Vol.547

悪夢の連鎖

この二千十七年の五月から、どうやら日本の国土の上に暮らしている人間の潜在意識の領域に、ある種の不安や怖れといったものにつながるエネルギーの介入が本格化している気配があります。
表層的には半島の有事に備えるための情報がメディアでも流れるようになった結果として、戦争への不安などが増幅されたものともいえるのでしょうが、私の理解では、未来への漠たる不安が、実体化しつつあるものなのです。
簡単にいうと、人間は夢を見ますが、この夢を見ているときの波動が、個人の頭の中だけではなく、家族やその他の人間ともリンクしているということから、もたらされるリスクが増大しているらしい、ということです。
たとえば、希望というものをもたらす夢の波動が、他者にも伝播するなら、この世には希望が溢れるはずです。その反対の、不安や怖れをもたらす夢の波動が、この日本に影響を及ぼすとしたら、現実の未来も暗いものになっていくはずです。どうも、日本社会の持つ潜在意識とでもいうべき精神的エネルギーの場で、好戦的というか、消極的ではあっても現状打破のための戦争願望のようなものが増えつつあるようなのです。
これを加速しているのが、半島や大陸の国家による反日の宣伝で、一般の日本人は、明治、大正、昭和のそれらの地域に対する心情的な変化を追体験させられています。
アジアの有色人種が連帯して、アメリカ、ヨーロッパの白人優位の植民地支配の秩序に対抗しようとして、明治の日本で成立した一種のアジア主義は、一千九百四十五年の敗戦によって、消滅したかに見えますが、この同じ文脈での交流が、日中友好といったスローガンのもと、この国の内部に日本を弱体化させる因子を持った人間グループの増大を促進してきたのです。
戦前の日本において、唯物論者たちは、たとえば天皇の名を利用して、ヨーロッパの近代から生まれた鬼っ子とでもいうべき、共産主義や社会主義の理念を現実化することに躊躇しませんでした。このニヒリズムの伝統が、戦後の日本社会の価値観の根底にあります。
そして、このニヒリズムの出発点こそ、幕末から明治維新という時期に西欧列強との交流から生まれたものだと理解すれば、精神界が、明治百五十年という時空のなかで、何を終わらせようとしているのかが理解できるはずなのです。
このクニの歴史は、精神学的にいうと人生にもたとえられます。ひとつのテーマを学び終えない限り、そのテーマは、また物語の変奏として、出現し、より大きな問題となっていきます。
明治の失敗は、昭和二十年の敗北によって終ったわけではなく、そのほぼ二倍の時間を要して、さらに巨大な問題として、いま生きている日本人の前にあるといっていいのです。
日本の神界が、明治維新を認めていないというのが、私に「最終知識」という書を記させた大きな目的のひとつです。ただ、明治維新が、西欧文明のとくにフリーメイソンの価値観も含めてこの国に導入し、そのエネルギーを処理する人間を生み出すためのものだったというさらに大きな目的があり、これから、そのプログラムが成就するか、しないか、というところにいるという時代認識があれば、これからが本番となります。
明治維新の参加者たちの人気投票をしている場合ではなく、どうして彼らは失敗したのかを、人知で検証すべきなのです。
その方向に日本社会を持っていくために、戦争の不安を含めた精神的なエネルギーが日本語脳に流入しているのかもしれません。いま進行中の悪夢の連鎖から解放される方法はなく、目覚めていなさい、というイエスの言葉のみがその答えなのです。

二千十七年五月四日 積哲夫 記