#44 大東亜戦争の遠因を探る ~その8~ 済南事件

新嘗祭(にいなめさい・現在は勤労感謝の日)も過ぎ、いよいよ師走に入ります。

北朝鮮情勢も、米中がどのように動くのか次第の様相ですが、次々漂着してくる北朝鮮国籍の船が、北朝鮮状況の暗さを思わせる一方、国会では相変わらず野党によって「森友学園問題」の徹底追及が行われている様子、日本の政治は北朝鮮情勢以上に深刻かつ重症で根深いかもしれません。

どうしたら改善していけるのか、少なくとも国会からは、「反日勢力」は追放されるべきだと思います。
先月の国政選挙結果は、ひとまず安堵する状況でしたが、保守のなかにも訳のわからない議員が多く存在しています。
官僚機構の動きも、国民から見たら、よくわからないことが多いのではないでしょうか?

北は北海道から、南は沖縄から、じわじわと日本の土地が買い占められつつあります。
対馬など離島もそうです。
対馬は、韓国人がものすごく買っていて、観光客も韓国人がものすごく多い、と言われていますが、ある日突然、全部中国に売却ということも懸念されています。

このあたりのことも、ようやく、心ある代議士の発言などを通して国民の声が届き始め、国も対策を講じるようですが、去年は国土交通省が外国人向けに、日本の土地を買う方法をパンフレットにして配布するという話もありました。トラブルが多いためと聞いていますが、まるで不動産取引を促すかのようだと批難の声もあがりました。
四国に暮らす友人が、開拓して歴史の浅い土地は、先祖伝来の土地と違って、土地を守るという意識も浅いのではないか、彼女の故郷ではお金で飛びつくなど考えられないことだと教えてくれました。

財務省のプライマリーバランス黒字化目標のおかげで、失われた二十年の景気悪化に輪をかけて国民生活が貧しくなり、売りたくなくても生活が成り立たずに手放す方も多くいらっしゃると思います。

他国に資金援助をしたり、莫大な額の投資をする一方で、国民生活はお題目ばかりで、一部の人以外は一向に改善しないと感じられるから、保守が弱くなっていたのだということを認識して、保守側も一度襟をただし、自分たちだけでなく国全体のことをしっかりと考えなければ代議士を続ける資格はありません。

日本全体で考えたとき、個々人の自主的な抑制が無理なら、国が法律を整えるなどの工夫をしたほうがいい事態ではないかと思います。

日本を愛し、日本を良くするための議論の場に、日本が弱体化し国がなくなるほうへと誘導したいグループが存在すること自体、由々しきことだとお思いになりませんか。

昭和天皇のさまざまな慮り、思いの深さに触れるたび、胸が張り裂け、全身が凍りつくほどに打ちひしがれた思いになります。
残された私たちは、これをバネとして日本人が精神面も含め、ほんとうにしっかりと自分の足で立つことを目指していかねばならないと思います。

それは、当時の軍人、靖國神社の英霊を思うときも同様です。
数々の名将、優秀な人材が散って往きました。
あらためて書きたいと思いますが、東条英機首相の残されたお言葉にも涙がこぼれます。

その一方、「どういうこと?」「何があった?」と首を傾げたくなることや、同じ靖國神社に英霊として祀られていて良いものなのか?と思う軍人も、複数いらっしゃいます。
「恥を知れ!」と、腹の立つことも多くあります。

今となっては取り返しはつきませんが、良い面も悪い面も、ともに貴重な後世へのデータです。
活かすために、やはり教訓としなければ申し訳ないのではないかと思っています。

その前に今回は今上陛下が、どのように大東亜戦争の遠因をお感じになられているのかについて、考えてみたいと思います。

平成十五年、今上陛下による記者会見でのお話を振り返ります。

  天皇陛下お誕生日に際し (平成十五年)  
  会見年月日:平成十五年十二月十八日
  http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h15e.html  

七十歳になられた陛下が、お心から離れることのない喜びと悲しみを振り返られたなかに、まず、大戦のことがありました。

—————————– 引用 ここから

七十年を振り返り、日本が,先の大戦による国民の多くの犠牲と国土の荒廃から立ち上がり、貧富の差の少ない平和な民主主義の国として発展し、国民が様々な面で豊かになっていることに深く喜びを感じております。
多くの困難を乗り越え、今日の日本を築くために力を尽くした人々の努力に深く感謝しています。

しかし、この七十年の間には多くの悲しい出来事がありました。最も悲しい出来事は先の大戦で参百万人以上の日本人の命が失われ、また日本人以外の多くの外国の人々の命が失われたことです。
さらに、この戦争では戦後も原子爆弾による放射能やソヴィエト連邦への抑留などにより、多くの人々が犠牲となりました。

