#43 大東亜戦争の遠因を探る ~その7~ シラスクニの情報共有



『昭和天皇独白録』や『側近日誌』などを読んでいくうちに、「当時、正しくすべての報告が天皇陛下に上られていなかったのではないか?」と感じることがありました。

昭和天皇による政治家たちや軍部への評価のなかに、失礼ながら、明らかに違うのではないかと思うことがあったからです。
ほとんどの登場人物がすでにこの世にいないことを思うと、残念ながら今となってはご本人たちには確かめようもありません。
意図的かどうかは別として、誰かが間違った情報をお入れしていた、としか考えられません。

はずされるべき人が重用されたり、評価されるべき人がはずされたり、ということが、気づいただけでもいくつかありました。

今も、社会では「報告・連絡・相談」の「報連相」は、まめに、大事にしなさいといわれます。
当時の規律の厳しい軍において、正しく伝えないことなど基本、あり得なかったでしょう。
「報連相」の重要さなど皆さん、百も承知であるはずなのに、実際には、天皇陛下に対して「正しく報告」がされていなかったのではないか、と思われるのです。

保身、スパイ、策略、いろいろなことが命がけで渦巻くなかで、「天皇陛下に対して嘘のご報告をするなど、まさか・・・」と戸惑いながらも、あり得た話ではあると思います。

せめて、陛下に対して「こんなことを申し上げては・・・」という気持ちからであったと思いたいところです。
戦況が非常に悪ければ悪いほど、そして日本が寝首をかかれたなら、惨状を含め、たとえ酷すぎることでも、そのまま報告しなければならないと思います。
それによって、判断が違ってしまうこともあり得ます。

誰にもよい顔をしたい人、という八方美人型の政治家もいたと思います。
スパイに入り込まれた政権もありました。

  尾崎秀実の手記を読めば、第二次世界大戦の真相が見えてくる
  http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-280.html  

大東亜戦争で、ほんとうに酷かったと思うことのひとつが、開戦と終戦の始末です。
天皇陛下を現人神にして国民を動かそうとしていながら、立憲君主制だからということで憲法で明確に政治へのご意見を発することを禁じる、という、捩れた状態でした。

アメリカのオレンジ計画によって、次第に苦境に追い込まれていくなか、反撃手段として戦争を始めたかったのは、一部の政治家や一部の軍部でした。昭和天皇ご自身は「米英とは戦争はしないようにしたほうがよい」と最後までお考えであったにもかかわらず、開戦に至ります。
終戦の年、無慈悲に一般市民の生活を破壊する「絨毯爆撃」が各都市に行われました。
なかでも陸軍記念日であった三月十日に行われた「東京大空襲」では下町を中心に一度に十万人以上の民が命を失い、関東大震災から復興していた東京は再び、今度は人工的手段によって焦土と化します。
日本軍の戦い方に、そのような一般市民の居住地を焼き尽くすような戦法は、有り得ないことですし、いまも昔も、そのような戦い方は国際法において違法行為です。
違法であったとしても現実に行われ、ここに至って、「日本民族絶滅の危機」を回避するために一刻も早く、できる限り国民生活を守り国体を維持しつつ戦争をやめる、というご英断を昭和天皇が下されます。立憲君主制の壁を越え、昭和天皇がお言葉を発しなければならなかったという事実です。

   東京大空襲
   http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html  

   東京大空襲 ~ その投下方法  (注 : 残酷な写真が多数あります)
   http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-153.html   

ちなみに、東京大空襲を指揮した米軍のカーチス・ルメイは、池田内閣時代に叙勲が決められ、昭和三十九年佐藤栄作内閣のときに「航空自衛隊の発展に貢献した」という理由で勲一等を受賞しています。

開戦だけは「立憲君主制」をよいことに陛下のお考えを差し置いてもする、けれど、終戦の判断は思考停止状態に陥ってしまってできない、という状況を作り出していました。

人々の精神性が低かったから、そのような政治家しか選出できなかったし、憲法をはじめ社会システムの不備を正せず、国民も陛下も守れなかったのだと謙虚に反省し、そこから学ばねばなりません。

今はよくなっているでしょうか?
まだまだ、まったく反省が足らない、当時からほとんど何も学んでいないといえそうです。

終戦時四十四歳であった昭和天皇が、戦後、占領軍のマッカーサー元帥とのお話も、おひとりで対峙され、それは結果的に良かったので特に問題は起きませんでしたが、七月にはすでにポツダム宣言を受諾するとご決断されていた昭和天皇は、国民に向けて発せられる玉音放送のNHKへの搬入も、終戦を反対する者たちに奪われないようダミーを作るなどの工夫をされ、なんとか放送されたものでした。

