Vol.557

悪魔教の信者たち

千九百四十五年に本格的にはじまった、西欧由来の悪魔的思考の日本侵略が、最終段階を迎えたのが、この二千十七年の日本全体の姿なのかもしれません。
その主役は、どうやら死にゆくことが決まっている、古いメディアの新聞社やテレビ局の内部で、勢力を拡大してきた、唯物論の信奉者たちで、彼らの思考法の中心にあるのは、目的のためなら、すべての手段が正当化されるという、共産主義者や全体主義者に共通するある種のニヒリズムです。私はそれを、死んだら終わり文明とこれまで呼んできましたが、ここに来て、ジャーナリズムという職業の倫理すら捨てて、反日または反政権のためのプロパガンダ機関になり下がった多くのマスメディアの行動を見ていると、そこで働くものたちを、悪魔教の信者と呼んだ方が正鵠を射ているのかもしれぬと考えはじめています。
もともとフランス革命によって、世界に広められた、自由、平等、博愛といった言葉や、近代的民主主義というものは、支配されるものたちの妬みの感情から生まれた、その内部に破壊願望のエネルギーを宿しているものです。
明治の日本人は、それを世界標準のように思い込み、美しい日本語を当てはめましたが、その幻想が失われると、それらの社会思想や社会運動の背後にある、人間を動かすエネルギーの正体が、一神教の悪魔が人間の情動を操作して生み出したものだということが、一般の日本人にも伝わり、いまの日本の姿が生まれています。
日本を征服したつもりの、アメリカ文明の支配者たちが、期待した日本人像は、敗戦後教育を受けた団塊の世代において、成功したように見えますが、彼らの次の世代から、どんどん、その勢力を減少させており、彼らの子や孫の世代では、本来の日本文化への回帰が、進行しつつあります。
マスメディアのほとんどを支配してきた、死んだら終わり文明の信奉者たちは、これから死にゆく世代となっていくのですが、私がこの時点で、彼らを悪魔教の信者たちと呼ぶことは、死後の彼らのたましいの運命に対する警告でもあるといっておきます。
この二千十七年の七月に、私には日本列島が新しい時空に突入したという情報が伝達されています。それは、新しいステージに移行した日本列島のウブスナ的情報系のなかに、私がくり返しお伝えしてきた、最後の審判の容器としての日本人の身体の用意が整ったという神界の情報開示でもあるのです。
最後の審判という言葉に関しては、悪魔教のものたちは、「そんなものはこれまでもなかったし、これからもない」という抗弁をくり返しますが、実体面では、すでに永遠の業火と呼ばれるようなところへ送り込まれるたましいが、特定されています。
これから、死に到る期間のみが、かなり多くの日本人のたましいに許された悔い改めのチャンスなのですが、その彼らの意識世界こそが、反日プロパガンダのエネルギーの供給源なのです。
精神学をすこしでも学んだ人間なら、最後の審判を否定する人間のたましいが、審判後に行くべき暗黒面への恐怖によって、それを強烈に否定するということを知っているはずです。
どうやら、いまの日本の社会情勢は、一神教がもたらした世界全体の最後の審判のモデルを、世界に先がけて現実化するために動いているらしい、と認識してみてください。
イデオロギー的対立の構図で見るならば、一般に保守と呼ばれる右側にも、進歩的とか革新的とかいう幻想を失った左側にも、いまの世界の出口となるようなモデルはありません。これは、当然なのです。西欧文明というものを受け入れて近代化した明治維新の日本の目的はここにおいて果たされ、結局のところ、次のモデルを出すのが日本つまりヒノモトが用意された理由なのだという自覚に到るのが、最後の一厘の仕組みなのですから…。
この先の全世界の人間を、マネーの支配から解放するというのが日本に課せられた天命なのですが、その覚醒のためには、この国が、受け入れ育ててきた、アメリカ文明の悪魔的教えに帰依した日本人にあらざる日本人の文化的排除が必要となります。
彼らの主張がマスメディアにおいて、現在のように声高にくり返されない日がくれば、普通の日本人の覚醒は一気に進むのです。

二千十七年七月十三日 積哲夫 記