#47 「戦犯」として散ったおふたりから私たちへ・・・いまに響く言葉。 


明日は十二月二十三日、今上陛下のお誕生日です。

そして昭和二十三年のこの日は、東京裁判(極東国際軍事裁判)にて有罪判決を受けた七名が処刑された日となりました。

東京裁判での受刑は、もちろん連合国側の一方的な裁判による刑罰ですから、日本では裁判として認識されているわけではありませんが、以下七名の絞首刑が実行されてしまいました。 (以下罪刑の詳細 Wikipediaより引用)

 ・板垣 征四郎 – 軍人 、陸相(第一次近衛内閣 ・平沼内閣)、満州国 軍政部最高顧問、
        関東軍参謀長 (中国侵略・米国に対する平和の罪)
 ・木村 兵太郎 – 軍人、ビルマ方面軍司令官、陸軍次官(東條内閣 )
        (英国に対する戦争開始の罪)
 ・土肥原 賢二 – 軍人、奉天特務機関長、第十二方面軍司令官(中国侵略の罪)
 ・東條 英機 – 軍人、第四十代内閣総理大臣
       (ハワイの軍港・真珠湾を不法攻撃、米国軍隊と一般人を殺害した罪)
 ・武藤 章 – 軍人、第十四方面軍参謀長(フィリピン)(一部捕虜虐待の罪)
 ・松井 石根 – 軍人、中支那方面軍司令官(南京攻略時 )
       (B級戦犯、捕虜及び一般人に対する国際法違反<南京事件>)
 ・広田 弘毅 – 文民 、第三十二代内閣総理大臣
       (近衛内閣外相として南京事件での残虐行為を止めなかった不作為の責任)

昭和二十三(一九四八)年十二月二十三日午前零時二十分、第一組は土肥原賢二さん、松井石根さん、東條英機さん、武藤章さんの四名が、ついで第二組の板垣征四郎さん、広田弘毅さん、木村兵太郎さんの三名が執行させられたのです。

東京裁判で戦犯とされる方々について、日本では「法務死」(政府が犯罪と認めていない戦犯裁判による刑死者や収監中死亡者を指す用語)、さらに靖國神社では「昭和殉難者」というそうです。

靖國神社の遊就館でも、東條英機さんや山下奉文さんなどのご遺影には、「法務死」と書かれていました。
靖國神社には「法務死」として一千六十八柱の御霊が祀られています。

ちなみに、戦犯のA、B、Cとは
   A級戦犯– A項「平和ニ對スル罪」で有罪とされた戦犯
   BC級戦犯 – B項「戦争犯罪」、C項「人道に対する罪」で有罪とされた戦犯
を意味しています。

靖國神社に合祀されたことに対して、今でも反対の声が多くあるのも如何なものかと思いますが、これもまた、歴史をきちんと正しく学べていない証拠といえるかもしれません。
 (参考  戦犯の名誉回復  http://kenjya.org/yasukuni3.html )

昭和天皇のお誕生日(四月二十九日)に起訴されて、今上陛下が皇太子の時代、陛下のお誕生日に執行日をあてるとは、いかにもアメリカらしい対処のしかたといえます。
陸軍記念日(三月十日)に東京大空襲によって無辜(むこ)の一般人を十万人も殺害するなど、そういったことはそれまでにも何度もありました。

昔もいまも、大東亜戦争で何があったのかの詳細を、学校で丁寧に教えられることはありません。
教えられるとしても、戦争に走った軍部が悪いとか、憲法九条を守るべきであるとか、せいぜいその程度だと思います。
大半の先生方も、きちんと幅広い情報を取り込んでいるわけでもなく、正しくものを見ることができているわけではありません。
そもそも習ってもいなくて、知ろうとしたこともなく、ただ大学で習ったままを記憶し、文科省の指定するガイドラインに沿った授業を進めている方がほとんどだと思います。
昔、教員を目指そうとしていた頃、「あなたのような人が教員になったら、まっさきに干されるからやめた方がいい」というアドバイスをもらったのを懐かしく思い出します。

文部科学省をはじめ、行政システムを含む、戦後教育の結果がそこにあります。

GHQによるWGIPの規制からというだけでなく、一部の人たちのプロパガンダによって感情的に扇動され、東條英機さんはヒットラーのようだとか、戦争犯罪者の悪人だから処刑されたのだとか、わかりもしないで平然と伝え聞きする大人たちも大勢います。

