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<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十四回

積哲夫の問い

島津斉彬なしに、西郷隆盛は存在しなかったというところから、再び、歴史上のイフの問いです。島津氏の由来が、伝承されているように、源頼朝にあるとすると、斉彬の構想のなかには、幕府の打倒というより、本来の危機に対する幕屋としての政権があったのではないでしょうか。このストーリーを西郷隆盛は、知っていたにもかかわらず、薩長同盟へとつき進んでいったとすると、その背後には、大きなちからというか、歴史の闇のようなものが、隠れている印象があります。正史には記されていない、そうした暗闇があって、日本神界が明治維新を評価しない結果がもたらされたのだと私は考えているのですが、その辺のところで、何か知っていることがありますか。

 

マツリの返信

島津氏の祖とされる忠久には、源頼朝の子だったものの近衛家の家臣惟宗(これむね)氏の養子となった、摂津(大阪)の住吉大社で生まれた時には、周囲は狐火で照らされていた、という伝承があります。惟宗氏は、渡来系の秦氏のなかで讃岐(香川)を本拠とした一族で、京都に移って近衛氏に仕えていました。今では、島津忠久は惟宗氏の実子であったという説が有力です。島津氏は鎌倉時代から、代々幕府と近衛氏の間の連絡役をつとめたといわれるので、源頼朝の伝承はその関係性から作られたものだと考えられます。十三代将軍の徳川家定に嫁ぐ際、篤姫が一度近衛家の養女になったのも、このような近衛家と島津氏の縁によるものです。

島津斉彬は、老中の阿部正弘や水戸の徳川斉昭、福井の松平春嶽、愛媛宇和島の伊達宗城らと交流があり、幕府の政治改革についても積極的に提言をしています。斉彬がめざしていたのは、倒幕ではなく幕政の改革です。琉球に対する諸国の開国要求に対応した経験から、海防の必要性を進言しています。近代化遺産として知られる鹿児島の尚古集成館の事業は、西洋のような船の建造を行うことを目的にすすめられていました。

「島津が将軍の座をねらっている」といううわさが立ったのも、有力な大名だったからですが、幕末の諸藩の記録には、下級藩士の暴走を上役が必死におさえていた様子がよく出てきます。疑いをもたれるような事件を起こせば、藩が処分を受けるおそれがあるので「将軍の座をねらっている」とうわさされていた鹿児島藩は、特に慎重になっていたはずです。下級家臣のひとりに過ぎなかった西郷さんが、それなりのはたらきをすることができたのも、将軍家と近衛家に近い島津氏の家臣という後ろ盾があったからでした。江戸で生まれて藩主となるべく育てられた、斉彬のような広い見識と度量を、当時の西郷さんが持つのは難しかったと思います。また、江戸の末には「源氏の棟梁が武家の棟梁で、征夷大将軍」という説はほとんど意識されていなかったとみられますので、幕府とは本来、国の危機に当たる幕屋だということには、考えも及ばなかったのではないでしょうか。

島津斉彬が亡くなったのは安政五(一八五八)年、薩長同盟は慶応二(一八六六)年のことです。その八年の間には、各国との通商条約の調印、桜田門外の変、和宮降嫁、薩英戦争などが起きています。また、コレラが流行し、外国との貿易をはじめたことで金が大量に海外へ流出するようになるなど、国内の情勢は非常に不安定になっていました。

正史の内容でも、いくつかの資料の内容をあわせてつないでいくと違う事実がわかって、別の見方ができます。現在はほとんど知られていませんが、当時は幕府の打倒をめざす「倒幕」だけでなく、天皇の退位・廃位をせまる「廃帝論」もありました。御所の襲撃や行幸を利用して天皇を奪う計画は、何度もあったらしいことが、幕府や会津の側の資料からうかがわれます。

よく、元治元(一八六四)年六月の池田屋事件は「新撰組による尊攘派の取り締まり」と説明されます。一方、新撰組の側には「御所襲撃と天皇移送の計画があり、そのための会合が池田屋で行われるという情報が得られたので踏み込んだ」という証言があります。ついで七月に起きた禁門の変(蛤御門の変)は、長州藩主父子の処罰の撤回を求めたものと説明されていますが、久留米水天宮の真木和泉(まきいづみ)や長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)らの過激派が中心となって御所を襲撃し、孝明天皇や睦仁親王を奪って移送する計画も含まれていました。真木和泉も久坂玄瑞も、勤皇の志士として有名な人物です。そして、禁門の変を受けて第一次長州征伐がはじまり、長州藩は一度は謝罪恭順しましたが、長州再征伐の勅許が翌慶応元(一八六五)年に出されて、慶応二(一八六六)年六月に第二次征伐の軍が起こされます。

この間の慶応二年一月にいわゆる「薩長同盟」が結ばれたといわれています。薩長間の盟約書は残っていません。残っているのは、桂小五郎が書いた手紙の裏に、仲介をしていた坂本龍馬が『談論した内容に間違いない』という確認の裏書きをしたものです。手紙に書かれている内容は、第二次長州征伐を前提にしていると見られ、「長州が勝っても負けても、冤罪が晴れるまで薩摩は朝廷に対して尽力してほしい。冤罪が晴れたなら、ともに皇国のために尽くす」という内容です。

坂本龍馬らの亀山社中や海援隊に資金を提供していたのは、鹿児島藩でした。結果として、鹿児島藩は第二次長州征伐には出兵せず、新型装備の長州軍に旧式装備の幕府軍は連敗して、七月の将軍家茂の死で征伐軍は中止されました。

この年の十二月に孝明天皇が急死して、翌慶応三(一八六七)年一月に明治天皇が即位しています。なお、坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたのは、慶応三年の十一月です。

この頃の日本の動きに精神界が関与した形跡はないので、神界からの情報は得られません。かわりに、次の内容を人間の世界に伝えるようにとのことです。

「悪魔と取り引き、つまり『悪魔との契約』の意味を知らない人間は、悪魔と対話をしてはならない。契約だったら、破棄すれば元に戻るだろうというのは、人間側の甘い考えに過ぎない」

「普通の人間が悪魔との対話や取り引きをしてはならないということは、精神世界に本来あるルールのはずですが、すでにそのことをほとんどの人間は忘れ去っているということが、今回の積さんの問いへの答えです」