#46 大東亜戦争の遠因を探る ~その10~ 陸海軍の不一致。

お二人の天皇陛下が大東亜戦争開戦に関して、歴史的な遠因として、どのようなところに焦点をあてられているかを探りながら、あらためて振り返り、学ぶことを試みてきました。
そのなかで、私はたくさんのことを知り、昭和天皇の深いお心に触れ、今上陛下の素晴らしいお人柄に触れることができ、ありがたいことでした。

ひとつ、人間の根源的な「乗り越えるべき体質」とでもいうのでしょうか、「どうしてこんなに人間はケンカが好きなんだろう?」という素朴な疑問があります。

戦争という形は、喧嘩の果ての最終手段ともいえる事件ですが、「殺戮を回避するために取りうる方法、行動の仕方は、ほかになかったのだろうか?」ということを、もっと、身近な問題として、国民の一人ひとりが考えていく必要があります。

昭和天皇は、敗戦の原因として、四つのことを上げておられます。(「昭和天皇実録」による)

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敗戦の原因は四つあると思ふ。
第一、兵法の研究が不十分であつた事、即孫子の、敵を知り、己をしらねば百戦危うからずといふ根本原理を体得してゐなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある首脳者の存在しなかつた事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、といふ様な大人物に缺け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に缺け、所謂下剋上の状態を招いた事。
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陸軍と海軍の不一致については、これで勝てるつもりであったのかと絶望するほどの不一致であったと思います。
当事者というものは、すべからく冷静沈着にものごとを判断するのが難しく、自分自身のことならまだしも、尊敬する上官や愛する部下、昨今ならば身内や家族などを思うと、ついヒートアップしてしまうことは、よくあります。昔もいまもあまり変わりません。

海軍と陸軍の歴史からお話すれば、ペリー来航の時代にさかのぼります。
欧米列強に脅かされるままに明治維新が起こり、明治政府が発足した当時は外洋からの進攻を防ぐため、陸軍よりも海軍が重要視されていました。

日本海軍は、元治元年(一八六四年)、江戸幕府の神戸海軍操練所に始まります。勝海舟が建言し幕府が設立しました。塾生には坂本竜馬(土佐藩)や伊東祐亨(いとう すけゆき 薩摩藩)など、討幕派の志士たちも参加し、近代的な海軍教育を受けました。

陸軍は倒幕をリードした長州藩を中心に、維新後、各藩から石高に応じて兵力を供出させる形で発足し、普仏戦争で勝った、兵制教育のマニュアル化の進んだドイツを手本にしています。

海軍は同じ島国であるイギリス軍を手本にしましたので、組織運営や軍隊内での用語も陸軍とはかなり違っていました。
飛行機の型式でも、皇紀二千六百年(一九四〇年)採用のものは、陸軍では「一〇〇式」と呼び、海軍では「零式」と呼びました。
陸軍の戦闘機と海軍の戦闘機では積んでいる機関銃の口径も違ったため、弾丸が不足していても、貸し借りもできなかったのです。

現在の自衛隊のように、平時から共通の統合幕僚監部によって幹部がそろって作戦方針などを話し合う状況は、このときの反省を踏まえたものだと思いますが、先の大戦では、そうした環境や人間関係が作られておらず、戦時のみ「大本営」が置かれました。

統合すべき大本営が陸海軍に引き裂かれ、引きずられる傾向にあり、調整機関として適切に機能せず、同時に政治的に先見性のある人材がポジションにいなかったことは甚だ遺憾であり、そんな状況で大戦を戦い続けたことに、知れば知るほど驚くばかりです。

いま、第三者としての目で俯瞰すれば、もちろん、協力できなかったことが遺憾なのですが、当時の現場ではそれなりの努力は双方されたことでしょう。
いまの国会を見ても、なんでこうなるのか、わからないことばかりですし、官庁の縦割り行政にも「ええかげんにせい!」と感じることもありますが、現場はそれぞれ大変なはずです。

大変でも乗り越えなければなりません。
チャレンジしていくところに道は開けると私は信じています。

明治時代、帝国陸軍は、世界史でも希に見るほどの精強な部隊でした。
それは、江戸時代の教育があってこそのことです。
徹底した責任感をもち、恥じない生き方を貫くこと、弱いものを助けること、主君に尽くし勤勉であることに価値を見出す教育でした。

その精強さを育ててきた教育制度は、明治維新を境にさまざま変化していきます。
教育機関をはじめ社会制度を支える法律も、大日本帝国憲法として、欧州にならい、整えようとしました。
それを生かす部分も残しながら、戦後、GHQ主導のもと、現在の憲法が作成されました。
大日本帝国憲法、さらに現在の憲法によって、責任者不在の、責任を取らない仕組みが成り立ち、いまに至っています。