残念なことですが、近現代史も地政学も、そして軍事学も、日本の学校教育では教えられないまま、ほとんどの人が大人になり、社会人になります。
そして、わけもわからぬまま、時として大手新聞紙とテレビのワイドショーやニュース番組でさらに刷り込まれ、敗戦利得者にとって都合のいいように動かされ、目隠しされたままおとなしい羊として飼いならされてきました。
気づけばいつの間にか日本はアメリカのATMといわれ、そのうちに中国共産党のATMになるのではないかとすら危惧されています。

単なる杞憂であれば良いですが、次第に現実味を帯びてきて、いかに鈍感な国民であっても、いまや、将来の日本に、このままで安心できると考えている人は少ないのではないでしょうか。

この日を前に、一度、きちんと振り返ってみたいと思います。

東條英機さんの遺書全文を、下記サイトより引用します。

  http://www.tojo-yuko.net/isho/isho.html  
  東條英機元首相公的遺書全文
  『祖父東條英機「一切語るなかれ」』東條由布子 著 (文藝春秋) より

東條英機さんは日本の対米英開戦時の内閣総理大臣でした。現役軍人のまま第四十代内閣総理大臣に就任しました。
「超」のつく真面目人間であったようです。

就任当時の陸軍においては、戦争もやむなしという考え方であったものの、「昭和天皇独白録」によると、「陸軍部内の人心を把握したものである」ということや、「条件をつけることで陸軍を抑えて事を進めることができる人物」として東條さんが選ばれることになったとあります。

総理大臣に就任したのちの東條さんは、昭和天皇のお心に従い、できうる限りの力を尽くして「平和」を維持できるよう、連日会議を開いては寝ずに研究したとありますが、各方面に対し戦争回避のための調整を図っていた様子が伺えます。
しかし時代は、ABCD包囲網による石油の全面禁輸措置に加え、ハル・ノートの存在が後押しする形で開戦の決定へと向かいます。

在任期間は昭和十六(一九四一)年十月十八日 – 同十九(一九四四)年七月十八日の三年弱でした。
昭和天皇は東條さんについて、以下のように語られていたようです。(「昭和天皇独白録」による)

  話せばよく判る、それが圧政家の様に評判が立ったのは、本人が余りに多くの職を
  かけ持ち、忙しすぎる為に、本人の気持ちが下に伝わらなかったことと又憲兵を余りに
  使ひ過ぎた。
  それに田中隆吉とか富永(恭次)次官とか、兎角評判の良くない且部下の抑へのきかな
  い者を使った事も、評判を落とした原因であらうと思ふ。
  実際は東条も後には部下を抑へ切れなくなったものと推察する。
  東条は一生懸命仕事をやるし、平素云ってゐることも思慮周密で中々良い処があつた。
   (以下省略)

東條さんは、日本では裁判として認められていませんが、連合国側の極東軍事裁判(東京裁判)にて「A級戦犯」として起訴され、一九四八年十一月十二日に絞首刑の判決が言い渡され、一九四八年十二月二十三日、巣鴨拘置所で死刑執行されました。享年六十五歳。

遺書 ————————— 引用 ここから

東條英機元首相 公的遺書 全文

開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死を以て贖(あがな)えるものではない。しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。
今も同感である。ただ力の前に屈服した。
自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、又下級者にまで刑が及んだことは実に残念である。

天皇陛下に対し、又国民に対しても申し訳ないことで深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈(じんじ)の御志(おんこころざし)に依(よ)り行動すべきものであったが、一部過ちを犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。
此度(このたび)の戦争に従事してたおれた人及び此等(これら)の人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思って居る。心から陳謝する。

今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判を待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨(のぞ)まなければならないのではないか。
此の裁判は結局は政治的裁判で終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。

天皇陛下の御地位(おんちい)は動かすべからざるものである。天皇存在の形式については敢えて言わぬ。
存在そのものが絶対必要なのである。それは私だけではなく多くの者は同感と思う。
空気や地面の如く大きな恩(めぐみ)は忘れられぬものである。