—————————– ここまで

戦後も続いた原爆投下による人々の苦しみや、シベリア抑留についても触れられています。

そして、記者会見が進みます。
「問四」として、歴代天皇の中で初めて「象徴天皇」として即位されてから十五年を迎えられた陛下に、平成の十五年間についての質問がありました。
高齢化問題、さまざまな災害へのお言葉の後、以下のようなご発言が続きます。

—————————– 引用 ここから

現在の日本はこのように様々な面で厳しい面がありますが、それを昭和元年から十五年までの期間と比べるとき、平成の十五年間は、自然災害には誠に厳しいものがありましたが、比較的平穏に過ぎた十五年であったということをしみじみ感じます。
この十五年間を支えてきた人々に深い感謝の念を抱いています。

昭和の十五年間は誠に厳しい期間でした。
日本はこの期間ほとんど断続的に中国と戦闘状態にありました。
済南事件、張作霖爆殺事件、満州事変、上海事件、そして昭和十二年から二十年まで継続する戦争がありました。
さらに昭和十四年にはソビエト連邦軍との間にノモンハン事件が起こり、多くの犠牲者が出ました。
国内では、五・一五事件や二・二六事件があり、また、五・一五事件により、短期間ではありましたが、大正年間から続いていた政党内閣も終わりを告げました。
この十五年間に首相、前首相、元首相、合わせて四人の命が奪われるという時代でした。
その陰には、厳しい経済状況下での国民生活、冷害に苦しむ農村の姿がありました。
そして戦死者の数も増えていきました。皇太子時代に第一次世界大戦のヴェルダンの戦場の跡を訪ねられ、平和の大切さを強く感じられた昭和天皇がどのような気持ちでこの時期を過ごしていらっしゃったのかと時々思うことがあります。
私どもは皆でこのような過去の歴史を十分に理解し、世界の平和と人々の安寧のために努めていかなければならないと思います。

皇族はそれぞれの立場で良識を持って国や人々のために力を尽くしていくことが大切と思います。

—————————– ここまで

災害はあっても平和を維持できた平成の十五年を振り返られて、日中間で戦闘状態にあった昭和の十五年間と比較され、「済南事件 」を筆頭にあげられています。

通州事件 」はこのごろ、多くの方が書籍にされたり、講話をされたりして耳にする機会が増えていますが、最初に「済南事件」が出てきていることに私は少し驚きました。
そして調べてみて、さらに驚きました。

—————————–  済南事件とは 

一九二八年(昭和三年)五月三日、済南事件。

北伐軍(蒋介石軍)が山東省済南市に入城し、日本人居留民に乱暴狼藉を働いた事件。
邦人経営商店での略奪行為をきっかけに日本軍と衝突。
日本の被害は、戦死九名、負傷三十二名、居留民の惨殺十四名、暴行侮辱三十名余、奪被害戸数百三十六戸、被害人員約四百名。

—————————–

詳細については、あまりにも残酷なものであるため、下記URLでご覧いただければと思います。

  正統史観年表  済南事件
  http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-109.html  

 「済南事件で殺された日本人の写真」が「731部隊の被害者」として中国の教科書に掲載
  http://brain.exblog.jp/2809948/   

  済南虐殺事件
  http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/09/post-3a19.html  

  動画 【通州事件】中国人に虐殺された日本人200人以上
  https://www.youtube.com/watch?v=I-12jeFWq_k  

  動画 通州事件80周年 記憶と慰霊の国民集会 ①
  『プロモーション動画上映』  2017/7/29
  https://www.youtube.com/watch?v=sTB7PopzHDg  

  南京大虐殺にすりかえられた通州事件とは?
  https://matome.naver.jp/odai/2136085750120640001  

  『大東亜戦争への道』
  中村粲(あきら)著   1990.12.8   展転社
 
  『日中戦争知られざる真実』
  黄文雄著  光文社

人の和の輪、円には中心が必要です。 
町の和も、国の和も、国々の和もそうです、すべては相似形です。
その国の中心に、普通にどう考えても、ご尊敬申し上げるに値する天皇陛下をいただくことのできる国に生まれ、ありがたく思います。

昭和天皇は、錚々(そうそう)たる方々によるご進講によって育まれましたが、いまは一体どうなっているのか、気にかかります。

国民の教育はさらなり、です。
自分自身、この年になって基礎からの再教育を自ら行わねばならない状況であったという発見は、若い頃には思いも寄らないことでした。

せっかくですから、ともに学んでまいりたいと思います。

平成二十九年十二月一日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