何もイギリスやドイツ、フランスを見習わなくても、日本には昔から「憲法十七条」があり、「五箇条のご誓文」もあり、日本らしい、日本のための誇れる憲法作りをすれば良かったのだと思うのは、いまだからであって、当時の世の中は、そのような方向性ではなかったわけですから、これからのための教訓として生かしていくことが大事だと思います。

戦後、昭和天皇だけでなく、軍人であった東條元総理大臣も指摘していたとおり、陸海軍の連携がうまくいかない仕組みが存在したことは事実です。
もちろん、相互に折り合いが悪かったのは、最初からだったとしても、せめて戦争中くらいは、対外的な敵をもって一致協力すべきところ、そのようには動きませんでした。 
使っていた用語や階級制度、教育機関などももまちまちでしたし、何よりも兵器製造に関しての予算取りは双方に大きい課題であり、また、主導権争いもありました。

『敗戦真相記』(永野護著)という本から、抜粋してみます。

—————————–   ここから引用

この陸海軍の不一致ということは、科学能力の劣弱性に匹敵すべき戦争の致命的敗因です。 作戦部門のことは実は今まで全く帷幄(いあく)のかげに閉ざされて皆目わからなかったが、最近になって、だんだん敗戦の経過なんかを新聞などで発表するようになってきて、国民はいまさらに、そうまで陸海軍の間に相剋があったかということを教えられているようなわけです。

 例えばサイパンの戦闘ですが、太平洋戦争におけるサイパンの戦略的価値というものは非常に大きくて、日本の海軍大学で日米戦争の想定をするときに、サイパンを奪(と)られた以後の日米戦争というものは、考えた者はなかったというぐらいです。すなわち、如何なる想定をしても、サイパンというものが日本の手中にあって、その後に日米いかに戦うべきや、と考えるのが常則で、サイパンを奪られて後、如何に日米戦争をするかということは到底考えられないほど、サイパンの価値は大きい。それを、ああ容易に奪られた裏面には、陸海軍の作戦の不一致があった。

さらに沖縄の戦闘にいたっては、我々素人としても心外に堪えないのは、海軍がもう沖縄が本当に最後の防衛線である、沖縄決戦のためには根こそぎの兵力を出すというのに、陸軍がそれに相当する力を沖縄に注いだかということはすこぶる疑問で、沖縄決戦の直前に精鋭の金沢師団を台湾に移したという事実すらある。恐らく陸軍は陸軍の立場から最後まで本土決戦ということを考えておったというのが事実でしょう。

 ところが、我々素人考えから言うと、海軍がいわゆる世界戦史にもない悲壮な戦艦の殴り込みというようなことをして沖縄防衛に最後の一艦まで投じてしまった後で、陸軍だけで決戦ができるということは考えられない。決戦ということは、その言葉の中に、これから戦争を決するという意味があるので、単に戦争が続くことは決戦とはいえない。例えば、日清戦争で台湾を取っても生蕃(せいばん:台湾原住民諸民族)は山の中で三十年近く蠢動(しゅんどう)しておったのだが、あれが日清戦争の続きとは言えない。いわゆる、残敵掃討の範囲を出ない。決戦は沖縄がまさに最後であったのですが、それを「本土決戦」というような言葉を使って、まだアメリカが勝つか、日本が勝つか、わからないというような報道の取り扱いをしたことは、如何に日本の軍部に深遠の計画があったのか、我々素人にはさっぱり解せない。むしろ我々素人が考えることは、もっと沖縄に陸軍の精鋭を置いて陸海協力一致して、ただの一度でもいいからアメリカを水際に叩き込むという大戦果を挙げたならば、今度の戦争の顛末に、あるいは多少の変化が起きておったのではないかということです。

 ソ連は強ければ親友、弱ければ仇敵(きゅうてき)となる現実主義の国ですから、沖縄を頑として守り抜けば、それは単にアメリカの局部的な一兵力を破ったということでなくて、外交的にも大きな転換が来たのではないかとも考えられる。これなどは陸海軍の不一致が生んだ最も不幸な実例であって、台湾に移った金沢師団の精鋭は、一発の弾も撃たないで終戦となってしまったのです。

 また、支那その他の占領地区の防備にしましても、ここは陸軍地区、あそこは海軍地区というような、まるで各国の連合軍が領土を取ったような観念です。ちょうど、アメリカとソ連が朝鮮を北緯三十八度で分けて、京城〔ソウル〕はアメリカで、平壌〔ピョンヤン〕はソ連で統治するというようなやり方をしている。どう見たって、一国の陸海軍の一致した兵力運用の仕方ではない。これは元々、日本のなかに陸軍という国、海軍という国があったと、言い得るでしょう。

