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<明治百五十年に、何が終わるのか?>第十一回

積哲夫の問い

明治百五十年を迎えようとするいまの内閣総理大臣が、長州の出身者であるというのは、偶然ではないというのが、精神界からの伝達なのですが、この百五十年を冷静にふり返ると、西南戦争によって、日本の支配権を握ったのは、長州閥というか長州人脈だったということになります。この長州の優位の結果が、歴史をこのようなものにしたともいえるわけです。ここで、歴史にイフはないとしても、明治維新が、こうならなかった可能性を改めて、考えてみたいと思います。登場人物は、会津藩の松平容保で、もし薩長の同盟がなく、将軍家茂と孝明天皇の死がなければ、会津と薩摩は手を結んだ可能性が高いと思われます。「最終知識」の日向と日高見の関係です。ところが、西南戦争では、会津藩の出身者が抜刀隊などに多数参戦、鶴ヶ丘城の敗戦の無念を晴らすはたらきをします。いまでも日本の軍も警察も、明治につくられた「抜刀隊」の曲を正式の行進曲として使っています。このあたりに、大きな秘密があるようなのですが、何か伝えられていることがありますか。

 

マツリの返信

これまで西南戦争と薩軍の人たちの足跡を追いかけるかたちで進んできましたが、積さんの問いは、第九回「南朝と西郷一族の秘密」で会津の西郷頼母のことにふれ、第十回「伏見稲荷と桐野利秋」、第十一回「薩摩と会津」と続いています。この流れは「最終知識」第一章の、日向(霧島の高千穂)と日高見(福島の安達太良山)の間にあって、光を妨害していた闇の結界が伏見の山だったという『日本のしくみ』と同じです。

「最終知識」には、伏見の闇の結界は人間の欲望とこころから生じた闇のエネルギーが作ったもので、「闇はやがてそれ自身が、神のごとく振る舞うであろう」と書かれています。そして、積さんと同行者さんのご神業は福島のあと月山、明治神宮、沖縄の順に続いていきます。戊辰戦争は伏見からはじまり、会津若松で悲しい戦いがありました。そして、沖縄戦までの出来事を考えると「人から生じた闇が神のごとく振る舞う」ということばは大変重く、歴史のおそろしさを感じます。

 

幕末の会津と薩摩

坂本龍馬の薩長関係の仲介は、すでに慶応元(一八六五)年の夏、七月のグラバー来日の頃にはじまっています。グラバー商会から薩摩藩の名義で購入した銃を、経済封鎖されていたため武器の購入ができない長州藩へ運び、薩摩藩で不足していた米を長州藩から運んでいます。慶応二(一八六六)年の一月に薩長同盟が結ばれ、七月に徳川幕府の第一四代将軍家茂(いえもち)が、十二月には孝明天皇が亡くなりました。このあと、王政復古と倒幕が急激に進んでいくようになり、朝敵とされていた長州の人脈がまつりごとの中心に入ってくるようになります。

会津藩主の松平容保(かたもり)が京都守護職を命じられたのは、文久二(一八六二)年の閏(うるう)八月です。実は、少し遅れて薩摩の島津にも京都守護職任命の勅書が出されています。孝明天皇と松平容保の信頼関係はよく知られていますが、天皇は島津久光にも信頼をよせていました。結局久光が辞退したため、任命は実現しませんでした。京都守護職の設置について、教科書では「天誅などで京都の治安が悪くなっていたため」と説明されていますが、天皇の退位を画策する動きがあり、現実に実力行使の危険がせまっていたことも要因だと考えられます。

この頃実際に、薩摩は会津との連携も模索していて、文久三(一八六三)年の八月十八日の政変、翌元治元(一八六四)年の禁門の変(蛤御門の変)では、ともに長州から御所を守っています。薩摩はこの時期、イギリスとの間で生麦事件と薩英戦争を起こしていて、幕府を巻き込んだ大問題になっていましたが、もしも会津と薩摩がともに動くことが出来ていたならば、ちがう日本になっていたのでは…という想像も、孝明天皇の意を考えるとまったく無駄なものではないのかもしれません。

現実の歴史では長州と薩摩が手を組むことになり、一転して朝敵とされた戊辰戦争で会津の鶴ヶ丘城は落ち、白虎隊士や藩士の家族多数が自決、会津藩は下北半島の斗南へ転封となる非常に厳しい処分を受けました。西南戦争に参加した旧会津藩士で特に有名なのは、陸軍別働第二旅団所属で熊本城に入城した山川浩(大蔵)、警視隊所属で阿蘇で戦死した佐川官兵衛です。

警視隊は、警視庁が旧士族を中心に編成した部隊で、陸軍とは別の組織です。はじめは、警備や輸送などの後方支援にあたっていましたが、田原坂の攻防で官軍が苦戦したため、旧薩摩士族からの申し出によって精鋭を集めた警視庁抜刀隊が編成されました。抜刀、つまり刀を使った白兵戦のための部隊です。

会津藩の出身者が抜刀隊にどれくらい参加していたのかは、はっきりわかりませんが、西南戦争で警視隊に参加した福島県出身者は千百七十七名、そのうち戦死者は百四十三名でした。その心中は、薩軍への復讐心だけでなく、官軍側にも薩長出身の上官をはじめ戊辰の敵が数多くいたことを考えると、推し量るのは簡単ではないと思います。

 

「抜刀隊」の歌

 

我は官軍我が敵は 天地容れざる朝敵ぞ 敵の大将たるものは 古今無双の英雄で

これに従う兵士(つわもの)は 共に剽悍決死の士 鬼神にはじぬ勇あるも

天の許さぬ反逆を 起こせし者は昔より 栄えしためし有らざるぞ…

 

と「抜刀隊の歌」の詩ははじまります。六番まで続く歌詞のとおり、警視庁抜刀隊は激しい戦いで多数が戦死しました。この詩に曲をつけたものを編曲した「陸軍分列行進曲」が旧陸軍の正式な行進曲になり、今も陸上自衛隊と警察庁でつかわれています。

「敵の大将たるものは 古今無双の英雄で」は西郷さんのこと、「これに従う兵士」は薩軍諸隊のことで、最初に敵を非常にたたえているのがこの歌の特徴のひとつですが、太平洋戦争末期の日本軍の戦いを予見していたような印象もあります。

 

日向と日高見をつなぐリング

積さんが、福島の安達太良山に登られた後、二千十年九月二十二日の光文書に「最終知識のリングの謎」というタイトルで、次のような説明を書かれています。

 

「最終知識」に書かれた霧島から入って安達太良山から出るリングが、すべての人間のたましいのルーツである。そのリングはまず地の底に入って、たましいの奥底に強欲な生き方をしたものたちが行く地獄の刻印を押されて、地表に出て人間に宿る。そこに、最後の審判の仕組みが隠されている。

 

その光文書に掲載された通信の受信者は私ですが、通信は モーゼ ソロモン ダヴィデ ということばからはじまり、伏見稲荷と関係があるエジプトのアヌビス神と審判のことが記されていました。このリングの説明からも、明治維新からはじまった強欲な日本人の姿は、最後の審判のプログラムだったとわかります。

「日向と日高見」に対応しているはずの会津と薩摩の関係が、どのような意味をもっていたのか、まだわからないことがたくさんあります。過去の歴史から学び、日本人の役割と、本当にあるべき「国」とは何なのかを考える時に、大切な土地だと思います。