Vol.554

聖書の予言

聖書には最後の審判のとき、再臨したイエスが、すべての民を、右と左にわけるという記述があります。
右側が救われる側で、左側がその罪によって永遠に救済されない側ということになっています。
明治からの百五十年というこのクニの歴史は、この最後の審判のシーンを現実化するための道程であったというのが、今回、私が書くことを許されたテーマです。
私は、聖書が約二千年前に置かれ、その問題を解決するために約千三百年前に、このクニに古事記と日本書紀が置かれ、それらの天のプログラムの存在の公開者として、「最終知識」を書いたということをお伝えしてきたのですが、その天のプログラムとして、いまの日本の政治情勢の左右の対立構造があるということです。
左翼と右翼という言葉は、フランス革命の前夜に、議会において、王党派が右側に、革命派が左側に位置していたところから生まれたものですが、いまのこのクニの現状は、その再現ともいえるものです。
フランス革命の精神的指導者とされたジャン・ジャック・ルソーは、理想の統治は君民共治なのだが、そんなものは地上に存在しないので、と主張しましたが、その理想の統治は極東の島国で、建国以来続けられていたことを知らなかったのです。
フランス革命から、自由、平等、博愛という人間の考えた普遍的な価値観が世界を覆うものとなり、民主主義の絶対性のようなものを信じ込んだアメリカの覇権によって、それに対抗した大日本帝国も、マルクス・レーニン主義のソ連邦も崩壊しました。そして、現在の世界の姿があります。
いま、日本国のマスメディアに代表される、社会的な意見というものの出発点にあるのは、西洋近代こそ、先進的モデルであるという、単なる思い込みに過ぎません。私は、科学は魔術の子という、精神界の代弁者なので、西洋近代の思想や哲学といったものの多くは、キリスト教文明の悪魔的意識体が関与したものだという立場です。この立場から見ると、民主主義も、共産主義も、資本主義も、というように、ヨーロッパのキリスト教文明が生み出したグローバル・スタンダードな思考系の背後には、人間の存在を神的なものから切り離そうとする悪意が明確に姿をあらわすことになります。
全世界が、ある方向に向かい、やがて、偽りの救世主を求めはじめようとするような、策謀がくり返されている現実を、見ることもなく過ぎてきたこのクニの戦後の時間の最終段階が、いまの日本の左右の対立です。
表面上きれいな言葉を並べることで、戦後の教育は、多くの日本人から思考力を奪ってきましたが、これからは、その教育がもたらした未来への弊害が問題化していくはずです。
私は、これまで、死んだら終わり文明の信奉者を、イエスが左側に置くことをくり返し警告してきましたが、実は、それは、現在の自分の政治的信条にも連動しているのです。
反日的な言動をくり返す、たとえば進歩的文化人と呼ばれるような人間や、現在のマスメディアで、その特権を享受しているような人間が、もし、最後の審判の後も、自分は生きられるのだと信じているとしたら、それは驚異です。ところが、多くの左側の日本人が、自分は天国に行けると信じているようなのです。
私は、最後の審判というものは、天のプログラムで、それは日本において、最後の一厘の仕組みとして、伝えられているものと同じだとお伝えしています。つまり、最後の審判というものは、この日本列島でひとりひとりの日本人のたましいのレベルではじまるのです。
ここで聖書の予言を現実化するために、天があのフランス革命に関与し、左翼と右翼というポジションをつくり出したらしいと考えてみてください。
これから、この日本国で、左翼とされる人間のネットワークは急速にその正体をあきらかにしていくはずです。彼らはマスメディアだけではなく、官界にも財界にも、敗戦利得者として存在しています。彼らが、このクニを悪魔への献げ物にしないようにするのが、目覚めた日本人の責務なのです。

二千十七年六月二十二日 積哲夫 記