東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相(あい)協力すべきものである。
東亜民族も亦(また)他の民族と同様に天地(あめつち)に生きる権利を有(も)つべきものであって、その有色たるを寧ろ神の恵みとして居る。
印度(インド)の判事には尊敬の念を禁じ得ない。これを以て東亜諸民族の誇りと感じた。
今回の戦争に因(よ)りて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸いである。
列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持ちを以て進むべきである。

現在日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本人の米人に対する心持ちを離れしめざるよう願いたい。
又日本人が赤化しないように頼む。大東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされねばならぬ。
実は東亜の他民族の協力を得ることが出来なかったことが、今回の敗戦の原因であったと考えている。

今後日本は米国の保護の下に生きて行くであろうが、極東の大勢がどうあろうが、終戦後、僅か三年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。今後の事を考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上もないではないか。

今、日本は米国より食料の供給その他の援助につき感謝している。
しかし、一般人がもしも自己に直接なる生活の困難やインフレや食料の不足などが、米軍が日本に在るが為なりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。依って米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。

今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。
第一に日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。
第二には満州を赤化の根拠地たらしめた。
第三は朝鮮を二分して東亜紛争の因(いん)たらしめた。
米英の指導者は之(これ)を救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関し有り難いと思う。

日本は米軍の指導に基づき武力を全面的に抛棄(ほうき)した。これは賢明であったと思う。
しかし世界国家が全面的に武装を排除するならばよい。然(しか)らざれば、盗人が跋扈(ばっこ)する形となる。
(泥棒がまだ居るのに警察をやめるようなものである)

私は戦争を根絶するためには慾心を人間から取り去らねばと思う。
現に世界各国、何(いず)れも自国の存在や自衛権の確保を主として居る(これはお互い慾心を抛棄しておらぬ証拠である)。
国家から慾心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を無くするということは不可能である。

これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実は此の通りである。それ故、第三次世界大戦は避けることが出来ない。

第三次世界大戦に於いて主なる立場にたつものは米国およびソ連である。
第二次世界大戦に於いて日本と独乙 (ドイツ) というものが取り去られてしまった。
それが為、米国とソ連というものが、直接に接触することとなった。米ソ二国の思想上の根本的相違は止むを得ぬ。
この見地から見ても、第三次世界大戦は避けることは出来ぬ。

第三次世界大戦に於いては極東、即ち日本と支那、朝鮮が戦場となる。
此の時に当たって米国は武力なき日本を守る策を立てねばならぬ。これは当然米国の責任である。
日本を属領と考えるのであれば、また何をか言わんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。
米国は日本八千万国民の生きて行ける道を考えてくれなければならない。
凡そ生物として自ら生きる生命は神の恵である。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。

なお言いたき事は、公、教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。
今は既に戦後三年を経過して居るのではないか。従ってこれは速(すみ)やかに止めてほしい。
日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容の気持ちをもってやってもらいたい。

我々の処刑をもって一段落として、戦死傷者、戦災死者の霊は遺族の申し出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。
出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。戦犯者の家族には保護をあたえられたし。

青少年男女の教育は注意を要する。将来大事な事である。
近事(きんじ)、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響から来ているものが少くない。
この点については、我が国の古来の美風を保つことが大切である。

今回の処刑を機として、敵、味方、中立国の国民罹災者の一大追悼慰霊祭を行われたし。
世界平和の精神的礎石としたいのである。
勿論、日本軍人の一部に間違いを犯した者はあろう。此等については衷心(ちゅうしん)謝罪する。
然しこれと同時に無差別爆撃や原子爆弾の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫(れんびん)して悔悟(かいご)あるべきである。

最後に、軍事的問題について一言する。我が国従来の統帥権独立の思想は確(たしか)に間違っている。
あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については、徴兵制によるか、傭雇(ようこ)兵制によるかは考えなければならない。
我が国民性に鑑みて再建軍隊の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神主義を採らねばならぬ。
忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米軍に学ぶべきである。

学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。
言いかえれば、宗教教育である。欧米の風俗を知らす事も必要である。
俘虜(ふりょ)のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

辞 世

我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 
国に報ゆることの足らねば

さらばなり苔の下にてわれ待たん 
大和島根に花薫るとき

—————————–  遺書全文 引用、ここまで

また、東條さんは、 私的遺書として、下記の言葉を残しています。 
私的遺書であっても、この心映えであることを思うと、ナポレオンの遺書に比して、個としてどれほど優れた人物であったかが、うかがい知れます。

