vol.519

祝福される死について

この10月25日午後7時29分、医師の死亡診断書には義母の死亡時刻がそう記入されました。その場に私はいて、わざわざゆっくりおいでと伝えてきた義母のたましいが、この世を去るタイミングを完全にコントロールしていたらしいことを改めて知りました。
義母の死因は、老衰です。もともと、パーキンソン病で、認知症の発症もあり、完全なコミュニケーションは困難でしたが、義母は自分にかかわる看護師や介護士の方に、少ない言葉で勇気をプレゼントしていたことを私は知っています。
死が近づき、その義母のたましいが身体を離れて、私にコンタクトしてきたときに、家族みんなのスケジュールを考えると、この週の前半かなと希望を伝えておきました。アメリカ留学中の孫が帰ってきて、会いたい人には皆、お別れがいえたのでしょう。たぶん、人生に満足して、身体の生命活動を停止したのが、私が到着する数分前だったようです。
実は今回の義母の死に方が、いま生きている日本人にとって、まことに重要なメッセージを発するために、そのたましいと、さらに上位の存在によって、完全にコントロールされたものであることの証言者として、私がいるという不思議な感覚があり、この光文書で公開することにしました。
義母は、戦争の時代を生き、戦後71年を生きて、91歳でこの世を去ったわけですが、その死は、祝福されているのです。それは、これから死に到る時代を迎える、団塊の世代への警鐘ともなっています。自分ではなく、他者に元気や勇気や希望を与えるような人生を、あなたは歩みましたか、という問いかけです。
私は、人生のある時から、精神界とのコントタクトを体験することとなり、そのなかには、人間のたましいが、生きている人間の内部で活動するのも、身体が生命活動を停止した後にも、つまり、身体を去ってから活動するのも、現場で学ばされるということがありました。それは、これからの人間の死は、過去のような宗教的世界の問題ではなく、生きている人間に多大な影響を与えることとなる時代への用意だと伝えられてきました。
いま生きている多くの日本人が、最後の審判という人間のたましいの卒業試験のような人生の時間を生きていると考えてみてください。成長し、次のステージへ行けるたましいは祝福され、光の世界に引き上げられますが、失敗し、闇のなかに去るたましいも多いのです。
とくに、死んだら終わりという文明の考え方によって、教育され、競争し、この物質世界で勝者と敗者に別れさせられた団塊の世代のたましいは、悔い改めない限り、この世の闇のなかに閉ざされる可能性が高いのです。そして、こうして形成される、うらみや妬みのエネルギー層は、人間界に悪影響を与え続けます。
こうした情報が開示されるということは、これから多くの人間が、死者のたましいとのコンタクトを体験するという予告でもあります。
精神学は、こうした次の人間世界の扉を開くための用意として、長い時間をかけて準備され、この世に提供されたものだと理解できれば、聖書の時代を終わらせるのが、日本という国に、日本という国に生まれた民に課せられたテーマであることもわかるはずなのです。
死は終りではないことが、日本人の常識になれば、強欲な資本主義とは無縁の新しい経世済民のシステムが、この国から生まれます。
その発想の転換の入り口になるのが、これからはじまる、死にゆくものたちのたましいとのコンタクトともいえるのでしょう。
人間のたましいは、身体というものの生命活動をそのコントロール下におけるらしいということは、仏教やヨガの行者をみればわかりますが、それが修行によらずとも、ただ、よく生きるだけでできるとなれば、人生の目的が義母の生き方のように、誰かの役に立つものに変わっていくはずです。よく生きなければ、祝福される死に方に到ることはありません。

2016年10月27日 積哲夫 記