終戦後、左翼と思われる人たちが天皇陛下に戦争責任をかぶせようとするような発言や風潮があります。
よく知りもせず、尻馬に乗る人たちもいました。
占領政策の一環としてGHQの制作したNHKラジオ番組「真相はかうだ」で一気に毒され、左傾化した人たちもいます。

戦後の長い期間にわたって、教育を含めた日本精神の破壊工作がありました。
しかし、すでに七十年が過ぎ、そうした工作があった事実もアメリカ側から公開されています。
いまこそ、日本精神を立て直さなければ「国家」として立つ、その内容が入れ替わってしまいます。
和の精神は、国防力を落とすこととイコールではありません。
憲法九条があれば平和が維持できるなどという考えは、妄想です。
時流が日本にとって平和に動いていた幸運な期間だったというだけのことです。
合理的に考えればわかるはずです。

今の世界をその成り立ちとともに、自分たちの願望による思い込みでなく、「よく見て考え、きちんと知る」ことが大事です。
相手のことを知らないで、対策などできるはずがありません。

昭和天皇は、敗戦の原因として、四つのことを上げておられます。(「昭和天皇実録」による)

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敗戦の原因は四つあると思ふ。
第一、兵法の研究が不十分であつた事、即孫子の、敵を知り、己をしらねば百戦危うからずといふ根本原理を体得してゐなかったこと。
第二、余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。
第三、陸海軍の不一致。
第四、常識ある首脳者の存在しなかつた事。往年の山県(有朋)、大山(巌)、山本権兵衛、といふ様な大人物に缺け、政戦両略の不十分の点が多く、且軍の首脳者の多くは専門家であって部下統率の力量に缺け、所謂下剋上の状態を招いた事。
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私は、元老の一人、山県有朋公に関しては、宮中某重大事件をはじめ、あまりにご自身の天皇観や願望が強すぎて、言動のあちらこちらにさまざま首を傾げたくなりますが、「往年の」というと、確かにそうかもしれません。少なくとも、元老のみなさんは、伊藤博文公も日露戦争に対し、「戦争はしてはならぬ」という姿勢をお持ちでした。
戦争に勝っても、日露戦争によって負った傷の深さは、失った命の数だけでなく半端なものではありませんでした。
弱体化した日本の状況を見て、そこに乗じて仕掛けられたのが、大東亜戦争です。

武士道は、今でいう「軍事学」に一部通じるものでもあるといえます。

今にして思うと、ということになってしまいますが、大東亜戦争のような「(一部では)負けるとわかっていた戦」など、してはならないのは当たり前です。
こうしたことを、教えていくのが「軍事学」です。

アメリカをはじめ、各国において、大学等の高等教育で「軍事学」を教えないのは日本だけ、と聞いています。
感情的な流れに押されて戦争に走るなどということのないようにするためにこそ、軍事学が必要なのです。

日本人は、普通に育った場合、そうした教育をまったく受けていません。その結果、無知すぎるのです。もちろん自分を含めてです。
防衛大学校や自衛隊に入って初めて教えられるのです。
一般の大学教育では教えていません。

容易に戦争をしないためにこそ、軍事学や地政学が必要なのに平和を望みながら教えないのは、何故なのでしょうか。
無知はもはや罪である、といえそうです。

昭和天皇の御辞世は、

  やすらけき 世を祈りしも いまだならず 
  くやしくもあるか きざしみゆれど

この御製は、昭和六十三年八月十五日に天皇陛下が全国戦没者遺族に御下賜あそばされたものです。
「安らかな世をずっと祈り続けてきたけれど、それはいまだなってはいない。そのことが悔しい。きざしはみえているのだけれど」というおおみこころです。

あれから三十年。
正しく歴史を見直しつつ学びなおしていくと、むしろ、羊の群れのようにおとなしく従う民衆を作る目的で、WGIPの壮大な計画のもと戦後教育のソフト洗脳にさらされてきたにもかかわらず、ここまでよく持ちこたえていると感動すら覚えます。
自虐史観を離れ、本来の日本語脳が目覚めたときが、結果として健全な日本を取り戻すときです。
まだ遠い道の途中に思えますが、意識が変わればあっという間に変容できるのが日本の底力です。

正しい歴史を学び、胸を張って生きること、恥知らずなことはしないこと、健全な日本らしさ、日本精神を取り戻したいものです。

平成二十九年十一月二十四日
阿部 幸子
協力 ツチダクミコ