地震に追われ、一種の避難生活をするなかで、私は<クニトコタチ>のエネルギーが、日本全体をまゆのように包んでいた共同幻想の結界を吹き飛ばしていくのを知った。それは、ある種の感応力を持った人間に、明治維新のモチベーション以上の危機感、焦燥感を与えたように見えた。明治以来というより、日本の歴史そのものの変換点であることが、伝わっていった。もちろん、それは潜在意識といわれる領域のことであるが、現実上の日本の社会システムも崩壊することが、誰の目にもあきらかになっていった。アメリカとの敗戦でも変わらなかった日本の統治機構は、誰に対しても責任をとる必要のない、日本の文化的特質のうえで、安定しているかに見えた。
誰も責任をとらない社会システムが、この国を滅びに向かわせていくことに、すこしずつ気がつく人間があらわれた。戦争をはじめても、誰も責任をとる必要のないクニのかたちは、滅ばねばならない。伊勢の<アマテラス>は責任をとるために沖縄へ行った。その<アマテラス>が去ったあとで、<クニトコタチ>という封印された神が、やっと日本の地表にあらわれた。この神格は、地球の主宰神たるものである。
地の底から、立て替え、立て直しを宣言していた神格である。私は、その<クニトコタチ>のエネルギーが、もともとその神格に由来するいくつかの宗教団体を活性化させるかどうか興味を持って見ていた。ほとんど誰も感応しないと知って、軽い失望を覚えた。誰もつながっていなかった。それは、私が教えられていたことの証明ではあった。神界消滅にあわせて、神や神々となんらかのつながりを持った人間の回路も遮断されているはずだったから。しかし、せっかく予言された神界革命の進行に、誰も感応しないというわけではなかった。それは、精神世界とは、ほとんど無関係に生きている人間にあらわれていた。
そうした人間があらわれ、時代の変革期に、果たすべき役割があるのでは、と私に問うこともあった。それらの人間の多くは、そのたましいの奥に、変革期、革命期に生きるべきものという思い、生きた記憶が、プログラムされていた。それを簡単に前世の記憶というわけにはいかない。人間霊という問題と、たましいのプログラムという問題はイコールではないからだ。また、たとえプログラムを持っていたとしても、そのプログラムが発動する準備ができているかどうかというと、そうではなかった。時代の変革期に役目を果たすために生まれた人間は多い。私は、そのプログラムが読めたが、それを教えることはしなかった。すべてが終わるまで秘す、である。