違うものが出逢い それらが和する過程の えも言われぬ状態を象った言葉が 「違和感」 なのかもしれません。
    だとすれば 違和感があるということは 好ましい ということになります。
    マによって隔たったものが 出逢い 和するプロセス なのですから。


    和したものが 環や輪になることで 排他性や“閉じた状況”が生まれます。
    和が 和のまま ひらいて在れます ように…。

    もしかしたら 到達した「和」という状態を 固定しようとすると 環や輪になってしまうのかもしれません。固定 を別の言葉で言い換えるなら 執着。
    和とは 状態(=動的平衡) であって 常に流れ動いているものなのだと思います。(というか すべてが そう ですね。)

     


    【コメント】(2012/02/17)

    人には 異なること への 恐れ があるように見えます
    それは 異なる=個となる 個となっている ことへの 恐怖なのでしょうか

    和が 環や輪になることで 生まれる「同調圧力」。その息苦しさや そこから発生する負のエネルギーが “ことなること”への恐れと関わっているような気がします。また、様々な人間集団が持ってきたその負の側面は その場を支える人物の器量に比例しているような気もします。

     

     

     

     

    Posted by: belleza
  • 2012年02月06日

    イの流(ち)


    先月の下旬 久しぶりに友人と ある温泉へ行きました。
    その温泉のご主人は “いきもの” として温泉を認識しており
    そのままでは熱すぎる源泉を 水で薄めることなく熱交換装置で適温まで下げ 浴槽に掛け流しています。
       温泉は新鮮であるべし
       湧きいづるその瞬間が もっとも エネルギーに満ちている
    地球の 火と水と土が生み出した いのち としての温泉の
    その生命力 エネルギーを
    そのまま生かしたい と考えておられるようです。

    自宅から2時間以内で行ける地に この温泉を見つけて以来
    他の温泉には あまり行っていないので 比べようがないのですが
    これまで訪ねたところを思い出しつつ 言うなら
    この温泉の湯は 力があると 感じます。
    とにかく 疲れの出方が すごい のです。
    疲れだけでなく 心身に溜まったものも 出てきます。
    一緒に行く友人との関係性もあるのでしょうが
    この温泉で過ごす時空の中で いろんなものが一気に動く感覚が いつもあります。し 先日は特に 時空の濃さを実感しました。

    正別した水は それ特有のハタラキがありますが
    地中から湧き出す 流れる水や湯には また別の そして 正別した水にはない ハタラキがあるように思えます。

    そんなことを思っていたら
    その温泉が出している瓦版の中の 「温泉の本質」と題した内山節さんの文章に 目がとまりました。

    ***

    <自然の「おのずから」なる流れ>

     温泉は薬効成分ではないのだということが、最近になってようやくわかった。地底からわき出てくるお湯の力を借りて、自然と人間の力強いつながりを取り戻すことの方に、たぶん、温泉の本質はある。
     日本の伝統的な民衆思想では、自然は真理である。なぜ真理なのかといえば、自然は「おのずから」のままに展開していて、一切の作為がないからである。昔の人たちはそう感じていた。作為がないということは「おのずから」のままに流れているということで、自然にはこの流れを押しとどめるものがない。

    ***


    この1〜2年、おのづから ということについて よく考えます。そして いま思っているのは おのづから とは シンカの流れ ではないか ということ。自然栽培の農産物や 天然菌を生かした発酵品がおいしいのは そのものや育まれるプロセスが持つ「おのづから」つまり「シンカの流れ」を尊重し 生かしているからではないだろうか と。自然が 宇宙の理/流の顕われであって 理/流そのものではないように、自然のままだからいい というわけではありません。その背後に流れるものを見据えて それに添いながら 乱すことなく より生かしてゆく…。きっと 私のお気に入りの温泉のご主人も 同じ意識をもって 温泉 というものに対しているのではないでしょうか。

    「ヨーロッパでは 動いていない水は死んだ水と見なす」と 知人が言っていたのを思い出します。動いていない水とは 澱んだ水であり それは腐ってゆくもの。ヨーロッパでガス入りのお水が多く飲まれるのは 水に動きが生まれるからだし、アルコールが聖なるものとされたのは それが腐らない水だったからだ(*他の理由もあるのですが) と。そして ベネシアンドールがビノ・デ・ヘレス(=シェリー)を ベネンシアという長い柄杓を使って 高い位置からグラスに流し入れるのは 動きのなかった水にいのちを与える行為なのだと 話してくれたのでした。欧米人がシャワーを好むのも 彼が言うには同じ理由によるのだそうです。