昭和二十三年十一月十二日の死刑判決の六日後の十一月十八日、花山信勝師と面談時の遺書。

—————————– ここから 私的遺書 引用 (全文)

花山師と面晤(めんご)の機あるに依り左件を
東條

一、裁判も終わり一応の責任を果たし、ほっと一安心し、心安さを覚える。刑は余(よ)に関する限り当然のこと、 唯(ただ)責を一身に負い得ず、僚友に多数重罪者を出したること心苦しく思う。本裁判上、陛下に累(るい)を及ぼすなかりしはせめてもなり。
※ 累 (るい) : 悪影響、迷惑

二、裁判判決 其(そ)のものについては、 此(こ)の際言を避く、 何(いず)れ冷静なる世界識者の批判に依り日本の真意を了解せらるる時代もあらん。
唯(ただ)、捕虜虐待 等(など)、人道上の犯罪に就(つ)いては、如何にしても残念、古来より有(あ)り 之(これ)日本国民、陛下の 仁慈(じんじ)及び 仁徳(じんとく)を徹底せしめ得ざりし、 一(いつ)に自分の責任と痛感す。
然(しか)して之(これ)は単に一部の不心得より生ぜるものにして、全日本国民 及(および)軍全般の思想なりと誤解なきを世界 人士(じんし)に願う。

三、第二次大戦も終わりて、僅か二・三年、依然として現況を見て、日本国の未来に 就中(なかんずく)懸念なき 能(あた)わざるも、三千年の培われたる日本精神は、一朝にしてか喪失するものにあらずと確信するが故に、終局に於いては、国民の努力に 依(よ)り、立派に立ち直るものと信ず。東亜に生くる吾(われ)は、東亜の民族の将来に就いても 此(こ)の大戦を通じ世界識者の正しき認識の下にその将来の栄冠あるべきを信ず。

四、戦死戦病死並びに戦災者の遺家族に就(つ)いては元より連合国側に於おいても同情ある救済処置を願いたきものなり。之(これ)も亦(また)誠(まこと)国に殉ずるものにして罪ありとせば、吾吾(われわれ)指導者の責にして彼らの罪にあらず。 而(しか)して吾吾は処断せられたり。彼等を悲運に泣かしむるなかれ。然(しか)も彼等を現況に放置するは遂に国を 挙あげて赤化に追込むに等し、又現在巣鴨にある戦犯者の家族に就いても既に本人各 罪に服しあるものなるに 於いて、 其(そ)の同情ある処置を与えられたきものなり。ソ連に抑留せられしものは一日も速やかに内地帰還を願いて止まぬ。

敗戦及(およ)び戦禍に泣く同胞を思うとき、刑死するとも 其(そ)の責の償い得ざるを。

             —————————–

東條さんの遺書を拝読するたびに、あのような結果となったことへの深い反省と、後世の私たちへの熱い思いが胸に迫ります。
そして、昭和天皇の終戦の詔にもある、「民族絶滅の危機」というものが、再び今度は異なった形で迫っていることへの危惧を東條さんの遺言から感じ取ることができます。

B級戦犯として同日処刑された、松井石根(まつい いわね)陸軍大将は、昭和二十三 (一九四八)年十二月九日巣鴨拘置所において、戦犯教誨(きょうかい)師花山信勝氏に次の言葉を残しています。

—————————–
南京事件ではお恥ずかしい限りです。
南京入城の後、慰霊祭のときに、支那人の死者もいっしょにと私が申したところ、参謀長以下、何も分からんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめ、あんなことをしたのだ。
私は日露戦争のとき、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などと比べてみると、問題にならんほど悪いですね。
日露戦争のときは、支那人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取り扱い、その他よくいっていた。
今度はそうはいかなかった。
政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とはまったく変わっておった。
慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。
そのときは朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが、せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落としてしまった。
ところが、そのことのあとで、みなが笑った。
はなはだしいのは、ある師団長のごときは、当たり前ですよ、とさえいった。したがって、私だけでも、こういう結果になるということは、当時の軍人たちに一人でも多く、深い反省をあたえるという意味で大変に嬉しい。
せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている。
—————————–

辞世の句

   天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く 
   いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば く
   世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等に誠の心 