 戦争が進むに従って、この陸海軍の対立がひどくなり、整備の点から言っても、陸軍が次第次第に海軍の領域に侵入してきて、陸軍は自分だけで船舶兵というような水兵をつくり、駆逐艦もつくり、潜航艇もつくった。進んで航空母艦も戦闘艦もつくらなければならないと言い出した。これでは何のために一国のうちに、海軍というものがあるのか、わからなくなる。もちろん陸軍専用の造船所もつくる。例えば、函館船渠〔現 函館どっく〕という会社だけでも陸軍専属の造船所にしようとしたので、海軍は驚いて抗議を持ち出して、結局、函館船渠は陸海軍共管ということに納まったけれども、海軍がこれに対抗して同じ陸戦隊の名の下に大砲や戦車を持つようになったならば、全く一つの国のことではなくなります。つまり日本の軍部というものは陸軍国、海軍国という連合国以上の何物でもなかったというのが実情でしょう。

 以上の作戦方面における陸海の相剋は戦争の最中はいわゆる、厳秘に付せられて、国民にあまりよくわからないけれども、軍需資材の方面になってくると、これは非常にはっきりしたもので、工場関係の者は誰でも一つや二つの材料は持っていないものはないというぐらいです。例えば大日本兵器という会社の青砥の工場に行ってみると、同じ工場に門が二つ並んでいる。工場の当局者に聞いてみると、一つは陸軍の軍人さんのお通りになる門、一つは海軍の軍人さんがお通りになる門だということです。「ひどい肺病患者や伝染病患者が通るのでも門は一つでいいのに」と言うと、「どうしても軍人さんたちがそういう御註文をなさるから、二つ門をつくった」と答えた。

 門を別にするぐらいですから工場は無論、別にする。別にするばかりでなく、その間に高い塀をつくって、陸軍の工場から海軍の工場のほうには一人の工員も融通しない。同じ会社の中で互いに往復はできないし、たとえ片っ方の工場が非常な手空きになって工員が仮に遊んでおっても、片っ方の忙しいほうの工場に援助に行くなんていうことはもってのほかのことである。仮にちっとでも手伝いをすると、あたかもスパイ行為、利敵行為、敵国の工場の手助けでもしたというようなことに見られて、憲兵にひどい目に会う。これは本当のことです。睦海軍の仕事を一緒にやっている、どの工場にも見受けられた風景です。

 それから資材でも、一方の陸軍の工場のいま急に要らない資材を海軍の工場のほうに廻してやれば、すぐその日飛び立つ飛行機ができるというような事情があっても、陸軍は断じてこれを割愛しない。反対に、海軍で全く要らない資材で、陸軍では咽喉から手の出るような物でも決して渡さない。そうして、お互いに資材難に悩んでいる。ちょうど一足の靴を取りっこして、一人は右だけ、一人は左だけ取って、しまい込んでいたため、両方とも裸足で歩いて怪我をしたというような馬鹿気たことが随時随所に起こっています。

 これは、ある近畿地方に起こった例ですが、今年〔昭和二十年〕度になってから松根油(しょうこんゆ)の採取ということが非常にやかましく言われ、国民はこれさえあれば飛行機が飛べるというので、寝食を忘れて一生懸命になって松の根を掘ったが、これにもやはり陸軍地区と海軍地区があって、陸軍地区で掘った所は陸軍だけが使う、海軍地区になっている所の松の根は、挙げて海軍が使うという協定になっておったのに、近畿地方の海軍地区のある村が非常に勉強をして、相当にまとまった材料を溜めているところへ例の陸軍の船舶兵の暁部隊がやってきて、その松根をトラックで持ち去ってしまった。海軍はこれを見て、非常に怒って、今度来たらうんと取っちめてやろうと待ちかまえていると、また、暁(あかつき)部隊が掠奪に現われたものだから、「それっ」というので、衆人環視の中で陸軍と海軍が上を下への大乱闘をやった。村民は全くあきれて涙を流して悲しんだ。そこの知事をこれを聞いて、「陸軍海軍が帷幄の後で噛み合うのは仕方がないが、どうか白昼国民の前で噛み合うことは止めてくれ」と、陸海軍両方に申し込んだという事実があります。

 また、瀬戸内海のある地区では、敵の爆撃が激しくなったので、岬の海岸を掘り抜いてそこの舟艇を隠すことにしたのです。ある岬を陸軍と海軍が互いに気がつかなくて、各反対側から掘り始めて、途中でそのことがわかり、そうして、こともあろうに役場に両方から出向いて、町長にその境界争いの仲裁をしてくれということを持ち込んだ。役場の者は驚いて、陸海軍の争いを役場で調停することはできないから、相談づくでやったら、よろしかろうと言ったが、いや俺たちではできないというので、町長さんは困ってしまった。結局、陸海軍各々反対の側から掘り進んでいるのだから、そのままずんずんと掘っていって、ぶつかったときに改めて相談したら、よろしいじゃありませんか、というので、切りがついたという醜態もあった。