    わたしが ここで言う いのち とは 生物学上の生命 とは違う概念です。動き… いえ 宇宙の理としての流れ を いのち と名づけているのかもしれません。

    今日は朝から雨。
    天から落ちてくる雨の浄化のハタラキ…
    これも いのち ゆえのことなのでしょうか。

     

     



    【コメント】(2012/02/17)

    この文章を書いた後 別の 源泉掛け流しの温泉へ行く機会がありました。本文中の温泉が無臭であるのに対し 硫黄臭のある匂いのキツいお湯でしたが 肌への当たりはこちらの方が優しく、しかし 心身へのハタラキは 勝るとも劣らぬもの。かつて女帝が数年滞在したという伝説が残る 山間(やまあい)の地で、少なくとも奈良時代まで遡ることのできる歴史(=時空)に護られてきた いのちあふれるお湯でした。

     

     

    【コメント】(2012/02/17)

    ナショナルジオグラフィックのニュースによれば、2月13日に「地球で最初の細胞を持つ生命体は 火山による蒸気で熱せられ、ぬるぬるした泥がたまる熱泥泉で生まれた可能性が高いとの研究結果が発表された」そうです。

    まだ確定したわけではありませんが、もし本当だとしたら 温泉で得られる安らぎの源泉は こんなところにあるのかもしれないなぁ…と、泥の混じった温泉に入った時のことを思い出したりもしました。

     

     

     

    Posted by: belleza
  • 2012年02月05日

    たいせつなこと

     

    ほんとうに 大切なことは
    「ことば」として 記述されるカタチでは
    伝達されない


    意識の中に
    ささやくように
    あるいは
    かすかな気配として
    あらわれる


    そんなふうな かんじ として

     

     

    Posted by: belleza
  • 2012年02月04日

    立 春


    今日は 立春。
    数年前から 私にとっての 1年の始まりの日です。

    ある星読みの方のブログで 今日の立春とともに海王星が魚座に入ることを知りました。公転周期が約165年の海王星は 1846年に発見されてから ちょうど太陽の周りを1周したことになります。実は昨年の7月に 一度 発見された場所に戻ったのですが その後に逆行し、本日改めて (人にとっての)スタート地点に戻ってきたようです。

    このことは 星読みの世界では 一つの大きな意味合いがあり、その記事を読みながら 私は 2月2日の光文書や私の認識とかなり符合する内容に 驚きを隠すことができませんでした。私たちの行いは すべて 惑星の運行に支配されているのでは とさえ思ってしまうほどに…。

    その星読みの方が 同じブログの中で、「(占星術における約束事として)発見されてはじめて その星の影響が顕在的に現われる」という趣旨のことを書いています。ということは、モノコトは 人が認識し それが人の意識に組み込まれることで 人の世に直接的に関わり始める ということなのかもしれません。つまり 海王星を発見したときから 人は 海王星のエネルギー/データ/プログラムを この世の創造に活用している ということなのかもしれません。

    海王星が魚座に入る意味合いについては 興味を持たれた方にそれぞれ調べていただくことにして、ここでは 私が気になった「魚座」について記して終えることにいたします。

    ウィキペディアによれば、「魚座は 古代メソポタミアに由来する星座と考えられ 通常はリボンで結ばれた二匹の魚として描かれる。二匹の魚とそこから伸びる紐は チグリス川とユーフラテス川をあらわし、紐がつながっているのは2本の川が合流することを現わしている」とのことでした。

    今の私にとって 二つの流れが合流する という言葉が 少し特別の意味合いを帯びて響いてきます。

     

     

     

    Posted by: belleza
    belleza さんのコメント:

    「気づき意識化することで 初めて生かすことができる」というのは “資源” の捉え方と同じですね。

    2012年02月05日 13:26
  • 2012年02月03日

    フタ の ひらき て


     光文書Vol.272の「黒い十字架」という言葉から あることを思い出しました。
     確か1月24日の夜のことです。
     友人から、かつてバチカンへ行った折 サン・ピエトロ寺院の地下にある 歴代教皇のお墓のひとつひとつに 祈りを捧げた という話を聞いていたとき、背後に ゾクリ と寒気を感じると 黒い石棺のイメージが浮かびました。正確に記すなら 煤けたのか闇が染みついたのか 黒くなったぶ厚い石の板が まるで石棺の蓋を上方から眺めたような姿で 現われたのでした。縦長の長方形の上が三角になった 五角形の石板で 扉にも見えるものでした。それはまた ぎゅっ と凝縮した オベリスクのようでもありました。ローマ法王 バチカン 宗教の長 祭王 …などの言葉がランダムに流れてゆきます。映像から浮かび上がる意識があったように思うのですが 今となっては思い出すことはできません。
     そのイメージは 私の背後に留まり続け、26日には その石棺に 一条の光が射していました。もうすぐ 蓋が開きそうな 予感と 共に…。(*このことをパソコンにメモしていた時、幾度か「蓋」という文字を使ったにも関わらず 「ふた」の文字を変換すると「二」と表記されることが 少し気になりました。)

     その後 しばらく 日々の出来事に意識が向けられ 石棺のことはすっかり忘れていたのですが、昨日更新された光文書を読んで一夜明けた今朝 石棺に意識を向けてみると その蓋は まるで気づかれるのを待っていたかのように ゆっくりと開いていったのでした。
     それは 蓋というよりも 扉として存在していて、その扉が開かれた向こうには 青空が あるいは 青空の下に広がる穏やかな風景が 広がっており、扉に近づくに連れて それは 光に満ちあふれた空間へと変わっていったのでした。

     開く瞬間を見ておきながら、その扉は 数日前から開いていたような 印象がありました。

     「だとしたら それは いつからだろう…」と記憶を探ろうとしたところ、ふと 31日の夜の 家人の言葉を思い出しました。

     「ほしいものは ただ ひとつだけ
      きみのこころの 黒い扉 開く鍵」

     矢野顕子さんの『ひとつだけ』の 本来の歌詞では「白い扉」となっている箇所を 忌野清志郎さんが「黒い扉」にして歌っていることを ツイッターの書き込みで発見し 私に伝えたのでした。長年のファンでありながら しかも そのデュエットは幾度も観て聴いているはずなのに 彼がこれまで知らなかったことの方が 私には驚きだったのですが、今思うと 何かのメッセージだったのかも… という気もします。
     そんな妄想かもしれない事柄が展開する私の意識場に 素顔の清志郎さんが あの 少し困ったような 照れたような表情で はにかんでいる姿が浮かぶのでした。

     そういえば 清志郎さんのアルバムには 十字架シリーズ〜『冬の十字架』(1999/9/22)『夏の十字架』(2000/7/7)『秋の十字架』(2000/11/11)〜があります。なぜか 春だけがないのですが…。

     

     

     

    Posted by: belleza
    belleza さんのコメント:

    二人のデュエットの「ひとつだけ」 現在公開中の映画『しあわせのパン』の主題歌に使われていました。

    2012年02月04日 18:51
  • 2012年02月02日

    しろき みつ

     


                   白き水
                   いのり
                   水
                   の
                   澄み渡りて
                   身に
                   おこりうむ
                   ひひきに
                   のせ
                   しむる日の
                   海の
                   陽に
                   シンの道の示さるる

                   (21:12)

     

     

    私の情報では 先月末 地球に用意されていた “あるスイッチ” がオンになりました。そのものを整え護ってきたのは この地に生きた女性たち のようでした。決して表に出ることなく 淡々と しづしづと 密やかに 用意されてきた幾多の女性たちのおかげで 光文書がいうところの「黒い十字架の洗脳システム」から人が解放される道筋がついた(*おそらくは 一神教や多神教の闇よりも もっと深い 根源的なレベルまで 作用している、シンなる人/本来の人 へのプログラムがオンになった、更に言うなら イシキとブッシツを統べるシステムがオンになった) というのが、仮説ではありますが 今の私が理解するところです。


    より大きな視点で見れば そのスイッチが極小極大のカタとして作動するように 様々なシステムを整えてきたものたち(*女性に限りません)がいたのですが…。

     

     

     

    Posted by: belleza
    belleza さんのコメント:

    白き水 と書いて 泉…。

    2012年02月02日 21:41