この辞世を見れば、それだけで精神性の高さ、心の深さがうかがえます。

松井石根さんほど、中国人を大切に思っていた人は、そういないであろうと思うほど、松井さんの中国への思いには篤いものがありました。
それなのに、なぜか、もっとも激しく誤解され、日中間で言い分が異なり、今に至っても論争の絶えない「南京事件」の総責任者としてのポジションにあられました。

   「松井石根と南京事件の真実」著者 早坂隆インタビュー
   https://www.youtube.com/watch?v=TWoWuMO35NM

中国共産党のプロパガンダは、何でも毎日呪文のように言い続けていればそのようになる、という方式で作られていますから、当時の人口よりも多い人数が虐殺されたというこの世ではありえないことも、平気で堂々と主張します。日本人には理解が難しい芸当です。
マネーで操られる世界も、中国側の語気の強さと袖の下に動かされ、一時は世界歴史遺産アーカイブスに「南京大虐殺」は登録されました。
その後、日本からの「アーカイブスの資料内容公開申請」に対し、正しく資料となる内容が実在しないことが露見したため、いまは、再検討の状況にあるはずです。

東條さんや松井さんの大アジア、東アジア構想、私は、それこそが、間違いの原点だったのではないかと思っています。
「昭和天皇独白録」にもあったように、排日移民法の施行などにみる米国からの締め付け、その後の資源供給を止めるABCD包囲網など、「オレンジ計画」( #41 参照)の進む中、確かに人道的に酷い事をしてきた欧米列強ではありました。
人種差別撤廃を提案した日本への抵抗は、すさまじいものであったことも確かです。

しかし、こうした白人至上主義に対して、黄色人種だからということをもって協力し合えるはずだと考え、東亜、つまり東アジアで「一致協力して欧米に負けないアジアの繁栄を」という方向へと夢見たことが、この結果を生んだのだと考えています。

黄色人種だから共に白人に対して一致協力できるなどということはありえません。
肌の色が問題なのではないのです。
どれほど民族性や生活習慣をはじめとして、共有しているものの見方考え方が異なるのかは、白村江のころから、ずっと歴史が証明しています。
単純に「話せばわかりあえる」というような類のことではありません。

振り返ってみれば、当時の選択肢は、欧米かアジアかという選択であったと思われること、だからこその「大東亜」戦争であり、各国がその後欧米の植民地から解放独立に向かったことは、それなりの意味があり、良かったのだと思います。
なおかつ、歴史に「もしも」はありませんし、どう考えても「負けるように出来ていた」としか思われないことも追うほどに感じます。
すべては体験と学びの物語ともいえます。

今に生かされている私は、決して戦争犯罪者などではなかったにもかかわらず「戦犯」として処刑された東條さんや松井さんの残された言葉を通して、後の日本と日本人を思ってくださる忠告と、温かい思いを真に生かしたいと考えています。

次の世代にバトンを渡すにあたって、あのころの「大東亜」思想はこの日本と世界にとっては、正しい道だとは思われません。
「日本人が赤化しないように頼む」ということや、「我が国の古来の美風を保つことが大切である」ということ、「学校教育は従前の質実剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ」といったことなど、多くの大切なことを忠告されています。
「武士道とか人道」の大切さも、我欲を捨てみんなのために大欲に生きる知恵の継承ともいえることなのではないか、と感じます。

私が個人的に感じているところによれば、文明は東回りで伝播していくのが正統な流れなのですが、日本の東は太平洋を越えてアメリカへと繋がっていくのではないかという予感とともに、その昔読んだ村山節(むらやま みさお)さんの文明八百年周期説の時期的つながりから、今の時期は混乱を抜けて日本文明を世界が発見する時代なのではないか、とも予感しています。

混乱する世界にあって、いまこそ、日本の日本らしさ、和の心が世界の役に立つべきだと思うがゆえに、自国の言語や伝統をはじめとする文化を置き去りにして、過度に西洋化している昨今を非常に残念に思います。

東條英機第四十代内閣総理大臣と松井石根陸軍大将の残してくださったお言葉が、まっすぐ胸に響きます。
明日は今上陛下のお誕生日を心よりお祝いして、百年後も日本が日本らしくあるようにと祈りつつ、一日を過ごしたいと思います。

平成二十九年十二月二十二日

阿部 幸子

協力 ツチダクミコ
協力 白澤 秀樹