 戦争資材に関する最も目立った縄張り争いは、鉄の争いだったが、結局、日鉄(日本製鉄)は海軍が古くからの関係で押えた形になっているから、陸軍は日本鋼管に主力を注いで、いつの間にか鋼管は陸軍の製鉄工場、日鉄は海軍の製鉄工場というような形になっていた。こういう暗闘がそうでなくても少ない日本の鉄資材を如何に非能率的にしたか、わからない。単に鉄材に限らず、どんな材料でも陸海先陣争いで押さえてしまう。自分が要るから押さえるのではない。黙っていると相手が使うであろうと、要っても要らなくても押さえてしまう。だから、本当に要るところでは間に合わない。錫(すず)、銅、アルミ、ニッケル、その他薬品であろうが、食糧であろうが、葉っぱであろうが、皆そうです。

 笑い話みたいな話は空襲のときに爆弾で牛や馬が死ぬ。普通の市民はこれを食おうと思っても、何とか取締り規則というのがあって、自由にすることはできないが、陸軍と海軍の兵隊はちょうど花火が落ちたときに、そのからを子どもが取りに行くような格好で、あそこで牛が一頭焼死しているというと、「それっ」と言って、陸軍と海軍とが駆けっこで取りに行く。トラックが間に合わないときには、実際に駈け足で行きます。そうして、片っ方は牛を五頭も六頭も押さえて、食い切れないで牛肉の臭いをぷんぷんさせているのに、片っ方ではたまたま駈けつけるのが遅かったために、鼻をぴくつかせながら、うらやましそうに、これを眺めておる。これは、ごく卑近な例ですが、一斑をもって全豹を察するに足り、陸海軍全体としての運営なんていうことは夢想だにできなかった。これが今度の戦争の敗因のうちで、科学兵器の立ち遅れと相並んで致命的なものでしょう。

 また、小さい例は同じ用途のネジをつくるにしても、陸軍が右ネジにすれば、海軍は左ネジにするというようなことをする。すなわち、どんな部分品でも、陸軍の物は海軍では使えない。海軍の物は陸軍では使えないようになっていた。軍需省はこれら陸海軍の生産競争を調停するためにできたもので、せめて資材の方面だけでも統一されるという希望がかけられていたが、この最小限度の希望すら戦争の最後まで達成されなかった。だから、わずかに残っている民需の方面にのみ囗をきいたので、名前は軍需省だけれども、やっていることは民需省であった。肝腎の陸海軍は軍需省をさし置いて相変わらず別々に発註し、軍需省は単にこの陸海軍の発注の跡始末をつけていたに過ぎない。綜合立案計画というものは何一つとしてできなかった。およそ軍需省ぐらい設立の理想と実際の運営とが違った役所はないでしょう。

 しからば、陸海軍当局者はこの競争相剋の弊害を知らなかったかというと、もちろん大知りです。第三者よりも身にこたえて知っている。それはそうでしょう。お互いに陸軍御用、海軍御用の写真屋を抱えていながら、一方は、印画紙は豊富だが、現像薬がなくて困っている。一方は、現像薬はありあまるが、印画紙が足りなくて写真が撮せないという現象が毎日起こっているのですから、これは何とかしなければならないと、陸軍、海軍の個人個人は大知りなのですが、知っていて直せなかったのが、すなわち亡国の兆しだった。あれよ、あれよという間に激流に押し流され、お互いにわかっていながら滝壺に落ちこんだというのが今日の実情であります。

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   『敗戦真相記 予告されていた平成日本の没落』  
   永野護著   バジリコ刊   千円+税  

いまの国会を見ていると、何がしたいのかわからない代議士たちがたくさんいます。
昔もいまも、頭のおかしな人は存在しますが、戦前よりさらに劣化しています。
国民を代表して選ばれてくる人たちによる政治の場も、同様といえるのではないでしょうか。

私たち、一人ひとりが、選んで生きていくことで、全体の将来が生み出されていきます。
認識してもしなくても、日本の針路は、日々の私たち国民が決めているのです。

子々孫々、良い世界に生きたいならば、よく学び、しっかりとした判断をしていかなければなりません。
よく知り学び、責任感を持ってしっかり担っていくことが、私たちの人生をより豊かにする礎となります。

平成二十九年十二月十五日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ
協力 白澤 秀樹